36349 返信 殺してはいけない URL リー 2005/08/17 10:31
これまで幾度も戦争について議論してきた。小学校、中学校、高
校、専門学校、大学、ふり返ればおよそ「学校」という場で生徒
達とひととおり議論の場を持てた体験ができたことは、それなり
に貴重なのかも知れない。でも戦争についての議論は、無論、学
校だけではない。保護者会や企業、職場、市民集会、居酒屋から
親族や配偶者と、考えてみるとけっこう多岐にわたっているもの
である。

そんな自己体験を披露するのが目的ではない。それなりの各層を
通じて、共通している傾向について言及するための前提としてそ
んな体験をあげた次第である。

「戦争がなぜいけないのか?」この問いかけに最も納得のいく回答
をするのは、まちがいなくそれでも小学生なのである。回答はしご
く単純で「人を殺すことはいけない」というものである。おそらく
現在の小学生でもそのような傾向にあるのではないかと思われる。

しかし年齢があがるにつれ、つまり「大人」になるにつれ、戦争の
是非は次第に多様な意見に変化していく。そこに利益や愛国心、各
種のイデオロギーもしくは無関心等々の「思想」や「処世術」が付
着していき、大学生ともなると自信をもって「あの戦争は正しい」
と断言する人々に出会うこともめずらしくはなくなるわけである。

付言すると、残念なことに体験者も例外ではない。空襲を体験した
人々においては「自分に落ちてきた爆弾」が悪いのであって、それ
を想起させる映画等々には拒否反応を示すが、他国の空襲にはさほ
ど関心もないという人々は決してめずらしくない。無論、そんな人
々にとっては沖縄でさえ他国以外の何物でもない。
あるいは、直接何人もの人々を殺したという体験を持った人々の中
には、殺戮の中でわずかな「情け」をかけてやった出来事をこれみ
よがしく自慢したり、かつての戦地でありとあらゆる人種の女性を
抱けたと、それをノスタルジアとして「ありがたい思い出」として
しまっている連中もいた。戦争自体を告発するような体験者は、じ
つに「稀」であるのに対して、戦争における自国の被害や敗戦の責
任を問う人々となると格段に増えるわけである。

戦争は「殺してはいけない」という基軸をもって語られるべきだと
私は考えている。あるいはそれをもって検証しなければ何の意味が
あるというのか。それ以外の戦争云々は、それがたとえ美化や正当
化でなく、たとえ醜化であったとしても、さほどの差異はないであ
ろう。そして「殺してはいけない」という原初的感覚は、未来だけ
ではなく当然のことながら過去にも向けられる。すでに殺してきた
行為を過去のことであるからとして、どれだけご立派な説を唱えよ
うと、それは「殺してはいけない」という感覚を捨て去るに充分す
ぎるごまかしにすぎない。

「殺してもよい」「殺す義務がある」と殺人を政策(侵略戦争)に掲
げ、それを遂行することによって肥え太った先進国における戦争談義
こそ、「殺してはいけない」という感覚を子どもたちから奪う最大の
欺瞞として罪深いものがあるのではないかと考える次第である。