36547 | 返信 | 西洋人の武装観 | URL | 小林 哲夫 | 2005/08/30 08:28 | |
工藤猛さんは日本で生活している限り拳銃を持ちたいとは思わない、という点が全く日本的だと解ります。 個人として武装したいという権利意識が全くありません。 >『日本国内の秩序に従っているから一般市民として拳銃を持たないだけだ。 アメリカ流の秩序になったら個人で武装するよ。(工藤猛さん)』 西洋人にとっては、個人の武装は譲ることの出来ない権利なのです。 アメリカ憲法では 「規律ある民兵は自由な国家の安全に取って必要であるから、人民が武器を保蔵し、または武装する権利は、これを損なうことが出来ない。」 と国防のために、人民の武装する権利を認めています。 工藤猛さんには不思議に思えるでしょうが、個人の武装は国防に結び付けて必要と考えられるのがアメリカの常識です。 日本人である工藤猛さんは国防のことに熱心であるように見えますが、自分自身の武装の自覚までに至っていないという意味で中途半端なものです。 日本では秀吉の刀狩以来農民は武器を持たないのが常識でした。 明治の廃刀令で武士も武装解除されました。 西洋ではこんなことは絶対に考えられません。 フランス革命は武器を持った市民によって起こされたものですが、明治維新では武器を持たない農民には無関係に進みました。だから流血の度合いが全く違うものになりました。 西洋人にとって個人の武装を禁止するなどということは考えることも出来ません。 その例をヨーロッパの憲法の「集会の自由」の項目で見ることが出来ます。 その一例として、ドイツ憲法(1949年)8条に 「全てのドイツ人は、・・・武器を携帯しないで集会する権利を有する。」 とあります。 つまり「武器を保有していることは当然」という前提で書かれていることが解ります。 武器保有の権利を書く必要性さえ感じていないのが西洋です。 刀狩以来の日本の伝統を、「だから従順な国民性になった。」と軽蔑的に見る人がいますが、それは西洋思想に蝕まれた、哀れな人です。 世界の国々では治安のために個人の武装を禁止する方向に動いており、日本がこの点で先進国に当たるという誇りを持って欲しいと思います。 アメリカ憲法で見たように、国の軍隊は個人の武装の延長上にあるものです。 個人の武装が基本にあって、それを強化するものとして軍隊があります。 自分や家族の命を守るために個人は武装し、それを確実にするために、つまり家族を守るために軍隊を持つ、というのが西洋の軍隊です。 だから個人が武装していないのに、国が軍隊を持つというのは、論理が逆転しています。 日本においては、個人が武装する必要を感じないのですから、国も軍隊をもつ必要が無い、と考えるのが筋です。 以上で言いたいのは、日本は自衛について特異な国民性があるということです。 戦争、平和、自衛、軍備、自衛などについて、日本は世界の中では特異な感覚を持っている、ということを自覚して、日本にふさわしいあり方で世界平和に貢献すべきだということです。 |
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