36458 | 返信 | Re:原告敗訴は「やむをえない」。 | URL | 八木沢 | 2005/08/25 01:26 | |
敢えて挑発的な表現を使用しているにも関わらず、それに惑わされずにちゃんと投稿の主旨を読み取って「まだしも理性的」と感じてくれるクマ氏はさすがである。それに比べてSONG氏のピントのズレたいいがかりは、相変わらずいただけない。 >大丈夫か?自分が言っていることの矛盾に気がつかないなら、難しいことに首突っ込まない方が身のためだよ。つまり、「法治国家」たる日本の司法府は「与太話」や「講談話」に正当性を与える低劣な国家であると言うことで良いのだな。そんな低劣な「権力」であれど「権力」には何ら自己の検証もなく’無条件’かつ’無感覚’に従うことに八木沢氏の「やむをえない」美学があるのか。 ちっとも「難しいこと」ではない。個人の情熱や美学は人間にとって当然最も大事なものの一つだが、しかし同時にこの社会には最低限守るべきルールというものがある。裁判で決着をつけると決めて、その選択に基づいて闘争をした以上、気に入らない結果が出たからといってそれをまるで最初からなかったことになどできるわけがない。裁判所が”「与太話」や「講談話」に正当性を与える”可能性があることなど最初から分かっていたことである。それが嫌なら法廷闘争などするべきではないし、ひょっとしたら勝訴して憎き本多勝一やアカイアカイアサヒをギャフンといわせて溜飲を下げることが出来るかもと考えてこの闘争を始めたのではないのか。ならば、逆の結果が出て憎き本多勝一やアカイアカイアサヒがますます力を力をつけたとしても、自分でまいた種である。裁判で勝負に出るということは、どんな結果が出ても文句を言わないというルールを受け入れたということである。「支那人はバカだから」などという胡散臭い「証言」が戦後だいぶたってからされているのを「証拠だ」と主張するような輩にも呆れるが、ある事柄について裁判所の判断を求めるということがどれほど重いことかも理解していない輩には、もっと呆れる。時に個人のちっぽけな美学など、法という土俵では屈服せざるを得ないのである。法のお墨付きを求めたのは原告側・支援者である。それほど立派な美学があるのなら、最初から法になど判断を仰がなければよい。ある権力に無条件に従うのか、などという問題提起は的外れである。これは権力によって押し付けられたのではなく、自分たちから適用を求めたルールである。それを厳粛に受け入れる覚悟を持つのも、あるいはまた一つの「美学」となるのではないだろうか。あまり往生際の悪いことをするなということだ。 |
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