36526 返信 Re:百人斬り裁判(国際法と世界人権宣言)-修正済み URL tpkn 2005/08/29 11:41
五番街さん

> 私がそんな箇所を挙げる必要はありません。挙証責任は、私の「まとめ」がデタラメだと最初に主張したアナタにあるのです。アナタの「まとめ」が正しく、私の「まとめ」が間違っていることを論証してください。この要求は、これまでにも何回も出していますが、いっこうに責任を果たそうとしていないですね(できないからですか?(笑))私の反論は、アナタが挙証責任を果たしてから行います。

あなた、私が挙証責任を果たしておらず、それがなされてから反論するといいながら、

> さて、つぎに移ります。
>
> > この主張に対して私の反論を箇条書きすれば次のようになります。

反論しまくりではないですか(笑)。当然ながら、私の論証は、あなたが反論を寄せている「この主張」の部分ですよ。無駄な言いがかりで行を費やすのはおやめください。

> この時点ですでに意味がわからないわけです。「この条例には罪と罰が規定されており、刑罰法定主義(罪刑法定主義?)の原則が採用されている」にもかかわらず、「罪刑法定主義を国際法に適用すること自体が間違っている」と言うのは矛盾しております。(tpknさん)
>
> アナタが意味が分からないとか、矛盾しているなどと考えること自体、アナタのアタマが悪いからです。国際法違反者の処罰の仕組みが理解できていないからです。で、小学生にも分かるように説明してあげましょう。

はい、お願いします。

> まず、罪刑法定主義は、具体的な「罪」の規定と、それを犯した場合の「刑」の規定を法律によって明示することです。そして、たとえば「罪」の規定があって、「刑」の規定が存在しない法律の場合には、その罪を犯した者に対して刑を科すこと、すなわち、処罰を行うことができない、という考え方です。さらに、罪刑法定主義は、明示した「罪刑」以外の適用を否定することから、事後法の禁止および慣習法の禁止が派生原則になります。

はい。で、極東軍事裁判条例には「罪刑法定主義の原則が採用されている」わけですよね?

> この原則を国際法違反者に適用した場合、罰則規定がないことが国際法の特徴であるから、違反者を処罰することはできない、という結論に達します。そして、東京裁判において国際法違反者を処罰したことは、この罪刑法定主義を無視した勝者による恣意的な判決であり、不当だ、という主張がなされています(告天子さんの主張も、おおむねこのようなものです)。

告天子さんの主張はそうではありません。告天子さんは「罰則規定がない」から罪刑法定主義を無視していると言っているのではなく、「罪の規定がない」から罪刑法定主義を無視していると言っているのです。これが、ドリトルケースは正当だが東京裁判は不当だとする根拠ですね。あなたはその点をいつまでたっても誤解しています。

> 韓国併合が合法であろうと違法であろうと、現在から考えれば不当であることには変わりないというのと同じ論理です。(tpknさん)
>
> 韓国併合に関しては私は意見を留保しますので、コメントをいたしません。

これは韓国併合について述べたものではありません。論理の仕組みを例示したものです。仮に韓国併合が「合法」であったとすれば、あなたはそれを正当なものだと考えますか? あるいは、欧米列強のその他の植民地支配や、人種差別政策についてはどうでしょう? これらは、当時「合法」だったことをそれ自体に対して、現在の評価を下さなければ意味がないのでは?

> 違います。国際法裁判である東京裁判およびドーリットル裁判の、国際法違反者に対する処罰の仕組みを述べたものです。極東軍事裁判所条例は、国内法(軍律)であるため、罪刑法定主義の原則に準拠していることを指摘したものです。

ふむふむなるほど。

> これも違います。告天子さんの言いたかったのは、「国際法には罪の規定が存在しないので、罪刑法定主義の原則からすれば、国際法違反者を東京裁判で処罰するしたことは不当だ」ということであろうと考えています。私がここで指摘していることは、この告天子さんの見解に対する反論でもなんでもありません。国際法とは異なり、東京裁判の直接的な管轄法である極東軍事裁判所条例は、国内法(軍律)であるため、「罪刑」の規定が存在するのは当然だ、ということです。

極東軍事裁判条例が「国内法」でるから、「罪刑の規定が存在するのは当然」だとして、それは戦争が終わった後に定められたものですから、遡って適用させれば「罪刑法定主義」と言うことはできませんが? 罪刑法定主義とは、罪と罰をたんに「規定」することではなく、「あらかじめ規定」することでしょう?

それから、あなたのこの論旨は、

> この仕組みの特徴は、国際法違反者を、「国際法違反者」として裁くのではなく、各国にその処罰を委託していることです。そして各国では国際法をベースとする国内法(あるいは軍律)を制定し、国際法違反者を、その国内法違反者として、各国内で裁判にかけ、処罰することです

という部分とも矛盾しております。すなわち、極東軍事裁判条例によって「規定」されるべき「罪」とは、「国際法をベースと」しなければならないわけでしょう? 「国際法をベースと」しているからこそ、この場合の罪の規定が単に「規定」なのではなく、「あらかじめ規定」ということになるわけでしょうに。でなければ、単に事後法なのであって、そういうものを「罪刑法定主義」とは言わないということです。これが、罪刑法定主義について八木沢さんに「無知」とつっこまれている部分です。

> これは、当時の国際法も罪刑法定主義の観点から見て正当だという主張でしょう。
>
> これも違います。tpknさんは、極東軍事裁判所条例が国内法(軍律)であることが理解できず、国際法と考えてしまっています。そのため、こんな馬鹿げた見解が出されたのです。私が言いたいのは、国際法は、罪刑法定主義のワクの外にある法であるから、このような独特の仕組みによって処罰が行われている、ということです。

そりゃ馬鹿のひとつ覚えです。上記の通り、戦後に制定された極東軍事裁判条例が罪刑法定主義の要件を満たすためには、少なくとも罪の規定が「国際法をベースと」していなければおかしいでしょう。告天子さんの言っていることは、「国際法に罪の規定がない」ということであり、八木沢さんの言っていることは「国際法をベースと」することがすなわち罪刑法定主義であるということです。

> 以前に書いたように、(1)ー(6)は国際法裁判における国際法違反者の処罰の法的仕組みを説明したものであり、(7)および(8)は、その結論です。八木沢さんのアホらしいところは、東京裁判あるいはドーリットル裁判などの国際裁判を無視して、その後の1948年の世界人権宣言を持ち出していることです。そして、【国内刑法の原則である罪刑法定主義は(少なくともこの50年間は)国際法にも適用される」】と述べていることです。告天子さんと私の議論のテーマであった東京裁判などは、完全に置き去りにされています。

当たり前です。別の話題ですから(笑)。

> まず、【空襲軍律は「刑罰法定主義の原則が採用」されて】いるのは、この軍律が国内法であるから当然なのです。しかし、【(空襲軍律に)「事後法の採用も織り込」まれているということでしょう?】というのは違います。空襲軍律のベースとなった「空戦に関する規則」は既存の国際法であり、新しい罪を設定したものではありません。(もっとも、事後法と空襲軍律に関しては、検討すべき問題がありますが、tpknさん程度のアタマでは混乱するだけのことでしょうから、述べないことにします。)

えーと、「事後法の採用を織り込んだ」とは、「事後法を禁止する」という意味ではないのですか? なるほど、これであなたの言わんとすることがだんだんわかってきました。

> 「第二次世界大戦の終了後のニュルンベルグ裁判および東京裁判の時点までに、それ以前の国際法(戦争法)に罪刑法定主義を適用しようとする動きあるいは傾向は全く見られません」とはどういうことでしょうか?
>
> つまり、従来の戦争法を修正して、罰則規定を設定したのではないという事実を指摘したに過ぎません。

国際法の罪刑法定主義はそれに対応する(あなたの言葉で言えば「国際法をベースとする」)国内法の罰則規定とセットになっているのですから、国際法に罰則規定を設定するかどうかなどという議論は誰もやっていないのですけど。

要するに、あなたは、国際法には刑罰の規定がないから罪刑法定主義ではないと言っているだけでしょう?

> この見解も同様に、罪刑法定主義に関する無知が原因となっています。前述のように罪刑法定主義は、「罪」と「刑」を法律によって明示することを意味します。つまり、明示された「罪」以外の罪には法律は適用されないのです。したがって、ハーグ法の「事後法の採用を織り込んだ」マルテンス条項は、「罪」を明示しているのではないため、世界人権宣言を適用すれば、無効あるいは無意味なものになります。そのため、この宣言を遵守するならば、ハーグ法を修正し、「罪」と「刑」を明示しなければならないのです。しかし、1978年の第一議定書では、そうならず、依然としてマルテンス条項を採用しています。

> であれば、「平和に対する罪」とはそのマルテンス条項を根拠にしているのだという話であって、「罪刑法定主義の原則が戦争法にも適用されなかった」のではなく、その逆でしょう? (tpknさん)
>
> このコメントも同様に、罪刑法定主義および事後法に対する無知によるものです。たしかに「平和に対する罪」はハーグ法のマルテンス条項を法的根拠としていますが、マルテンス条項は、「平和に対する罪」を明示規定していません。したがって、罪刑法定主義を適用した場合、「平和に対する罪」が明示されていない以上、この「罪」を問うことはできません。

はい、ここであなたの見解は告天子さんの見解と一致しました(実は最初のほうのやりとりでも一致しておりますけど…w)

> ところが、マルテンス条項の趣旨は、ハーグ法において規定されなかった行為についても、一般良心に反する行為あるいは人道に反する行為などであれば、実行の時点で国際法違反となる、ということであり、極東軍事裁判所条例が設定した「平和に対する罪」(侵略戦争の罪)は、それが実行された時点で国際法違反となるのであり、したがって、通常の意味での事後法とはやや異なります。

それはつまり、「一般良心に反する行為(平和に対する罪)」はハーグ法において規定されていなかったものだということでしょう? これは、世界人権宣言に照らし合わせれば、理念として対立するものであるということですね。

> これは全くトンチンカンな意見です。いつものことですが。たしかに告天子さんは「(国際法に)罪の定めがないから(国際法違反者を東京裁判で処罰したことは)罪刑法定主義の観点から見て不当だ」という意見ですが、私の反論は、「国際法に罪刑法定主義を適用することが間違っている」、というもので、このように反論する理由については、これまでに数多く説明しています。

いえ、あなたの言う「国際法に罪刑法定主義を適用することが間違っている」というのは、世界人権宣言の条文と照らし合わせて考えれば事実とは言えないでしょう。あなたの言っていることは単に現状追認です。

> これは、<占領地>という特殊な状況において、その地の「現行法律」は「罪刑法定主義」の原則に準拠していると言う意味であり、tpknさんは私の文章を理解する能力に問題があります。このような特殊なケースを除いて、「国際法に罪刑法定主義を適用すること自体が間違い」という主張は妥当なものです。

国際法(あるいは戦争法)とは国家間の紛争を解決するためのものではないのですか? だとすれば、「占領地という特殊な状況」「このような特殊なケース」という捉え方はおかしいでしょう。まさにそういう状況で何をどうすべきかということを定めたものが戦争法ではないのでしょうか。

> なにが「したがって」なのかさっぱりわかりません。あなたの言っていることは、1899年にはハーグ法にすでに理念として罪刑法定主義が黙示的に示されていたが、それが78年の第一議定書でより明確にされたというだけの話であって、依然として国際法も体系としては罪刑法定主義を基本としていることにはかわりありません。(tpknさん)
>
> 「さっぱりわか」らないのは、アタマが悪いからです。tpknさんには、<占領地>という特殊な条件がつけられていることが理解できていません。これは、日本語の文章を理解する能力の問題です。「依然として国際法も体系としては罪刑法定主義を基本としていることにはかわりありません」というtpknさんの見解は間違いです。このことについては、すでに何回も説明しました。

「占領地という特殊な条件」において、「1899年にはハーグ法にすでに理念として罪刑法定主義が黙示的に示されていた」のであれば、東京裁判という、まさに「特殊な条件」下では当然罪刑法定主義が適用されなければいけないのは火を見るよりあきらかでしょう。

> 言うまでもなく、この場合の適用とは、そのような判例があるかどうかということではなく、上記(2)であなたが「刑罰法定主義の原則が採用されている」と書いたときの「採用」と同じ意味です。よりわかりやすいことばになおせば、「あてはめて」ということですね。ここでは法律がどのような理念を採用しているかという話をしているのであって、実際にどのような判決が出たかということを言っているのではない。いや、そういう判決がないとしたら、そのこと自体が不当であるとして問題とされているわけですね。(tpknさん)
>
> 前回の投稿で述べたように、世界人権宣言は勧告あるいは推奨であり、各国に対して義務づけるものではなく、法的拘束力はありません。

いえ、告天子さんとウーロン茶さんは、「何が正当か」という話をしていたのですから、法的拘束力があるかないかということはとりあえずあまり関係ないかと思います。繰り返しますが、韓国併合が正当であったかどうか、あるいは各種人種差別法が正当であったかどうかは、法的拘束力の有無とは関係ありません。議論のレベルはそこにあるのであって、「義務がないから守らなくていいのだ」というような話をしているわけではありません。

要するに、ハーグ法(あるいは国際法)は人権という観点から見ればはなはだ問題のある法律であるということをあなたは明らかにしているだけの話であって、東京裁判を正当化するためにそこに安住するか、人権や平等という観点からそこに問題を見出すか、その違いでしょう。言うまでもなく、私は後者の立場に立っております。