36440 返信 Re:【ウィキペディア】「マンガ嫌韓流」ってどうよ?【信用できるの?】 URL ノンポリ 2005/08/24 13:30
「百人斬り訴訟」全面棄却おめでとうございます!
「沖縄集団自決冤罪訴訟」も棄却に追い込みましょう!

それでは本題・・・

> はーい、毒芋虫でーす。

だから自己紹介はいらんちゅうに・・・

> 「嫌韓流」ですが、実は吾輩は読んでいない。買っただけ。ノンポリ君はちゃんと読んでるのだから偉いよね。

変な奴。せっかく萌えキャラもいるのにw

> > 5.「その頃には安重根義士のような、日帝の支配に抵抗した英雄もいるんだ!」
> > 「ああ、韓国併合に慎重な姿勢を示し、併合賛成派を抑えていた伊藤博文を殺害したテロリストね」

> >
> > 伊藤博文がある時期まで、日韓併合ではなく保護国化を目指していたことは事実である。彼は保護国経営の為、司法制度整備、銀行設立、教育振興、殖産興業など、様々な施策を打ち出したが、その最大の障壁となったのが、激化する一方の「義兵闘争」だった。
> > また日本人から伊藤の「懐柔政策」を批判する声も高まっていった。例えば韓城の邦字新聞「京城新聞」は、統監府が「韓国内閣と韓国人操縦に汲々」とし、日本側の財政負担のみ増大させている事と、義兵闘争への対策が手ぬるいことに、「当局之が鎮圧の策無くんば責任を負いて退くべし」と批判した。
> > それらのプレッシャーに屈した伊藤は保護国化案を捨て、併合案に転じたのである。
> > 「伊藤博文伝」によると、1909年4月、桂首相と小村外相が伊藤に恐る恐る「韓国の現状に照らして将来を考量するに、韓国を併合するより外に他策なかるべき事由を陳述」すると、
> > 「公は両相の説を聞くや、意外にもこれに異存なき旨を言明」し、なおかつ桂・小村の提示した「併合の方針」についても、「その大網を是認」した。
> > その2週間後の東京での演説でも伊藤は、「今や方に協同的に進まんとする境遇となり、進んで一家たらんとせり」と併合を示唆し、聴衆を驚かせたという。そして同年5月、統監職を辞職する。
> > 伊藤の翻意を確認した桂首相と小村外相は、「対韓大方針」と「対韓施設大網」を作成し、「韓国」を併合する方針を明らかにし、韓国保護国化政策に全く未練が無くなった伊藤は統監辞職後4度目の枢密院議長に就任し、事後処理の為訪韓し陣頭指揮に立ち、「韓国」政府に「韓国司法及監獄事務委託に関する覚書」を調印させ、また「韓国軍部廃止勅令公布」を行わせた。

ちなみにこれらの施策は、海外の記者にも驚異の目を見張ったようである。
「7月23日――新協商の条項により、日本は朝鮮に於ける権力を固め、完全併合しかない所まで進めた。日本は既に軍事力、外交、警察組織、財政、通信、運輸と司法を支配している。朝鮮政府に名目的に残っているのは、内部、学部、農商部省で、これらは国民に直接関係するとはいえ、統治というより行政の官庁だ―――1909年7月24日 ノース・チャイナ・ヘラルド」(「海外の新聞に見る日韓併合」杵淵信雄/著 彩流社 P-228)
「韓国併合に関する条約」が調印されたのは翌年だが、すでにこのとき朝鮮半島は実質的に併合されていたに等しい。それを行ったのは伊藤博文その人である。

> > 5のおまけ.「彼(伊藤博文)へのテロ行為が併合への動きを加速させたのよ」
> >
> > ・・・アホか?伊藤が指示した、朝鮮政府からの司法権の剥奪と軍隊の解散は、完全に朝鮮の国の主権を奪うことであり、「併合への動きを加速させた」ことに他ならない。
> > 「こうして伊藤は、つみあげてきた保護国構想を自らの手で壊し、併合への道を掃き清めて韓国を去った」(韓国併合)
>
> ノンポリ君のトンチンカンな解説をいちいち検証するのは面倒くさいので↑だけ取り上げます。

「他の部分は認めたくないけど反論出来ない」って素直に言いなさいw

> まず、1909年7月4日に韓国併合の方針が閣議で承認されますが、併合時期、併合時の形態は未定なんですな。ウィキペディアの伊藤博文の項では「日韓併合には当初より反対の立場を取り、国内の産業育成優先を唱えていた。初代韓国統監府長官の職を経てもその意見は変わらず、1909年7月に韓国併合の基本方針が閣議決定されてもなお、「本格併合は将来的な課題」として抵抗を続けていた。

ソーズキボンヌ。つーか伊藤博文は強硬論を抑えつつ、上手に朝鮮を併合しようとしていたと思われ。
伊藤が射殺されたのはソウルでも東京でもなく、ハルビン(黒龍江省・哈爾濱市)だった。「満州漫遊」という名目だったが実際は、ロシアの外相と間島(現在の中国吉林省の「延辺朝鮮族自治州」のあたり)の問題について交渉する目的の旅だった。しかしそれだけが目的ではないという見解もある。
以下は「伊藤博文を撃った男 革命義士安重根の原像」(斉藤充功/著 時事通信社)より引用。
「しかし、伊藤のハルビン来訪の真の目的は日露の満州経営問題より、韓国併合についてロシア側と協議することにあったようだ。伊藤の腹のうちは次のようなものであった。まず韓国と国境を接し政治権益を有しているロシアと清国に対し韓国併合の必要性を説明し了解を得る。そして、最初の交渉相手がロシアで、極東巡察のスケジュールを組んだココーフツオフ蔵相とハルビンで会談する」
「それに、条約
(第一次日露協約)には『日本が韓国に対する一切の指導権を握る』ことが明記されていたので、伊藤としてはココーフツオフと韓国併合問題を話し合うことは、それほど難儀なことではなかったはずである。伊藤は初代の韓国統監として『併合』の推進役を果たした。統監の職権は韓国の外交を監督し、軍隊の使用権も握っていったのである」(P-17〜18)

この時伊藤は68歳。当時東京から中国内陸部のハルビンまで行くのに何日かかったんだろう?朝鮮の軍隊を解散させ司法権を奪った件でも、伊藤自身が漢城(ソウル)に赴いて指揮をとっていたという。59歳にして24時間マラソンに挑む丸山センセも凄いが(俺なんか24秒も走れんw)、老体に鞭打って何度も海を渡った伊藤も大したもんである。伊藤は日韓併合に並々ならぬ情熱を注いでいたようだね。
ちなみに同じ年の夏、「ソウルを立つ際に、側近の部下に『日露戦争の直後に直ちに断行しておけばよかった』と答えたという」(「海外の新聞に見る日韓併合」P-291)

> しかし、同年10月に安重根によって伊藤は暗殺される。
> 伊藤の暗殺によって併合に抵抗する有力な政治家がいなくなり、また元老の一員が暗殺されたことによって日本の世論が大きく併合へと傾いたことなどから、翌年の日韓併合条約締結へと急速に事態が進行することとなった。」とあります。

伊藤は「併合を推進する有力な政治家」ですが何か(w
つーかウキベデアに書いてあることを根拠にするのはどうかねえ。参考程度ならともかく。あれって結局単なる掲示板だぞ。
なにしろ「南京大虐殺」で検索すりゃ、
「このページ、「南京大虐殺」は編集合戦などの理由で編集保護されているか、あるいは保護依頼中です。このページの編集を中断して、ノートで議論を行い合意を形成してください。」
だし、「三光」で検索かけりゃ、
「この記事について、中立的な観点の面から議論中です。詳しくはこの記事のノートを参照してください。」
だもんね。だいぶヴァカウヨの汚染が激しいようでw
一番ワロタのは「日韓併合」という項目の、
「創氏改名については朝鮮名のまま中将にまで昇進した軍人がいたことから実際は無かったと思われる。」
てゆう部分。これ書いた奴は、(様々な議論はあれども)「創氏改名」と呼ばれる制度自体は存在したことすら、知らんようである。
よーするにウキベデアに書いてあることを主張の根拠にするっつーのは、2chや最近はやりのウヨ系ブログでどこの馬の骨とも知れぬ厨房が貼り付けた、ソースも定かでない怪コピペを持ち出すのと同然ですな。

> つまり、伊藤侯爵暗殺は韓国人にとって害こそあれ、何の利益も無かったってことです。

伊藤博文の暗殺が、併合実現にプラス方向だけに働いたとは言えないだろう。
「しかしながら日本にとって、併合が欧米列強に承認されたわけではなく、その意味で危機的状況が解消されたわけではなかったことは、以前と同様だった。
伊藤博文の暗殺は各国に大きな反響を呼んだが、各国はむしろ、この事件を契機として日本が朝鮮を併合することを懸念していた。
たとえばイギリス政府は、駐日大使マクドナルドを通じて日本政府の意図を照会した。これに対して小村外相は、当分は現状維持政策を続けると述べている。イギリス政府は、伊藤の死によって山県に率いられた軍部の力が強化され、それが朝鮮に対する強硬方針となって現れることを、懸念していたのである」

(「日本歴史叢書 日韓併合」森山茂徳/著 吉川弘文館P-200)

しかし明治政府は伊藤の死後も各国と着実な交渉を重ね、列強の承認を取り付けて安全に(?)朝鮮を併合したのである。
当時の日本は朝鮮半島の問題だけでなく、豆満江を挟んで中国と朝鮮が国境を接する間島にも強い関心を払っていた。たとえ朝鮮を併合しても古くから国境紛争の舞台だった間島にロシアの勢力が及ぶようなことがあれば、朝鮮の支配すら危ぶまれると考えていた。日本にとって朝鮮と間島の問題は不可分だったのである。
日本は間島への野心を抱きつつも、結局は1909年9月の「間島に関する日中協約」によって、間島は中国の領土であることを認めた。しかしこの条約には吉林と長春の間の鉄道を朝鮮の会寧まで延長する条項もあり、これがロシアを刺激することになった。
しかし1909年12月、アメリカが提起した「満州鉄道中立化案」が、事態を進展させることになる。ロシアはこの提案を、アメリカが「満州」の権益を狙っていると受け取った。「満州」に執着する日本もアメリカの横槍に同意するはずがなかった。満州への野心を滾らせつつも互いを恐れている日露両国はアメリカ案を一蹴し、1909年11月に日本側が提示した新たな日露協約案に基本的な合意を成立させた。この中でロシアは日韓併合を承認している。(第二次日露協約の調印は1910年7月、韓国併合条約は翌月。またイギリスとも5月に承認を得ている)

このように「慎重な姿勢だった元勲が一人殺されたから併合が進展した」なんて、単純な話ではない。日本は「慎重」に列強の顔色を窺いつつ、朝鮮への侵略を進めていたのである。伊藤が殺されなくても結果は同じだったろう。
ところで、あのマンガの作者も、芋タソも含めたネットウヨ連中も、押しなべて「朝鮮が日本に併合されたのは安重根が悪い!」と言いたげな主張をしている。
しかしよく考えてみろよ、朝鮮を日本に併合させたのは安重根ではない。日本が朝鮮を併合したのである。この侵略・植民地支配について責められるべきなのは安重根ではなく、日本なのである。「俺が殺人犯になったのは2chなんか作ったひろゆきが悪い!」とネオ麦茶が言うようなもんである(ちょっと違うか?)
こういう倒錯を続けている限り、おまいらの主張は物笑いの種になるのが関の種だと思うが、どうよ?