36906 返信 BC級戦犯裁判&転載許可のお願い: 山様 五番街様 URL memo 2005/09/19 21:51

** 山様 五番街様 **

 私的な用件ですが、メールアドレスが公開されていないようですので、掲示板上で失礼します。

 山様の「日本語の起源」に関する一連の投稿及び五番街様の36767番投稿につきまして、
http://bbs2.otd.co.jp/mondou/bbs_thread?base=35729&range=1
http://bbs2.otd.co.jp/mondou/bbs_plain?base=36767&range=1
私のHPへの転載許可をいただけないでしょうか。
http://ha2.seikyou.ne.jp/home/memo/

** BC級戦犯裁判 **

 人に勧められて読んだ岩波新書「BC級戦犯裁判」(林博史、2005年)が予想以上の力作だったので、この文を書いてみました。

「BC級」という用語は元々、1945年8月8日に調印された国際軍事裁判所条例による、戦争犯罪に対する以下3種の分類に基くものです。
A 平和に対する罪
B 戦争の法規又は慣例の違反
C 人道に対する罪

実際には「C級」はドイツのユダヤ人迫害等に適用された事例が多く、日本の場合はB級がほとんどでした。また、英国やオーストラリアでは「BC級」ではなく「軽戦争犯罪裁判」と呼んでいます。
「BC」や「軽」だからといって決して犯罪性が薄くなるわけではありませんが、比較的地位の低い人間が裁かれたとは言えます。

日本の場合、裁判国は以下の8カ国でした。

ソ連(詳細不明)
オランダ(起訴1038人、死刑確認236人)
英国(起訴978人、死刑確認223人)
オーストラリア(起訴949人、死刑確認153人)
中国(起訴928人、死刑確認149人)
米国(起訴1453人、死刑確認143人)
フランス(起訴230人、死刑確認63人)
フィリピン(起訴169人、死刑確認17人)
(中国の数字のうち起訴45人は中華人民共和国、他は中華民国)

以下の文中でもそうですが、数字は資料によりばらつきがありますので、概数として認識願います。
ソ連を除く死刑確認者の合計は約1000人となります。

 ドイツのBC級戦犯の死刑確認者数の総数は分かりませんでしたが、米国の死刑確認が299人、英国、フランスの死刑判決がそれぞれ230人、107人という数字から、西側連合国に関しては日本と極端な差はないと思います。死刑確認数は死刑判決数より少なくなる傾向があって、英国の対日裁判では判決281に対して確認223でした。

**

被告の階級は以下の通りです。

将官 被告176人 死者50人    (軍人中の比率4%)
佐官 被告416人 死者118人   (軍人中の比率10%)
尉官 被告1051人 死者262人  (軍人中の比率25%)
下士官 被告2143人 死者405人 (軍人中の比率51%)
兵   被告421人 死者28人   (軍人中の比率10%)
非軍人 被告1279人 死者191人
(ソ連を除く。「下士官」には准士官を含む。「死者」には死刑のほか病死や自殺も含む)

 死者の比率は将校の方が高く、末端の兵に対する極刑はあまり見られません。ただし、俘虜収容所の監視員等、非軍人に対する処刑はかなりありました。

**

 裁判は日本をはじめとするアジアの各地で行われましたが、受刑者の多くがのちに巣鴨拘置所、通称巣鴨プリズンに送られました。その巣鴨プリズンに収容された戦犯に対する実情調査があります。調査人員は731人です。

取調に際し
 (1) 拷問を受けた者 99人
容疑者又は受刑者として収容中
 (1) 掠奪を受けた者 369人
 (2) 甚だしい暴行脅迫を受けた者 237人
 (3) 甚だしい凌辱を受けた者 205人

判決が
 (1) 弁護の段階を経ずして下された者 47人
 (2) 判決理由を明示せずして下された者 226人

有罪項目が
 (1) 自己の行為でなく
  ・虚構又は捏造であった者 206人
  ・部下の行為の責任を取らされた者 185人
  ・上官の責任を負わされた者 191人
  ・その他他人の行為の責任をとらされた者 189人
 (2) 著しく事実を誇張又は歪曲された者 324人
 (3) 命令による行為で
  ・その命令が今でも当然正しいと考える者 152人
  ・当時の状況上やむを得なかったと考える者 297人
  ・不当であったと考える者 43人
 (4) 自分の意思に基く行為で
  ・その行為が今でも当然正しいと考える者 107人
  ・当時の状況上やむを得なかったと考える者 200人
  ・不当であったと考える者 13人
(「謝罪無用!」 冨山泰 恒文社 p108-p110から抜粋)

 戦犯たちの、裁判に対する痛切な批判を読み取ることができます。
 ですがよく見ると、行為が「虚構や捏造であった」という回答より「上官」や「他人」や「部下」の責任を取らされたという回答の方が多く、行為が「当然正しい」という回答より「当時の状況上やむを得なかった」という回答の方が多いのです。暗に犯罪行為の存在を認めているともいえます。
 人違い裁判の原因としては、日本軍が敗戦時に公文書を焼いたりして証拠を隠滅したことも大きかったようです。結果、次のようなことが起こりました。

> 自分の考えをはっきり持っている人間は戦犯として死ぬしかなかった。とりわけ憲兵なんかは逃げ出せばよかったのに、下士官でも軍のエリートとしての意識が強く、お国への忠誠心が強い連中ばかりだから、そういうわけにもいかなかったんだろう。憲兵でも上官や参謀部の幹部なんかは、下士官に責任をおっかぶせて逃げ延びたやつもいるのに。かわいそうだな。
(「罪 −届かなかった15通の遺書」 毎日新聞東京本社社会部編 河出書房新社より
 ベトナムに定住した元軍人・落合茂さんの言葉)

 なお巣鴨プリズンの処刑台では、A級戦犯7人とBC級戦犯53名が落命しました。現在はサンシャイン60の麓、東池袋中央公園の片隅に碑が建てられています。

** ソ連

 ソ連は連合国戦争犯罪委員会に参加しなかったので、戦犯裁判の実情はよく分かりません。帰国した戦犯受刑者は2689人。シベリア抑留と北朝鮮・満州の収容所での死者を合わせると約9万2000人になるそうですが、その中のどれだけが戦犯だったかは不明です。
 いずれにせよ、終戦後に日本人を最も多く殺した国であることは確実です。

 1949年のハバロフスク裁判では七三一部隊の関係者12人が細菌兵器の準備・遂行・謀略・非人道的実験などで起訴され、全員矯正労働の判決を受けました。この裁判でソ連は部隊長だった石井四郎中将の尋問を要求しましたが、米国は拒否し(訴追もしていません)、七三一部隊の機密情報を独占しました。

** オランダ

 オランダによる裁判は、現インドネシアの各地で行われました。ここは死刑確認がソ連以外の7カ国で最多の236人に上ったのみならず、
「取調べに際し拷問を受けた者」
「判決が弁護の段階を経ずして下された者」
「有罪項目が自己の行為でなく虚構又は捏造であった者」
等の比率が軒並み高く、苛烈な裁判だった傾向が伺えます。
 これには、1945年8月17日にスカルノによるインドネシア独立宣言が発せられ、独立戦争の真っ最中に裁判が行われたという事情も影響しているでしょう。ごく少数ながら、敗戦後にインドネシア独立軍に加わったことが停戦条件違反として裁かれている例もあります。

 一方で、約1000人の被告のうち、対アジア系民間人への犯行を問われた者が742人(対捕虜は233人、対西欧民間人は499人)に上りますから、「復讐裁判」のように捉えるのは適当ではありません。
 具体的には、憲兵隊等がスパイ容疑で民間人を取調べ、拷問の末一方的な処刑を行った例が多く見られます。特にボルネオのポンティアナックでは、1943年10月以降の海軍特別警察隊の暴走により、アジア系・欧米系を含め少なくとも1000人以上の民間人が殺されました。現地の碑には犠牲者2万1037人と刻まれています。
 他には、抑留オランダ人への虐待で起訴された事例が目立ちます。「スマラン事件」をはじめ、強制売春(慰安婦)で裁かれている事例も約30件あります。

** 英国

 英国による裁判は、現マレーシア、シンガポール、ミャンマー、香港の各地で行われました。中でもシンガポールでは100人以上が落命し、BC級戦犯の刑死地の中でも最高の数字となっています。
 しかしこれでも、1942年2月の華僑粛清事件の犠牲者に比べればわずかな数字でしかありません。シンガポールを占領した山下奉文(ともゆき)中将による「抗日分子を一掃すべし」という命令により、少なくとも5000人以上の華僑が殺されました。地元では4、5万と伝えています。
 山下中将はマニラで処刑され、計画立案者の辻政信中佐は逃亡したので、シンガポールで処刑されたのは他の責任者2人に留まりました。この寛大な判決は、華僑の猛反発を呼びました。

 英国の裁判でもオランダ同様、対アジア系民間人への犯行を問われた事例が過半数を占めています。華僑粛清事件の刑が軽かった理由には、英国が華僑よりマレー人を優遇してきたという背景もあるでしょう。
 捕虜虐待と民間人虐待の両面を持つ大案件として、泰緬鉄道建設時の問題が各地の戦犯裁判で取り上げられました。タイ・ミャンマー間の密林地帯400kmを結ぶこの路線の建設では、突貫工事や劣悪な環境や日本軍の虐待といった悪条件が重なって、捕虜6万人のうち1万2000人、アジア人労務者20万人のうち4万人以上が死亡しました。
 この案件は英国だけでなく、オーストラリアやオランダでも裁かれています。

** オーストラリア

 オーストラリアによる裁判は、オーストラリアやラバウル、アンボン、シンガポール、香港等で行われました。上2国と異なり、捕虜への犯行を問われた件が7割以上を占めて民間人への犯行を大きく上回ります。
 オーストラリアは太平洋戦争に連合国として参戦し、インドネシアやオセアニア方面で戦闘を繰り広げました。「ABCD包囲陣」の一角だったオランダより、よほど手強く戦っています。日本は「オーストラリアの北の玄関」ダーウィンに1942年2月19日以降空襲を繰り返して数百人を殺したほか、1942年5月31日には特殊潜航艇でシドニー湾に侵入し、魚雷でホテルシップを大破させて21人を殺しました。

 「BC級戦犯裁判」ではラバウルの裁判について「ほかではほとんど起訴されないような軽微な事件まで起訴されている印象を受ける」と評していますが(p91)、無罪判決も多く、巣鴨プリズンの調査でも、虚構の有罪項目による処罰や拷問は少なかったようです。
 オーストラリアに限らず日本軍による捕虜の扱いは概して劣悪で、英米蘭豪新加6ヶ国の捕虜14万8711人のうち、約29%にあたる4万2467人が死亡しました。ナチス・ドイツは人種差別政策のため「アーリア人」捕虜の扱いは比較的丁重で、死亡率も7%に留まっていましたから、なおさら日本軍の乱暴さが目立って見えました。ちなみに、シベリア抑留の死亡率は60万中6万、約10%です。

** 中国

 中国は1946年から1949年にかけての内戦により、国民党の中華民国から共産党の中華人民共和国に政権が交代したため、中華民国と中華人民共和国の両方で裁判が行われました。

 中華民国による裁判は中国の各地で行われ、ほとんどが中国の民間人に対する犯行を扱いました。殺人や虐待のほか、アヘン販売や強姦等の罪も問われています。
 しかし対日戦で最大の被害を被った国にしては、死刑確認149人(7ヶ国中4位)はいかにも少ない数字です。例えば南京事件では、4人が処刑されたに留まりました。逆に、無罪350人は7ヶ国中1位です。これは容疑者の絞込みが困難だったことのほか、蒋介石国家主席の方針「以徳報怨」(怨みに報いるに徳を以てなす)の影響が大きかったと考えます。
 政治的な思惑で、岡村寧次大将(八路軍「掃討」の責任者)や辻政信中佐(華僑粛清の立案者)等の、明らかな戦犯を追及しなかったという批判もありました。

 1949年に中華人民共和国が成立したときほとんどの戦犯は日本に送還されていましたが、ソ連から引き渡されたシベリア抑留者等1109人に認罪学習をさせた後、1956年に瀋陽と太原で裁判を行って、起訴された45人全員に有罪判決を出しました。抑留が長かったという面もありますが、拷問もなく人道的な扱いを受けたことは帰国者達が証言しています。死刑はゼロ、病死者も48人に留まりました。
 ほかに終戦直後、共産党軍による「人民裁判」で1000人以上が処刑されたという推定があります。

** 米国

 米国による裁判は横浜、マニラ、グアム、上海などで行われました。ほとんどが捕虜への犯行に関するものです。

 直江津の捕虜収容所では、収容所員が捕虜の野菜不足を解消するためにとゴボウを調達して食べさせたのですが、これが戦後の横浜法廷で「木の根を食べさせた」と解釈され、軍民合わせて8人が処刑されてしまうという事件がありました。もちろん「木の根」だけが原因ではなく、1943年から1944年にかけての冬の肺炎の流行で、オーストラリア人捕虜約300人のうち60人以上が死亡した責任を問われたのでしょう。

 戦争中の日本は空襲機の搭乗員を捕らえるとしばしば弁護人なし・非公開の軍律会議にかけて処刑を行っており、これらの処刑も戦争犯罪に問われました。代表的なのが1945年5月14日名古屋空襲の搭乗員11人を処刑した東海軍管区の事例ですが、このとき死刑を求刑した伊藤信夫法務少佐は、1944年の八幡空襲については軍事目標への爆撃と判断して搭乗員を不起訴としています。彼は横浜法廷で、名古屋空襲は焼夷弾による住宅地へのじゅうたん爆撃だったから国際法に違反する「無差別爆撃」だと主張したのですが、結局死刑を宣告されました(のち終身刑に減刑)。
 他に、軍律会議にもかけずに処刑した事例も裁かれています。

 秋田県の花岡鉱山では、鹿島組が中国人の捕虜及び民間人を強制労働に就かせ、1000人のうち400人が死亡するという酷使の上、1945年6月30日に彼らが蜂起すると、鎮圧後に拷問等で100人以上を殺害しました。この事件では鹿島組の現場関係者4人と警官2人に有罪が宣告されましたが、企業幹部等は追及されませんでした。

 マニラでは、1942年に日本軍が米軍・フィリピン軍捕虜7万人以上を炎天下で100km以上歩かせ、1万人以上が死亡した「バターン死の行進」等が裁かれました。

 米国は対日戦勝利・日本占領の主役でしたが、死刑確認数はそれほど多くありません。本国向けに死刑判決を出しておいて、後で減刑するという手法もよく使われました。

** フランス

 フランスによる裁判はサイゴン(ホーチミン)で行われました。ここの取り調べも拷問がひどかったらしく、巣鴨プリズンでの調査では39人中22人までが拷問を受けたと答えています。独立戦争の中で裁判が行われたことや、日本兵の一部が独立軍に参加していた状況もオランダと共通します。

 内容を見ると、フランス系民間人に対する犯行を問われた事例が過半を占めています。仏印(フランス領インドシナ)を日本が直接支配したのは1945年3月から8月までの約半年だけで、それまでは一般行政は仏印当局に委ねていました。そのため、アジア系民間人に対する犯行はあまり裁かれていません。ただ、日本軍による食糧の徴発等のため、1944年末から翌年にかけ、餓死100万人級の大飢饉が起こったことも事実です。

** フィリピン

 マニラでの裁判は当初米国により行われていましたが、1946年7月4日のフィリピン独立にともなってフィリピンに引き継がれました。ほとんどが現地住民に対する犯行を扱っており、なかでも強姦を扱った割合が多いのが特徴です。
 当初の死刑判決は79人でしたが、独立7周年に大規模な恩赦が行われ、執行は17人にとどまりました。
 フィリピンでは1945年2月のマニラ虐殺(米軍のマニラ攻略戦の巻き添えで民間人約10万人が死亡。軍紀を乱した日本兵による殺害や強姦も多数)等の残虐行為がありましたが、フィリピンの日本軍はほとんど全滅してしまったため、事件とは関係のない人物が裁かれてしまった例も見られます。

** 朝鮮・台湾等

 朝鮮人戦犯は148人(戦犯の2.6%)で、ほとんどが東南アジアの俘虜収容所監視員(コリアン・ガード)でした。彼らは兵以下の存在としてビンタを受けながら教育され、俘虜に対してもビンタ等を行ったために裁かれました。
 台湾人戦犯は173人(戦犯の3.0%)と、数では朝鮮人を上回ります、俘虜収容所監視員のほか、中国戦線で通訳として使われました。憲兵隊等の通訳として逮捕された者に暴行した事例が多かったようです。

 他にマリアナ先住民のサイパン人やロタ人、サハリン先住民のウィルタやニブヒが、日本軍に協力して「通訳」やスパイ等を行ったために戦犯として裁かれました。

 戦後日本政府は日本人戦犯や遺族には軍人恩給を支給しましたが、上記の外国人戦犯や遺族には支給しませんでした。
 また、スマラン事件(強制売春)や花岡事件(強制労働)に近いことは朝鮮人等に対しても行われていたのですが、これらは全く裁かれませんでした。
 東京裁判も含めた戦犯裁判全般に、性犯罪が十分裁かれなかったという傾向もあって、2000年には「女性国際戦犯法廷」が開かれ、昭和天皇以下8人が有罪とされました。
http://www1.jca.apc.org/vaww-net-japan/womens_tribunal_2000/index.html

** 自国民に対する裁判

 中国では日本軍に協力した「漢奸」への裁判で、国民政府に報告されただけで369人を死刑にしました。これだけで戦犯処刑数の2倍以上ですが、農村部や共産党軍によるものも含めると「漢奸」の処刑数はもっと多くなります。
 ポーランド、チェコ、フランス等でも、対独協力者への裁判が戦犯裁判より大々的に行われました。

 ドイツでは1945年12月に「人道に対する罪」をドイツの裁判所で裁く権限を与えられ、西ドイツだけで1951年までに800人が死刑になりました。この数は、米英仏による処刑数の合計を大幅に上回ります。
 独立後の西ドイツは連合国の戦犯裁判を認めない立場を採ったので「人道に対する罪」を適用しませんでしたが、ドイツ刑法の謀殺罪や故殺罪を適用してナチ犯罪を裁いています。

** 戦犯釈放運動

 対する日本では、1952年4月のサンフランシスコ平和条約発効以降、戦犯釈放運動が大々的に展開されました。背景には従来、講和条約の発効とともに戦犯が釈放されるという慣行が存在していたこともあったでしょう。また、既に同年3月には巣鴨法務委員会が「戦犯裁判の実相」を刊行してBC級裁判の不当性を訴えていました。衆参両院も釈放を求める決議を行い、「アジア諸国人民に対して犯した重大なる犯罪に対する真剣な反省心を鈍らせ」ると主張した共産党以外は揃って賛成しました。
 左派社会党の議員でさえ

> この世界人類の中で最も残虐だった広島、長崎の残虐行為をよそにして、これと比較するならば問題にならぬような理由をもって戦犯を処分することは、断じてわが日本国民の承服しないところであります
(古屋貞雄代議士 1952年12月9日)

と発言しています。

 戦犯釈放の運動には日本赤十字社や日本弁護士連合会等も加わり、1953年の11月1日の「抑留同胞完全救出巣鴨戦犯全面釈放貫徹国民大会」では約3000万の署名が集められました。ちなみに1955年の日本の人口は約9000万、15歳以上に限ると約6000万でした。
 BC級戦犯の家族にはそれほど社会的地位の高くない人々も多く、「戦犯」への白眼視や働き盛りを失った痛手が重なって、戦後の混乱期に苦労を強いられた事例もありましたから、家族に対する同情も大きかったと思います。

 50年代に、戦犯裁判への批判とともに戦犯の釈放が進んだのは西ドイツにも共通しますが、日本では自国民による裁判が無かったのが違うところでした。

** 余談 **

「日本は戦争をしてこなかった」という言葉に対するリーさんの批判は、鋭かったと思います。
http://otd2.jbbs.livedoor.jp/mondou/bbs_plain?base=36332&range=1

未成年との性交に関するteruhoさんの意見には、説得力を感じました。
http://otd2.jbbs.livedoor.jp/mondou/bbs_plain?base=36379&range=1
http://otd2.jbbs.livedoor.jp/mondou/bbs_plain?base=36390&range=1

日本の失業率などに関する議論を興味深く読みました。
http://otd2.jbbs.livedoor.jp/mondou/bbs_plain?base=36723&range=1
http://otd2.jbbs.livedoor.jp/mondou/bbs_plain?base=36724&range=1
http://otd2.jbbs.livedoor.jp/mondou/bbs_plain?base=36738&range=1
http://otd2.jbbs.livedoor.jp/mondou/bbs_plain?base=36763&range=1
http://otd2.jbbs.livedoor.jp/mondou/bbs_plain?base=36767&range=1

選挙制度に関する議論を興味深く読みました。
http://otd2.jbbs.livedoor.jp/mondou/bbs_plain?base=36779&range=1
http://otd2.jbbs.livedoor.jp/mondou/bbs_plain?base=36780&range=1
http://otd2.jbbs.livedoor.jp/mondou/bbs_plain?base=36787&range=1

満州事変に関する右翼討伐人さんの論考は力作でした。
http://otd2.jbbs.livedoor.jp/mondou/bbs_plain?base=36868&range=1