36083 | 返信 | 平和民族の日清日露戦争(2) | URL | 小林 哲夫 | 2005/07/22 22:31 | |
武蔵の一住民さんの質問は意味があると思いました。 >『好戦的・戦闘的な民族も存在するのですかねぇ…(武蔵の一住民さん)』 私はバイキング、ジンギスカン、などは好戦的民族だと思います。 しかし平和民族は好戦的民族との対比で考えているのではなく、世界の常識が戦争社会で、それに対しての平和民族という見方です。 戦争社会とは、好戦的とはいえないが、いつも戦争に備えていなければならない社会のことで、それが世界の常識だったという意味です。 それでは日清日露戦争の歴史認識について続けます。 世界史のゲーム 維新によって国民国家になることに成功して、「世界史のゲーム」に参加出来たことを日本人は今でも誇りに思っていますが、私にとってそれは「戦争のゲーム」に参加して、侵略戦争をする仲間になったにすぎません。 世界の歴史を勉強すれば、この時代にグローバリゼーションの動きに歯止めをかけることは不可能だったということは理解できます。そして開国して文明開化に努めることは、時代の必然だったと認められます。日本にはそれ以外の選択は無かったとも言えます。 そういう意味で、「世界史のゲーム」への参加は「経済のゲーム」の範囲については必要であり、必然だったと認められます。 しかし「世界史のゲーム」は即「戦争のゲーム」では無い、という知性が働かなかったことを残念に思います。 経済の近代化は必要だが、戦争ゲームに参加する必要は無い、という知性です。 こういう私の希望は歴史のあと知恵であり、当時の人にそこまで望むのは酷だとは思いますが、せめて現代の日本人には、理解してもらえないかと思って書いています。 明治時代の人が懸命に生きたその成果は敬意をもって接しなければならないとは思いますが、敬意をもった上で別の道の可能性を探る試みも必要だと言いたいのです。 明治の人が西洋をこのように考えたことは無理も無い、しかし今から考えると、別な風にも考えられる、と反省するのが、歴史を学ぶ意味では無いでしょうか? やみくもに批判するのは間違いですが、全く批判精神を持たないで、全て鵜呑みにするのでは、歴史学の存在意義が無いと思います。 「世界史のゲーム」に参加しないわけには行かない状況ではあった。しかし「戦争のゲーム」には参加するべきではなかった、参加する必要も無かった、と言う私見を、日清日露戦争を例にここで説明したいと思います。 国民国家になることの必要性は認めるとしても、その国民国家の形は、日本の伝統にふさわしい別のイメージがありえたのではなかろうか? 少なくとも侵略国家にならない形であるべきだったという問題意識です。 |
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