| 36381 | 返信 | Re:【クソサヨ】「マンガ嫌韓流」ってどうよ?【必死杉】 | URL | 毒芋虫 | 2005/08/22 06:17 | |
| はーい、毒芋虫でーす。 「嫌韓流」ですが、実は吾輩は読んでいない。買っただけ。ノンポリ君はちゃんと読んでるのだから偉いよね。 > 5.「その頃には安重根義士のような、日帝の支配に抵抗した英雄もいるんだ!」 > 「ああ、韓国併合に慎重な姿勢を示し、併合賛成派を抑えていた伊藤博文を殺害したテロリストね」 > > 伊藤博文がある時期まで、日韓併合ではなく保護国化を目指していたことは事実である。彼は保護国経営の為、司法制度整備、銀行設立、教育振興、殖産興業など、様々な施策を打ち出したが、その最大の障壁となったのが、激化する一方の「義兵闘争」だった。 > また日本人から伊藤の「懐柔政策」を批判する声も高まっていった。例えば韓城の邦字新聞「京城新聞」は、統監府が「韓国内閣と韓国人操縦に汲々」とし、日本側の財政負担のみ増大させている事と、義兵闘争への対策が手ぬるいことに、「当局之が鎮圧の策無くんば責任を負いて退くべし」と批判した。 > それらのプレッシャーに屈した伊藤は保護国化案を捨て、併合案に転じたのである。 > 「伊藤博文伝」によると、1909年4月、桂首相と小村外相が伊藤に恐る恐る「韓国の現状に照らして将来を考量するに、韓国を併合するより外に他策なかるべき事由を陳述」すると、 > 「公は両相の説を聞くや、意外にもこれに異存なき旨を言明」し、なおかつ桂・小村の提示した「併合の方針」についても、「その大網を是認」した。 > その2週間後の東京での演説でも伊藤は、「今や方に協同的に進まんとする境遇となり、進んで一家たらんとせり」と併合を示唆し、聴衆を驚かせたという。そして同年5月、統監職を辞職する。 > 伊藤の翻意を確認した桂首相と小村外相は、「対韓大方針」と「対韓施設大網」を作成し、「韓国」を併合する方針を明らかにし、韓国保護国化政策に全く未練が無くなった伊藤は統監辞職後4度目の枢密院議長に就任し、事後処理の為訪韓し陣頭指揮に立ち、「韓国」政府に「韓国司法及監獄事務委託に関する覚書」を調印させ、また「韓国軍部廃止勅令公布」を行わせた。 > > 5のおまけ.「彼(伊藤博文)へのテロ行為が併合への動きを加速させたのよ」 > > ・・・アホか?伊藤が指示した、朝鮮政府からの司法権の剥奪と軍隊の解散は、完全に朝鮮の国の主権を奪うことであり、「併合への動きを加速させた」ことに他ならない。 > 「こうして伊藤は、つみあげてきた保護国構想を自らの手で壊し、併合への道を掃き清めて韓国を去った」(韓国併合) ノンポリ君のトンチンカンな解説をいちいち検証するのは面倒くさいので↑だけ取り上げます。 まず、1909年7月4日に韓国併合の方針が閣議で承認されますが、併合時期、併合時の形態は未定なんですな。ウィキペディアの伊藤博文の項では「日韓併合には当初より反対の立場を取り、国内の産業育成優先を唱えていた。初代韓国統監府長官の職を経てもその意見は変わらず、1909年7月に韓国併合の基本方針が閣議決定されてもなお、「本格併合は将来的な課題」として抵抗を続けていた。しかし、同年10月に安重根によって伊藤は暗殺される。 伊藤の暗殺によって併合に抵抗する有力な政治家がいなくなり、また元老の一員が暗殺されたことによって日本の世論が大きく併合へと傾いたことなどから、翌年の日韓併合条約締結へと急速に事態が進行することとなった。」とあります。また、併合時の形態についても、伊藤はもっと緩やかなものを考えていたようです。(海野福寿氏の説) つまり、伊藤侯爵暗殺は韓国人にとって害こそあれ、何の利益も無かったってことです。 |
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