36574 返信 必死と決死 (日本は非軍事社会) URL 小林 哲夫 2005/09/01 07:59

この二つの言葉の意味が違うのかどうか、本当のところは知りませんが、私は次のように考えました。
10人の敵と一人で戦うのは決死の覚悟が必要です。
神風特攻隊は必死の覚悟です。
つまり生き残れる確率が1%でもある場合を「決死」、可能性が無い場合を「必死」という言葉とします。

日本人の戦争は戦争それ自体が「必死」であり、西洋人は「決死」にはなっても「必死」にはなれないと考えます。

「武士道とは死ぬことと見つけたり」という言葉もこのことを意味していると思います。

日本人兵士は戦争に行く時に既に死を覚悟しています。
だから捕虜になりそうになったら簡単に自殺します。
特攻隊にも簡単に志願します。

日本人は戦争を日常世界とは別の異常な事態と理解し、当然死ぬことだと覚悟して軍隊に入ります。

ところが西洋人は、戦争を日常生活の延長と考えていますから、生きることを諦めるなどということはしません。

このことは一時帰休制度に現れています。
西洋の軍隊には戦争の最中にも必ず一時帰休の制度があります。
負けそうになっていても軍隊はこの制度は絶対に守ります。
ドイツは敗戦の直前まで実施しました。
それは一度日常生活に戻して、日常感覚を取り戻すことが、戦意の高揚に必要だからです。
西洋社会は潜在的軍人社会だから、一時帰休の間と戦場の間には、感覚の違いは存在しません。

ところが日本ではこんなことはとても考えられません。
軍隊に入ったら娑婆とはそこでおさらばと感じるのが日本人です。

ここで解るのは、西洋は戦争を日常生活の延長と考えるから、日常感覚を維持する必要があるのに対して、日本人は軍隊に入る時に、日常生活を諦めて別の世界に入るという違いがあります。

この異常な軍隊生活を維持するために、西洋に見られない慰安婦制度が日本では必要になります。

日本では兵士を一般社会から隔離するために最大の努力をします。
軍人は坊主頭にしたのがこのことを示しています。
坊主頭は一種の出家なのです。

軍隊の階級関係は一般社会とは別の秩序を持って、別社会を作っていました。

日常生活では武器を持ったことの無い人が、武器を持つのは別世界です。
日常生活で武器を持っている西洋人は、軍隊を別世界とは感じません。

武器に慣れていない日本軍は武器をやたらに大事にするというひずみを生みました。(員数あわせなどは、現在の自衛隊でも引き継がれていると言います。)
武器を崇める風習は武器の進歩を阻害して、明治38年以来の三八式歩兵銃が太平洋戦末期まで使われ続けることになります。

これらは全て日本社会が非軍事社会であったことを示しています。

東條首相は「清水の舞台から飛び降りるつもりで」開戦を決意したと言ったそうですが、これほどひどい開戦だったとは驚きです。
こんな馬鹿げた軍人が戦争を指揮したのが日本という国です。
この東條首相の気持ちこそ日本が如何に非軍事社会か、ということを示しています。
こういう不合理な開戦を鵜呑みにするしかなかった、国民の戦争音痴も非軍事社会を示しています。

大本営発表の大嘘に騙され続けた国民のだらしなさも、とても西洋では考えられない現象です。
負けていることが誰の目にも明らかなのに、勝った勝ったと書き続けた新聞記者の軍事音痴もひどいものです。
日本中が空襲にあっているのに、勝っていると騙される国民の軍事音痴はもっとひどいものです。

これを権力に弾圧されていた時代だから、騙されるのも止むを得ないと言い続けている現代人も、非常識です。
少しでも頭を働かせれば騙されるはずのないことだと思わないのでしょうか?

こういうこと全てに、日本人の特異性があります。
日本人の特異性を認識出来ない日本人は、それこそここに特異性がありますが、ここまで言っても自覚できないという悪循環です。

悲劇の根本原因は、非軍人社会の日本が無理に軍隊を持ったことにあります。

この日本の特異さに気が付かなければ、戦争の反省は終わりません。