36892 | 返信 | Re:百人斬り訴訟東京地裁判決文 | URL | 渡辺 | 2005/09/19 15:40 | |
ピッポさん:> > ということは、 > 野田少尉の遺族が、南京裁判関係の資料を集めたときに、いっしょに持ち帰ったものだったのですね。 中国から返還された遺品の中にあったということでしょう。 なお、2001/06/18の『産経新聞』東京朝刊の記事では、こうなっています。 「鹿児島県在住の実妹、野田マサさん(七二)が保管していた遺品の中から見つかった。B4判のわら半紙の表裏に鉛筆の細かい文字で書かれており、執筆時期は昭和二十二年十二月十八日に死刑判決を受けてから、翌年一月二十八日の処刑までの間とみられる。」 > しかし、これに書かれていた両少尉と浅見記者との会話の内容は、判決では引用せず省略していますね。これは、裁判官が省略したというよりも、原告側最終弁論でも省略したのではありませんか? といいますのも、争点(2)に対する(原告らの主張)においても、この件の言及の記載がない(薄い?)のです。 ピッポさんは判決文を読まれた経験があまりないのではと思います。 判決文では、証拠の内容が要約されたり、要所のみ引用されたりされますので、判決文だけでは、原告・被告がどのように主張したのか要点が分かるのみで、その詳細までは分かりません。 また、傍聴したからと言って、つぶさに内容が分かるというわけには行きません。今回のように、双方が傍聴人を意識しているときは、第三者になるべくわかるように弁護士が話したのではないかと思います。それでも、甲何号のどこどこと言われたら、にわかには分かりません。 証言ですが、裁判官が使うのは調書として文書化された内容になります。文書にされたものと実際の証言とでは、ニュアンスが異なる場合があります。 また、証拠は原則として内容を省略したり、あるいは部分のみを提出するということはできません。(雑誌のコピーなど例外がある。)原本も必要に応じて相手側に提示する必要があります。都合のいところだけ切り出されると困るからです。 口頭弁論とはいいますが、実際には文書によって裁判がなりたっているわけです。 判決理由は、絶対論証を目的としたものではなく、表現として適切かどうかわかりませんが、裁判官の心証がどのようにして形成されたかを書いたものです。 > 原告側弁論と相矛盾する「原告側提出証拠」は、途中で審理から除外したのでしょうか? 実務上可能かどうかは知りませんが、普通はありえないと思います。 まず、証拠というのは提出に際して、何を立証しようとするのか目的を明確にしているわけです。 また、後で「しまった」ということになっても、もう相手に写しが渡っているわけですから手後れです。 これで絶対決まりだと思って提出した証拠が、相手側から逆手にとられて不利な証拠になることもあります。 > それに、あれだけ大々的に場外(裁判所の外)で宣伝していた『佐藤振壽証言』が、(原告側の主張)には殆ど反映されていないのです。 > > 判決書中の(原告側の主張)は、『原告側の最終弁論』を反映しているのでしょう? 判決文の初めのほうに、主張が書かれています。 --- 本件日日記事第一報は,昭和12年11月30日に掲載されているところ,それによれば,両少尉が無錫出発後に「百人斬り競争」を始め,無錫から常州までの間に,向井少尉が56人,野田少尉が25人を斬ったとされている。しかしながら,佐藤記者は,常州で両少尉と会った際,浅海記者から「二人はここから南京まで百人斬り競争をする。」という話を聞いたのであって,第一報はこの話の内容に反している。また,第一報では,向井少尉の斬った人数が,横林鎮で55人,常州駅で4人の合計59人となっており,上記の人数と矛盾しているし,第一報が真実であれば,両少尉の記念撮影をしたとき,両少尉は,常州駅で数人の中国兵を斬った直後ということとなるが,佐藤記者もそのような話を聞いておらず,両少尉も全く返り血を浴びていなかったのであって,不自然である。 --- 証言に先立って提出された陳述書では、佐藤氏が浅海氏から「二人はここから南京まで百人斬り競争をする」という話しを聞いたのであって、両将校とは会ったが話しをしていないと思わせるような内容でした。 証言では直接体験だけが問題となるので、証人の「うそだと思った」という発言を根拠にはできません。そこで、あくまでもポイントは「ここから南京まで百人斬り競争をする」が記事に反しているのであって、佐藤氏が両将校から「百人斬り競争」の話を聞いたという証言は使っていません。こうならざるをえないでしょう。 |
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