2000年度卒業論文 小熊研究会卒業制作

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巻末の図表はアナログデータのため、すべて省略した。また、脚注は全て文末脚注とする。

 

2000年度 小熊研究会卒業制作

<浪人生>の誕生

−明治後期、大正、昭和初期を中心とした教育言説の社会史的考察―

 

慶應義塾大学総合政策学部4年  石野純也

学籍番号:79700729

e-mails97072ji@sfc.keio.ac.jp

 

 

「その意味の中に彼らが投入しているもの…それは彼らの社会的存在であり、彼らが自分自身について抱いている考えを規定するすべてのものであり、彼らが自分たちにとっての『彼ら』や『他人』にたいし、自らを『われわれ』として自己規定するさいの根拠となる最も基本的な暗黙の契約なのだ。」

(ピエール・ブルデュー 『ディスタンクシオン』)

 

序章

 

本章では本研究の問題設定がどのようなものであるのか、換言するならばどの様な主題の論文であるのかという事を明らかにし、本研究の意義を明確にしていきたい。

 

1-1 論文の主題

  この論文をお読みの方の中にも高校を卒業し、上級の教育機関に進学する際にいわゆる「浪人生」を経験している人がいるのではないだろうか。少子化が進展している現在の社会においてその人数は減少傾向の一途にあるのだろうが、それでもなお「浪人」する事は全く不自然の事ではなくむしろ受験に失敗した学生にとっては当然の行為、換言するならば「浪人生」という存在を所与のものとして受容している、というのが我々の大方の意識ではないだろうか。

しかしまた次のようにも考えることもできる。確かに存在としては「浪人生」という存在は受容しているのだが、その存在に対する態度は両極端なものである、と。その事は、後に批判的に検討する『浪人生のソシオロジー』[塚田:1999]の中で分析されている資料を見れば一目瞭然な客観的事実である。塚田(1999)の分析の中で繰り広げられている言説をおおまかに要約すると次の様なものになる。まず、「浪人生」という存在を攻撃する側は、受験制度を糾弾するための手段として「浪人生」=「受験で無駄に時間を使っている存在」という図式を持ち出す。そしてそれを擁護する側は「浪人は視野が広がる」といった様な言説で対抗しているのである。また、私自身が過去20年分の朝日新聞の「声」欄(読者オピニオン面)を調べたのだが[1]、その結果もまた同様の事実を物語っている。例えば、前者を代表する意見としては、

 

「最近は「一浪」と書いて「ひとなみ」と読むそうだ。しかし僕たちのどこが人並みだというのだ。

 いったい、浪人とは何なのだ。欧米では義務教育を終えると自分で自分の道を選んで、それに一生をささげるそうだ。しかし、僕たちの道は、すでに決定されている。定められたレールの上をただ前進するだけで、どうやって若いエネルギーを燃やし尽くせようか。大学にもあこがれるが、他の道にも情熱を注いでみたいのだ。」(朝日新聞1989917日朝刊)

 

を挙げる事が出来るし、後者を代表する意見としては、

 

「私は、浪人した一年間が最も有意義な年であった。…家と予備校の往復の毎日であったけれど、学んだものは、人間であることと磨かれていない自分ということであった。「どのようにして生きるか」を高校ではなく予備校の授業を通して考えさせられた。

 浪人したことで自分のことを一番深く考え、考えたから一番苦しく、つらい時期でもあった。だからこそ人間として成長できる。いま、楽をすれば楽だろう、ではその後には何が残るのか?」(朝日新聞1997413日朝刊)

 

という意見を挙げる事が出来る。これらの投書に見られる言説もまた、上述した図式の範疇に収まっているのである[2]

上述した両陣営の言説どちらにも首肯出来る部分がある事は確かである。しかしそもそも「浪人生/現役生」という差異は決定的なものなのだろうか。仮に、「受験制度」を糾弾したいのならば受験生全般に対しての言及がされなければならないし、現役生が必ずしも視野が狭いと断言する事は出来ないだろう。つまり前者には、「浪人生」は受験生の傍系である(そして現役生は正系である)から是正しなければならないという前提があり、また、後者には「浪人生」は傍系だから努力をしている(現役生は正系なので大した努力をしていない)という「浪人生/現役生」間の暗黙の差異が前提とされているのである。

すると、この様に考える事が出来ないだろうか。これらの言説で研究者が問題にしなければならないのは「浪人生」それ自体ではなく「浪人生/現役生」というステレオタイプ的な差異の体系とそれを再生産する元凶なのである、と。

そこで、私は今回の論文を書くにあたっては、この様なステレオタイプ的な「浪人生/現役生」の差異がいつ、どの様に発生したかを通時的に[3]考察していきたい、と考えている。そしてそれは「受験制度」のみに矮小化されない日本の「教育制度」の根本的矛盾、そして「教育に対する意識」を根本的に問い詰める事になるのではないだろうか。そしてこの論文の最後には、現在の様な「浪人生」がいつ「浪人生」として認知され、またどの様にして「浪人生」に纏わる言説が生産され始めたのか、さらにはその元凶は一体何なのか。これらに対する回答の一端は示す事が出来るであろう。

 

1-2 本論文の意義

私の問題意識に近く、学歴社会を歴史的に研究したものでは、『試験の社会史』[天野:1983]、『学歴の社会史』[同上:1992]等が有名である。また、立身出世主義を歴史的に研究したものでは『立身出世主義』[竹内:1997]、『立志 苦学 出世』[同上:1991]、『日本の近代12 学歴貴族の栄光と挫折』[同上:1999]を挙げる事が出来る。しかし、これらの研究のタイトルだけを見ても分かるように、これらの文献で取り扱っている事柄は主として近代社会における学歴の誕生、学歴の効用、そしてそれがもたらす社会的帰結である。つまりこれらの研究は学歴を正面から取り扱って研究していると言う事が出来る。学歴を取得しているわけでもなく、完全にそれを取得する事を断念させられた状態でもない、言わば中間的な存在である「浪人生」がいかに誕生しそれをどの様に学歴社会と関連付けて解釈するのかといった問題を扱った研究は管見の範囲では見つける事が出来なかった。学歴社会をそれ自体真正面から研究するのではなく、この様な「『浪人生』の誕生」という視点から考察し、その機能を明らかにする事で本研究は他との差異化を十分にはかっている。

また上述したように塚田(1999)の研究はフィールドワークを通じて「浪人生」の存在を共時的に分析したものであり、管見の範囲ではそれを通時的に取り扱った研究を見つけ出す事は不可能であった。仮に、その様な研究は存在しないと仮定すると、本研究は塚田(1999)の研究を補完的に完成させる役割を担っている、と言う事も出来る。この点からも、「浪人生」の誕生を社会史的に考察する事は十分に意義があると言う事が出来るのではないだろうか。

本研究の主題、意義はこの序章である程度明らかになったと考えている。次章では、本章第二節で取り上げた文献も含めて先行研究を批判する事により、その問題点をより一層明確化すると共に、本研究に必要な視点を先行研究批判の中から提供していきたいと考えている。

 

 

先行研究の批判的検討

 

「浪人生」という存在を主題に据えた研究は社会学や社会史の分野ではほとんど存在していない。管見の範囲では塚田(1999)のみが、「浪人生」を主題とした社会学的研究書である。しかし、塚田(1999)の論文のみを批判的検討の俎上に乗せる事で十分だとは考えていない。なぜならば前章でも述べたように、本研究の目的は、学歴社会を「浪人生」の誕生という社会史的な視点から考察するところにあるからである。よってここでは「学歴社会」の歴史を研究したものの中で、「浪人生」の存在に言及しているものまでをその範囲とし批判的検討を加えていきたいと思う。

以上の観点から、本章で批判的検討の俎上に乗せる文献は、塚田(1999)、竹内(1991)、竹内(1997)、竹内(1999)、そして、『学歴主義の系譜』[深谷昌志:1969]である。それでは、まず、「浪人生」を主題にした研究である塚田(1999)を手始めに、以下に検討を加えていきたい。

 

2-1 『浪人生のソシオロジー』の批判的検討

塚田(1999)の研究は広島の予備校をフィールドワークした結果を社会学的に分析した「浪人生」研究である。塚田はフィールドワークの様々な手法(インタビュー、参与観察、作文の分析)等を用いて総合的に「浪人生」という存在を研究し、「浪人生」のメンタリティーである「浪人性」を明らかにしているとともに、この「浪人性」が1年間の浪人生活によってどの様に変化していくかというダイナミズムを、そしてそれを変化させる主たる要因を描いている。そして、この研究は「浪人生」の実態を明らかにする事によって、上述したような「浪人生」に対するステレオタイプ的な言説に対するアンチテーゼとなっているのである。

確かに、塚田の様にフィールドワークを通じて「浪人生」の実態を描き出す事は、ステレオタイプ的な「浪人」像に対するアンチテーゼにはなるし、私見では、塚田の試みは成功していると言っても過言ではないだろう。しかしながら、この塚田の研究にも批判すべき個所が存在することもまた確かである。まず、最初にこの研究はその手法をフィールドワークに限定しているために、「浪人生」の共時的な側面は描き出す事が出来ても、「通時的」な側面を描き出す事が出来ていない。つまり「浪人生」を所与のものとして扱っているために、何故「浪人生」が再生産されるか、そしてその再生産はいつどの様にして始まったのかという問いに対して完全な回答が与えられないのである。換言するならば、「浪人生」を研究するには日本の近代に溯り、それを歴史的に考察する必要がある、という事である。本研究で主眼を置きたいのは正にその歴史的考察の部分なのである。フィールドワークを通じてしか見えてこない現実があるのと同時に、歴史的考察を加えなければ見えてこない現実もあるのだ。その様な理由から本研究では「浪人生」を所与のものとしては扱わず、むしろ「浪人生」が「浪人生」として語られ、定義され、規範が定められてきた過程を描いていきたい。そしてそれによって塚田の研究の共時的な分析を通時的な視点から補強する事が出来れば幸いである[4]

 

2-2 その他の文献の批判的考察

深谷(1969)は、そのタイトル通り学歴主義の歴史を『教育時論』等の資料から探っていく研究書である。この研究は、旧制高校や帝国大学などの「学歴」がどの様にして社会的に重要な肩書きとなっていったかを明治の学制にまで溯り考察を加えている。そしてその様な議論の流れから深谷の研究の中では「浪人生」の増加が社会問題化した時期の事について言及がなされている。

 

「…[明治32年〜明治35年度には]第六、第七校の新設によって店員の四割増−四百六十人―が実施されているのにもかかわらず、志願者は八割増を数え、第一、第三高校を中心に、入学競争は徐々に増加する傾向を示している。…[そのため]高校入学のための浪人者の割合も徐々に増加しはじめていた[深谷:1969](傍線部、[]、引用者)

 

この深谷の主張を要約すると、旧制高校の志願者が旧制高校の入学定員を上回ってきたために明治30年代前半に浪人生が発生してきた、ということである。しかし「志願者数>(旧制)高校の定員」になるだけで「浪人生」が発生するのだろうか。確かに一見しただけではこれは真実に思える。しかし、私は「志願者数>(旧制)高校の定員」という人数的な原因はあくまで「浪人生」が誕生するための必要条件であって十分条件ではないのではないか、と考えている。仮に、旧制中学の卒業生にとって旧制高校以外にも十分に魅力的な上級教育機関がその時代に存在していたとするならば、入学が叶わなかった学生はそちらに進路を変更すればわざわざ「浪人生」などという道を選択しなくても良いはずである。また、旧制中学を卒業と同時に上級教育機関に進路が決定していることが「正常」であるという意識がなければ「浪人生」という不必要に恣意的なカテゴリーを設ける必要もないし、それを問題視する必要もないのである。

しかし、確かに、深谷の指摘通り、明治30年代前半に「浪人生」が個別のカテゴリーとして語られ出した事は事実である。深谷が統計を作成するために用いていた資料である『教育時論 明治35715日号』と『同 1225日号』に当たってみた結果、「一浪」「二浪」というカテゴリー分けではなく「明治35年中学卒業者」「明治34年中学卒業者」というようなカテゴリー分けではあったものの、過年度卒業生が統計の項目として用いられていたのは事実だからである。ただし、ここではコペルニクス的転回が必要なのである。つまり、「浪人生」が誕生した事によって「浪人生」が統計カテゴリーの中に登場したのではなく「浪人生」を「浪人生」として統計の中にカテゴライズする事によって「浪人生」が「浪人生」として主体化されたのではないか、と。ブルデュー的に言うならば「客観的諸条件」によって分類された統計のカテゴリーによって「行為者」がそれを「境界感覚」[5]として受容したのではないか、ということである。また、今日、国民国家論の分野においても同様の事が指摘されている。

 

「いずれにせよ国家は[戸籍によって]個々の国民の同一性を同定しそれを把握コントロールしなければならない(国民の管理という点では戸籍は国勢調査[センサス]に結びついてくる)。」[西川:1995](ただし最初の[]内、引用者)

 

この引用した一文は、国勢調査に代表される「統計」によって国民の同一性が同定されるという事を意味している。そしてここでの「国勢調査」を「統計」と読み替えても差し支えはあるまい。本論文の議論に沿った流れでこのテキストを解釈するならば、「浪人生」という自己同一性が誕生する一因として統計調査は重要な役割を果たしている、という事になるのである。そしてこの様な論理的転回こそ、本論文の根幹を成している視点なのである。

次に、竹内(1991)、同(1997)、同(1999)について考察をしていきたい。上述したように、竹内の三つの研究は、立身出世主義を歴史的に考察したものである。立身出世主義はいつ、どの様に誕生したのかという問いに始まり、立身出世主義の産物である学歴に対する人々の意識、受験に対する学生の意識等といった人々の意識的側面までをも射程に入れた研究書である。そのため、これらの文献は「浪人生」をその主たる研究対象には定めていなのだが、立身出世主義を主題に扱う必要上、当然の事ながら「浪人生」に関しての言及もなされている。竹内は「浪人生」のプロトタイプである「鳥打ち帽」や「白線浪人」という言葉が、換言するならば「浪人生」の規範がいつごろ発生したかという事に言及しているのである。しかし、この「浪人生」に対して学術的な考察はなされていないのもまた事実である。竹内は、「受験生」という規範の誕生と、その規範の内実を、『少年園』や『中学世界』の様な雑誌を元に実証的、かつ理論的に考察している。立身出世主義を包括的に研究するのが竹内の主眼であるならば、「浪人生」をその研究対象から外す事は片手落ちと言わざるを得ない。私は、本研究において、竹内の理論を参照しつつ、そこから抜けていてた「浪人生」の視点を提供する事が出来るのではないか、と考えている。

 

2-3 まとめ

本章が示唆しているのは次の二点である。まず、本研究は、共時的な分析手法よりもむしろ通時的、歴史的な分析手法を用いるという事。そして「浪人生」を所与の存在とは考えずに、「浪人生」という規範が出来上がっていく様子を考察するという視点である。先行研究を批判する事により本論文のこれら二点の特徴が浮き彫りになった。それでは、実際にどの様な資料に基づいて分析をすすめていくのか。次章では、研究対象の設定をおこなっていきたい。

 

 

研究対象

 

およそ今まで世に出された全ての資料を確認する事は不可能な事である。それ故に、言説分析をする際には主観的という謗りは免れない。しかし、資料を限定し、その出典を示す事によって出来得る限り客観性・公平性を高める事は可能である。本章では、本論文で用いた一次資料を提示すると共に、それを資料として選択した理由を提示していきたい。

本論文で分析のために主に用いた資料は日本図書センターから復刻された明治・大正・昭和初期の時代の教育史料集、『近代青年期教育叢書』である[6]。そしてその資料を補足するため、また、戦後の言説を分析するために、大宅壮一文庫の索引中で「入学試験」のカテゴリーの中のサブカテゴリー、「入試一般」、「中・高入試」、「浪人」、「予備校」に属している雑誌記事を1955年のものまで漏らさずに調査した。また、調査対象時、話題になった関連書は必要な限り適宜引用した。

これらの史料を分析の対象としたのは何故か。まず、『近代青年期教育叢書』についてその理由を述べたい。この史料を選択した最大の理由としては明治時代の「『少年園』から『中学世界』」[竹内:1991]という少年雑誌のベストセラーの移り変わりを適切に反映している、という事を挙げる事が出来る。後述するためここでは詳述は避けるが、明治31年を境として少年誌のキーワードが「遊学」から「受験」に移り変わっていく[7]。日本図書センターの復刻シリーズは「遊学」の代表的雑誌『東京遊学案内』を収録していると共に、『中学世界』の版元でもある博文館から出版されている種々の受験案内書を収録している。仮に、何らかの史料が本論文の趣旨に合致した事を物語っていたとしても、その史料が社会的に何ら影響力を持たないものであったならば、本論文で分析されている事は絵に描いた餅であるという謗りを免れないであろう。その意味からも、時代の流行を的確に追った日本図書センターの復刻本シリーズは本論文での分析に適していると言えるのではないだろうか。

大宅壮一文庫については同文庫が明治期から現在までの総数295万件に及ぶ索引を制作しており、それにより効率的に史料を検索できる。それによって「浪人生」、「受験生」関連の記事は漏らす事無く検索する事が出来る。この事からここで検索した史料にはある程度の客観性・公平性が備わっていると言える。

その他の文献は上述した史料のようにその採用理由に一貫性がないため、その都度、その理由を本文または脚注に示していきたい。

 

 

「浪人生」以前

 

4-1 「浪人生」以前の教育事情

現在は当然視されている「浪人生」であるが、当然の事ながら人類の誕生以来それが同様であった訳ではない。それでころか、近代社会が発足した明治時代にすらその初期の頃には「浪人生」という存在を見受ける事は出来ない[8]

無論、「学校」という教育機関は近代社会を構成する必要不可欠な要素であるので、学生が存在していた事は確かなのではあるが、天野(1992)が

 

「明治30年代に入るまでかれら[学歴の価値に気付きそれを利用していた者]は少数派であり、『学歴社会の先駆者』とでもいうべき存在にすぎなかった。大方の人たちはまだ、教育や学歴の価値を知りもしなければ、信じてもいなかったからである。」[天野:1992 110項([]内、引用者)

 

と述べている様に、人々が学校の、換言するならば学歴の効用を認識し、上級学校に進学する事に価値を見出すのは明治30年代以降の事である[9]。明治30年以前にはその様な認識は、主として元武士階級の間でのみ強く認識されていたのである。その理由は一般的には次の様に説明されている。近代社会以来、それまで年貢で生計を立てていた武士階級は、商人や職人などと違い自らの生活手段を失ってしまった。しかし、武士階級に属している人々は他の階級の人々に比べ相対的に高い教養を有していたために、学歴を取得し当時は官職や教師に代表されていた「サラリーマン」になる道を選んだのである、と。一方で、武士階級とは違い日々のパンには困らないその他の階級はあえて教育を受けてまで身を立てようとは考えていなかった。むしろ、教育を受ける事によって就業の妨げとなってしまい労働力が低下してしまうとまで考えていた。

その様な理由で就学率は以下の表1の様に明治30年代まで停滞していたのである。

 

 

表1 在学率の推移

 

初等教育

中等教育

高等教育

明治13年

29.0

1.0

0.3

13年

31.3

0.8

0.4

23年

35.5

0.7

0.4

28年

48.5

1.1

0.3

33年

67.8

2.9

0.5

38年

85.1

4.3

0.9

43年

90.6

15.9

1.0

大正4年

93.1

19.9

1.0

9年

93.6

25.0

1.6

 

 

 

 

*実質進学率(就学率×日々出席率)

天野郁夫『学歴の社会史』第10章表1より

 

 

初等教育機関の進学率が30%を超える以前の時代では、受験に失敗する学生に関心が向く以前に学校に通っていない児童が問題視される事は常識の範疇で理解できる。実際に当時の教育の国家目標も「国民皆学」に焦点が定められていた。明治5年に「学制」が制定された際、政府は「被仰出書」と呼ばれる文書を同時に発表したのだが、その中には、

 

「自今以後一般の人民必ず邑に不学の戸なく家に不学の人なからしめん事…」[学制:明治5年]

 

と記されていたのである。

この様な理由から明治30年代以前には「浪人生」は存在していない。「浪人生」がそれだけの理由で語られるにはまだ教育制度が熟し切っていなかったのだ。無論、入学試験は明治30年以前からも存在したのが、その主な役割はその後の試験の様に入学定員を超えてた志願者を「切る」ためではなく、玉石混合であった当時の学生の学力が上級教育機関で要求されている学力に見合うものかどうかを純粋に試すものであったと言ってもよいだろう。

上述したように確かに、明治30年代以前に、受験に失敗した学生はそれだけの事で問題視されていないし、当時の社会環境もそれをする程成熟したものではなかった。しかし明治20年代には『東京遊学案内』という本で地方から東京に「遊学」する学生について語られ始めている。それでは、当時、学生達はどの様に語られていたのだろうか。そして学生達はどの様に自らを主体化していったのだろうか。またどの様な学生が「良い学生」でどの様な学生が「悪い学生」と見なされていたのだろうか。そしてそれはどの様に「浪人生」へとつながっていくのだろうか。この様な視点で次節では、この『東京遊学案内』を中心とした史料を分析する事によって[10]これらの疑問に回答を与えていきたい。

 

4-2 『東京遊学案内』[11]における規範

この時代の東京は「官立学校をめざす若者たちにとっての『聖地』であった。」[天野:1992]そして、明治23年に「少年園」から出版された『東京遊学案内』は当時、その「聖地」を目指す若者達にとっての「バイブル」的な学校情報誌であった。当時、若者に貴重な「聖地」=東京の情報を提供していた『東京遊学案内』は主に諸学校の最新データと上京の際の注意事項という二つの要素からなっている。そしてその主な役割は次の二つである。一つは、東京の官立の諸学校や私立専門学校の最新のデータを提供し、読者が合理的に学校の選択を行えるようにするという事。そして二つ目は、地方から上京し右も左も分からない若者に、「正しい上京の仕方」を伝授する、という役割である。

本研究の視点では、後者は「正しい上京」という規範が作り上げられたという事と同義である。また、「正しい上京」という規範は「間違った上京」という規範と背中合わせの存在である。それでは、「正しい」もしくは「間違った」上京とはどの様なものなのか。まず、東京は学校が集中している地域であり、無計画に進路を変更してしまう事が容易なため、

 

「郷里出発の際に於ては将来の事業、前途の方針、履修の学科等遊学者の選定すべきもの随分に多[い]」[東京遊学案内:明治24年]21項([]内、引用者)

 

とある様に、東京で遊学する者は、将来のビジョンを明確に描き、それに向った計画を立て、そのためにはどの学校を選び、何を学ぶのかという事を明確化してなければならない。そして、

 

「東京留学生として少しく規律なき者は他に監督者のなきに乗じて随分品行を持崩し、兎角は学校へも行かずして遊び暮らす者も多[い]」[同上]23項([]内、引用者)

 

ので、品行には気を付けなければならない。また、東京で暮らすという事は今までの様に病気の時に面倒を見てくれる人間が周りにいなくなる可能性が高い。よって「脚気」や「肺炎」は「少年に取りて最も恐るべき強敵」[12]であって、「運動の不足勝なるに原因する」[13]ので、運動をし健康の増進をはからなければならい。さらには、

 

「朋友は往々にして多年同窓の中に在りて互に其性行に服する者の間に自然と成立つものなれども、一朝にして容易には得べからざるものなれば、他の仮面を被りて来るところのを漫に買被らざるやうにせざるへからす。」[同上]36

 

とあるように、友人を選ぶ事さえしなければならないのである。

ここまでの議論の流れを一旦整理すると、「正しい」上京の特徴は、上京前に綿密な計画を練り、上京した後も遊びの誘惑に負けずに学業に専念し、運動をし心身の健康を保ち、良き友を見つけ出さなければならない、といった所にあると言える。また、それを遵守した者は「正しい」遊学者である。この規範を受け入れる事が出来ず、都会に適応出来なかった「堕落した」遊学者は、

 

「幾程もなく都会の紳士風に感染せられ、腰にちょッとした時辰儀を纏きつけ、着色の眼鏡を高慢らしく鼻に掛け、マニラなど吹からかして、優然流眼に人を見遣りて、萬時気取りたがるやうになるものなり。すでに此程にまで進化すれば、更に一轉して半可通となり、大事の学問をば*[14]留守にして、遂にはまで勘当なし、在学八年風に頼りと勉強の効見へて遂に或意味の博士となりしも、其代りには肝心の本科は無難に落第して、すごすご故郷に帰り行く」[同上]24

 

と、所期の目標を達せられずに悲惨な末路を辿る事になっている。ここで注意したいのは、この紳士風に感化された若者は後の章で述べるように、受験に失敗したから堕落していったのではない、という事である。つまり、落第したから失敗と見なされているのではなく、(生活の規律を守る事に)失敗(=都会の生活に適応出来なかった)したから落第したと見なされているのである。換言するならば試験に落ちる事が独自の意味世界を構成するには至っていない、という事である。そのために、『東京遊学案内』では、

 

「在京の書生…学業を修めて其志を遂げむとすれども、学校の定員に限りありて、十に一を取り、百に十を採り、甚しきに至っては二千名の志願者より僅に二十人を挙ぐる仕末なれば、普通の学力を有する者は余儀なく従来の素志を変じて手当たり次第招募に應じ、斯くても尚僥倖を期する能はずして中途に彷徨ふがおおかるべし。」[同上]9

 

の理由を遊学の方法の過ちに起因させているのであり、その関心は試験の失敗ではなく遊学の失敗(堕落)に向けられているのである。つまり、上に引用した様々な言説は、「受験」への適応問題を扱ったものなのではなく、「都会」への適応問題を扱ったものという事が出来る。その意味では、上に引用した紳士風に感化された落第生は(仮にこの様な言い方が許されるのならば)「都会人」になれなかったという意味では「浪人生」と言う事は出来たとしても、「受験」を失敗した「浪人生」と言う事は出来ないのである。

 

4-3 まとめ

この様に、明治20年代には、遊学というキーワードが隆盛を極めていた。そして正しい遊学方法というのが出来たのもこの時代であり、それは、綿密な計画、健康の増進、品行方正といったものであった。しかしながら未だこの時期にはおいては今日の様な「浪人生」の規範は誕生していない。「浪人生」が誕生するためには、試験がそれ自体で重要な意味を帯びてこなければならない。人々が試験それ自体にあたかも「ゲーム」の熱中して取り組んでいなければ、試験に落ちた場合、それに落ちる事それ自体よりも、試験に失敗した事で東京を離れなければならないといったような、むしろそれに付随した現象に関心が向いてしまうからである。つまり、「浪人生」が誕生するためには「受験」の時代を待たなければならないのだ。次章では、試験に失敗した事がそれ自体として語られ始める時代、換言するならば、「浪人生」という規範が出来始めた時代に関しての考察を進めていきたい。そして、その社会的条件、試験に失敗した学生の語られ方などを順次考察していきたい。

 

 

「浪人生」の黎明期

 

前章で考察した様に、明治30年代に入るまで「受験」に失敗したただそれだけの事が単独で語られる事はなかった。それは福沢諭吉が、『学問のすすめ』で、

 

「されば前にも言える通り、人は生まれながらにして貴賎貧富の別なし。ただ学問を勤めて物事をよく知る者は貴人となり富人となり、無学なる者は貧人となり下人となるなり。」[福沢:明治5年]

 

と語り、近代社会で学歴の重要性を説き、明治10年に創刊された雑誌『穎才新誌』において、

 

「明治10年代はじめの[穎才新誌の]投書には、勉強は富貴のための資本である(『勉強は富貴を得る資本の説』)とか、勉強は立身の基礎である(『勉強は身を立てるの基となる説』)、勉強は幸福を生む母である、というような勉強言説が洪水のように登場している。」[竹内:199138項([]内、引用者)

 

にも関わらず、試験そのものには大きな関心が向いていなかった事を意味する。竹内が、

 

「[『穎才新誌』や『学問のすすめ』は]富貴や官職の内容についてはなにもふれられていない。…どのような学問を学べばいいのか、どのような学校に行けばいいのか授業料はいくらかなどの勉学や立身出世のための具体的手段や情報については一切ふれられていない。」[竹内:19915051項([]内、引用者)

 

と述べている様に、この時代の勉学にまつわる言説は抽象的で曖昧模糊としていたと言える。また、前章で考察した様に明治20年代に入り、遊学の方法が具体的に語られる様になっても試験そのものに関心が向いていたとは到底言い難い。そのため、現在では当たり前の様に用いられている「受験」という用語すら誕生していなかった。その様子が次第に変容していくのが明治30年代という時代なのである。

  そこで、本章では「浪人生」が発生するための社会的条件を記述した後、人々が試験そのものに関心を向けていく過程、そしてそれがどの様に「浪人生」と関わっていくのかを述べていきたい。

 

5-1 受験競争の過熱と旧制高校受験者の急増

社会学者の外山正一は彼の著書『藩閥之将来』(明治32年)において、

 

「将来の日本に於ては、管理社会に於ると、民間に於るとの論なく、高等なる位置責任ある地位に居るものは、必ず適当なる教育資格を有する者でなければならぬ」[外山:明治32 天野(199219項の資料より]

 

と述べ、当時の日本で重要な地位を占める人間は教育資格、つまり学歴を取得した者でなければならない、という事を説いている。そして、上述した福沢や『穎才新誌』の時代とは違い、この時代においては、多くの人々に教育資格=学歴を得る事の重要性が認識され始めていたのである。外山は、この『藩閥之将来』で、山口県の教育熱がいかに高いかを説き[15]、其の理由を山口県人が明治維新の際に握った権力、藩閥としての力を学歴に変換し、それを維持していった事に帰している[16]。これに続けて外山は、「高等文官」任用制度の発足以来、帝国大学卒業生の学士が大量に官僚に任用される様になっていった事、そして「銀行」や外山の言うところの「大会社」(現代的に言えば「大企業」)においても帝国大学卒の学士や慶應義塾大学の卒業生を大量に卒業しているものが優先的に採用されているという事実[17]を挙げている。外山の指摘の様に、この時代には学歴による上昇ルートが可視化されいたのである。

それでは、本当にこの時代の人々は『学問のすすめ』や『穎才新誌』の時代とは異なり、学歴の効用を認識し、学歴取得に夢中になっていたのだろうか。以下では、当時の統計を参照する事によって上昇移動ルートが可視化されたために受験者の数が実際に上昇していったという事を、そしてそれが「浪人生」の誕生にどの様な役割を果たすのかを実証していきたい。

それでは、まず以下の表2を参照されたい。表2は、中学校卒業者の数および、高等学校の志願者数の推移を表したものである。

 

 

2中学校卒業者数および高校志願者数

 

中学卒業者

高校志願者

明治28年

1170

NA[18]

29年

1824

2159

30年

2429

2943

31年

3067

3178

32年

4206

3635

33年

7787

4914

34年

9496

5052

35年

11149

4456

36年

12476

4214

37年

10461

4076

38年

9901

4709

39年

11028

5151

40年

11713

6004

41年

11781

9807

42年

11708

8997

 

 

 

『学歴貴族の栄光と挫折』、『学歴主義の系譜』、『明治以降 教育制度発達史第四巻』より作成

 

 

まずこの表2の明治30年代の中学卒業者数に注目されたい。明治30年には一年間の中学卒業者数は2429人であったのに対し明治30年代の終わりである明治39年には、11028人と、約5倍近い人数になっているのである。また、その数を明治28年のものと比較すると約10倍近く、中学卒業者数は増大しているのである。旧制高校を志願した者の人数も、明治29年には2159人だったのに対し、明治39年には5151人と2倍以上の増大を見せている。つまり、この統計資料からは次の様な結論を導き出す事が出来る。明治30年代頃に、上昇移動ルートが可視化されたために、学歴取得競争が過熱された。そしてその一例として、中学卒業者数が増大し、その卒業者の中から更に上級の学校へ進学しようとする者の数もまた増大した[19]、と。

それでは、その高校志願者の受け皿である旧制高校の数はどうなったのであろうか。以下の表3を参照されたい。これは旧制高校を時代別、特徴別に類型化したものである。

 

 

表3  旧制高校の類型

ナンバースクール

*明治時代に設置

第一、第二、第三、第四、第五、第六、第七、第八

8

地名校

主として大正時代に設置

 

新潟、松本、山口、松山、水戸、山形、佐賀、弘前、

松江、大阪、浦和、福岡、静岡、高知、姫路、広島、

旅順(昭和15年)                     17

七年制高校

主として大正時代に設置

武蔵(私)、台北(官)、富山(公→昭和18年より官立3年生)、

甲南(私)、成蹊(私)、浪花(公)、成城(私)、東京(官)、

学習院(宮内庁管轄→大正10年高等学校と同等の資格を得る)、

府立(公 昭和4年)           10

帝国大学予科

北海道帝大予科、京城帝大予科、台北帝大予科 3

 

『学歴貴族の栄光と挫折』表18より作成

 

 

この表を見る限りでは、大正時代までにはかなりの数の旧制高校が設置されていった。しかしながら、この増加の仕方は、旧制高校受験者数の増大と比べると、あくまでも漸増と言わざるを得ないし、明治30年代に旧制高校の受験者数が増大していったにも関わらず明治時代に設置されていた旧制高校は旧制第一高校から第八高校までのいわゆる「ナンバースクール」のみであった。そのため、旧制高校の入学試験の倍率は一向に低下する様子を見せなかったのである。本論文巻末の図1を参照されたい。この図は、明治33年から昭和23年までの、旧制高等学校の志願者と旧制高等学校の実際の入学者数、そしてそこから導き出される入学試験倍率をグラフ化したものである。このグラフを見る限りでは、明治34年から明治36年にかけては入学試験倍率がわずかに低下しているのを例外にし、明治末期から大正時代にかけてその数字は増大の一途にある事が分かる。

議論が複雑になってきたのでここまでの議論をまとめると次の通りである。上昇移動のルートが可視化され、受験競争熱が過熱させられた。そして実際に統計で確認した様に、中学校卒業者数は上昇過程の一途にあった。そしてそれの受け皿である旧制高校の数時代が漸増と言う程度でしか増加しなかったために、結果として入学試験の倍率が跳ね上がっていったのである。

私は、入学志願者の数が、入学定員の数を上回る事が「浪人生」の誕生する必要条件である、と第2章で述べた。この時代において、初めてその必要条件が満たされる事になったのである。その証拠に下に引用した表4を参照されたい。

 

 

表4  現役/浪人別高校志願者数[20]

 

明治33年

 

志願者

入学者

現役

2820

1113

78.2

一浪

801

264

18.6

二浪

113

43

3.0

三浪以上

7

3

0.2

 

明治34年

現役

3167

1018

70.2

一浪

1187

367

25.2

二浪

332

55

3.8

三浪以上

28

12

0.8

 

明治35年

現役

2834

1001

63.4

一浪

1216

459

29.0

二浪

320

100

6.3

三浪以上

68

20

1.3

 

 

 

 

『学歴主義の系譜』 表71

 

 

これは深谷(1969)に掲載されている表で、深谷が『教育時論 明治35715日号』と『同 1225日号』に掲載されている表をまとめて表にしたものである。上述した様に、一次資料の中では「現役」や「一浪」「二浪」といった言葉は用いられておらず、「明治34年卒業者」、「明治35年卒業者」といった様な用語が用いられていた事には注意されたい。ともあれ、この様に中学校の卒業年別に高等学校の志願者、入学者の表が作成された事は本研究の趣旨からは特筆すべき事実であり、上述した必要条件が満たされている事の例証となっているのである。また、この時代の『教育時論』の他の記事を調査してみた結果、入学試験が激化を論拠に、高等学校の改革、入試方法の改革、さらには教育制度全般の改革などが論争の的になっている。この様に、この時代になって始めて、受験に失敗したという正にその事実が語られる対象と成り得たのである。

ここまで見てきた様に明治30年代以降は、(特に高等学校への)進学競争が過熱化し高等学校の入学志願者が高等学校の入学者数を上回り始めた時代であった。明治33年にはその倍率は約2倍となり、官報[21]にもその事が記載される事になった。この様にして「浪人生」が語られるための条件の内の一つである、受験競争が過熱し入学志願者数が実際の入学者を上回るという現象が成立したのである。

 

5-2 エリートコースの確定

前節で考察した様に、明治30年代に入って高等学校志願者数>高等学校入学定員という現象が初めて起こった。そしてそれは「浪人生」が誕生するための必要条件であると述べた。しかし、それだけでは「浪人生」が誕生するための条件はそれだけではない。前節で上昇移動のルートが可視化された、と述べたが、仮にそのルートが複数あったならば人々がこれ程までに旧制高校を志願する様にはならなかったであろう。つまり、「浪人生」が誕生するための条件の内の一つには上昇移動のルートが一つであるという事が必要なのである。本節では、前節で詳述されていなかった上昇移動のルートの内実を、そしてそのルートがどの様にして確定していったのかという事を考察していきたい。

旧制高等学校の前身である、高等中学校は明治19年の「中学校令」(勅令第15号)によって誕生した。この「中学校令」は日本全国を5つの区に分け、それぞれの区域に第一から第五までの高等中学校の設置を決定した勅令である。この「中学校令」が告示された年に東京大学予備門が改称されて第一高等中学校に、大阪にあった大学分校が改称されて第三高等中学校がそれぞれ設立された[22]。また、その翌年には第二、第四、第五の高等中学校が次々と設立されていったのである[23]。それでは、政府はこの高等中学校をどの様な教育機関と見なしていたのであろうか。それは以下に引用する初代文部大臣、森有礼の演説の一文が参考になる。

 

「小学及ひ尋常中学は中等以下の教育にして実用となるべきものを作る所なれども高等中学は稍異なり高等中学は大学に入るの門なり世に出づるときは衆人の思想を動かすに足り学を修めては其奥蘊を究むる等必す社会上流の地位に立つものなり」 森有礼「明治20年6月 宮城における森文相の挨拶」『教育時論 明治20年8月5日号』[深谷(1969)の資料より引用]

 

この様に、森は高等中学校は基礎的な知識を提供する教育機関というよりは、帝国大学での学習の基礎となる知識を身に付けるための教育機関として構想していた事が伺える。そして、高等中学校を卒業し、帝国大学を無事に卒業した者は「社会上流の地位に立つ」に相応しいと考えていたのである。それを裏付けるかの様に、明治20年には「文官試験試補乃見習規則」が公布され帝国大学を卒業した学士には、無試験で官僚に任用される特権が与えられたのである。高等中学校には本科の他に予科、補充科と呼ばれるものが設置されていたが、予科は高等中学校本科のカリキュラムについていく事が出来ない学生が基礎知識を学ぶための場であった。そして補充科はその予科のカリキュラムすら消化する事が出来ない学生のためのものであった。巻末の図2を参照していただきたい。当時、高等中学校はその下の教育機関である尋常中学校と接続していた。しかしながら、この当時は近代教育が始まったばかりの時であり、尋常中学校と高等中学校の接続がスムーズに行われていず、また尋常中学校のカリキュラムも高等中学校のそれについていくためには全く不十分なものだった[24]。それを補うための臨時の制度が高等中学校予科と補充科であったのだが、その様な状況からも窺い知れる様に、高等中学校が設立された当初、本科に十分な学生を集める事が出来たのは、第一高等中学校だけであった。明治20年には本科の学生は全ての高等中学校の本科生を合計しても361人であったのに対し予科生は1185人であった。また、翌年になっても状況はそれ程変わらず、本科生420人に対し、予科生1410人、補充科生724人といったありさまであった。そしてこの様な状況は高等中学校が(旧制)高等学校に改組され、予科制度が廃止される明治27年まで一向に変わる気配を見せなかったのである[25]

そして明治27623日に「高等学校令」(勅令第75号)が公布された。この勅令によって高等中学校が高等学校に改称され、それに伴って予科と補充科の制度が廃止される事となった。これによって高等学校の修学年限は3年間に定められ学校制度の接続系統は実質的に巻末の図3が示している様な、すっきりとしたものとなったのである。ここで実質的にと述べたのは、「高等学校令」は帝国大学に進学するための予科だけではなく、それ自体で専門教育を教授する専門部を設置する事も定められていた[26]。むしろ、高等学校令の第2条で、「高等学校は専門学科を教授する所とす。但し帝国大学に入学する者の為めの予科を設くることを得」とされていた事からも分かる様に専門部に重きを置いた教育機関であり、大学予科の方は「おまけ」という事が出来る。この様に理念としては専門部に重点が置かれ発足した高等学校であったが実際に賑わったのは大学予科部門の方であり、上述した図3のルートを辿るものが大半であったのである。その主な理由を天野は、

 

「帝国大学を卒業すれば、官僚の任用制をふくめて、さまざまな特権にあずかることができるのに、高等学校の専門学部を出ても、なんの特典も約束されていない。不振の最大の理由は、そうした『学歴の効用』の有無にあったのである。」[天野:1992190191

 

と説明している。その結果、明治30年代に突入すすると同時に高等学校の専門部は次々と分離・独立し、最終的に高等学校は当初の理念とは裏腹に大学予科に特化した教育機関となってしまったのである。そして、それと同時に高等学校をフランスやドイツのリセやギムナシウムの様な中産階級のための「教養」教育の場にしようという構想が、またアメリカのリベラルアーツ的な高等教育機関に変えていこうという構想が登場した[27]。その両者が折衷される形で成立したのが大正7年の改正「高等学校令」である。その結果、上述の表3にある様な中高一貫の7年制高等学校の設置が認められる事となり本論文の巻末の図4にある様な教育体系が完成したのである。

本研究で、上述した学校教育体系の変化が意味する事は何か。まず、高等学校の予科、補充科が廃止された事は「浪人生」が誕生するための要因として見逃す事が出来ない。それでまでは尋常中学校を卒業し、高等中学校に進学を希望するものが高等中学校の要求する能力を持ちあわせていない場合、予科や補充科で学ぶ事が出来なたのだが、明治27年に高等学校に改称されてからはそれが出来なくなってしまった。つまり、中学を経て高等学校を目指すものが学ぶための「公」の教育機関が消滅してしまったのである。

またエリートコースを歩むには実質的に帝国大学を経なければならなくなってしまいその結果、帝国大学を頂点としそれを基準とした学校体系が出来上がってしまった事は、高等学校を卒業したものの帝国大学に入学しそこなったいわゆる「白線浪人」の誕生の原因として見逃す事が出来ない。前節では主に、高等学校志願者が高等学校の入学定員を上回ってしまった状況を考察したが、「高等学校令」が改正された頃には高等学校を卒業したにも関わらず、帝国大学に現役で入学出来ない学生も現れ始めた。以下の表5を参照されたい。

 

 

表5 帝大現役入学率

 

東京帝大

 

 

帝大・官立大現役入学率

大正11年

75%

 

昭和2年

84%

昭和10年

52%

 

昭和6年

70%

 

 

 

 

 

『学歴貴族の栄光と挫折』より作成

 

 

この表を見ると、大正11年には25%もの学生が高等学校を卒業した後に「浪人生」を経て帝国大学に入学している事が分かる。そこで、巻末の図5を参照されたい。これは学校系統の3種の「理念型」である(例えば一般的に、現代の日本の学校系統は単線型に近い分岐型、フランスやドイツ[28]などのそれは日本の学校系統に比べより分岐型の理念型に近いと言われている[29]事を考えればこの理念型のイメージは掴み易いだろう。)当時の日本の学校系統は、中学を卒業した後の進路が専門学校や師範学校、そして高等学校といった様に複線化されており、その意味ではどちらかと言うと分岐型に近いといえる。分岐型は、いったん(旧制)高校の様な上級学校へ進学するための学校に進学してしまうとさらに上級学校へ進学しなければならずその意味では「つぶし」がききづらい学校系統と言えるだろう。従って、表3にある様に旧制高校の数が漸増し、学生の数が増えたにも関わらず、帝国大学の学校数は変化を見せなかったという状況の元では、高等学校卒業生が選び得る道は「白線浪人」しかなかったとも言えるのである。

上述の様に、この時期の学校制度の変化もまた「浪人生」が誕生する要因の一つである、という事が出来るのだ。しかし、それだけでもまた「浪人生」の誕生の要因を全て説明した事にはならない。再三述べているように、確かに、実質的に高等学校や帝国大学に「入試倍率」が発生し、また、高等学校の予科が廃止され、中学校と高等学校の間の「公」の教育機関の存在が無くなってしまったとは言え、その事自体を問題視する眼差しがなければ「浪人生」が「浪人生」として語られることはないからである。次節では、「浪人生」がどの様なものとして語られ、また、それを語る意識とはどの様なものなのか、という事を考察していきたい。

 

5-3 「受験」、そして「浪人生」のプロトタイプ

この節では明治30年代が前章の『東京遊学案内』の時代とは異なり、「受験」そのものに関心が向いていった時代であるのか、また、それに失敗したという正にその事実をもって「浪人生」が語られるようになった時代であったのか、という事を考察していきたい。

竹内(1991[30]によると、明治30年代は学校情報誌において、「遊学」から「受験」へとそのキーワードが移行した時代である。そしてそれは『少年園』(明治21年創刊)から『中学世界』(明治31年創刊)という雑誌の流行の移り変わりに呼応している。そして実際に、『中学世界』の目次[31]を見るだけでも、「受験」という言葉が多用されておりそれが事実である事が分かる。また、『中学世界』が取り扱っている題材は、『東京遊学案内』の様に「遊学」だけにとどまらず、「入試問題」、「合格体験記」、「学校案内」など多岐に渡っていると言えるが、それらの中核をなす概念が「受験」だったのである[32]

それでは、この「受験」という用語が学校情報誌において多用される様になった事が何を意味するのだろうか。以下に引用する竹内の文章が参考になる。

 

「そういう新しい用語(受験)によってあらたな生活世界(受験時代)が立ち上がるという面に目くばりする必要がある。入学試験の準備期間が受験の時代として特有の意味や定義が付与され、区画化された時間にフォーマットされるということだ。その過程は、近代社会のなかで「子供期」や「青年期」という新しい人生段階が発見される過程と似ている。」[竹内:199192

 

  この文章は明らかにアリエスの『<子供>の誕生』を意識したものであるが、この文章は二つの意味で参考になる。一つは、この時期に「受験」という言葉が多用される様になった事が意味する事の理解が可能になるという点、そして、もう一つは「浪人生」の誕生を考察する上で適正な理論を提示しているという点がである。後者は、引用文章中の「受験」という言葉を「浪人生」に置き換えれば、それが私が再三にわたって述べてきた本研究の基本的な視点である事が分かる。それならば、前者についてはどうか。以下に考察を進めていきたい。まず、「受験」という用語は、入学のための準備期間に単なる準備期間以上の意味を付与する。それは次の様にも言い換える事が出来る。

 

「受験という観念は正しい受験生とは何かについての物語を紡ぎはじめる。」[竹内:199193

 

つまり、純粋に入学のための準備期間だった時間が、「受験」という言葉が生み出された事によって「正しい受験生」とは何かを定める「規範」になってきたのである。学生の関心が「遊学」から試験そのものに移り変わっていく事によって誕生した「受験」という用語が、逆にその学生を「正しい受験生」と「正しくない受験生」に分類する規範ともなり得るという事なのだ。それでは、「正しい受験生」の規範とは何か。竹内によると、それは「努力」と「勤勉」である。この規範は久米正雄の『受験生の手記』の主人公の悩みに端的に表れている。『受験生の手記』の中で、勉強に手が付かず苦悩する主人公が描写されているがこれは正に、この「正しい受験生」の規範と自らの現実の間のギャップに苛まれている事の表象である。この様に、「受験」という言葉は、「正しい受験生」の規範を生み出したのだが、現実に全ての「受験生」がこの規範を忠実に内面化していた訳ではない。竹内によると受験生の生活世界は、「一方で『誘惑』『耽溺』に、他方で『倦怠』と『憂鬱』に接した脆弱な世界」であったのである。そして「誘惑」に負け「耽溺」に陥った「受験生」は「堕落」し、「倦怠」「憂鬱」に苛まれた「受験生」は「神経衰弱」にかかってしまっていた。そのため、当時の受験雑誌には、「神経衰弱」を治癒するための薬の広告を大量に見受ける事が出来るのであり、『学生風紀問題』の様な「堕落」した学生を問題視する書籍が著されたりしたのである。

ここまで述べてきた事で、明治30年代は試験そのものに、換言するならば「受験」に人々の関心が向いてきた時代であることが分かった。それでは、その「受験」に失敗してしまった存在である「浪人生」はこの時代、どの様に語られていたのだろうか。結論から言ってしまうと、この時代は「浪人生」の語られ方に幾つかの類型が存在する。まず、上述した「受験」に適応できずに「堕落」し、「神経衰弱」にかかってしまった学生と明確な区別がなされていない語り方がその一つである。それはどういう事か。以下に具体的に記述していきたい。上述した『学生風紀問題』は、第3章に述べた研究対象には含まれていないのだが、

 

「明治三十五年(一九〇二年)に出版された『学生風紀問題』には、進学競争に敗れた中学生が、病気になったり自暴自棄になったりしているとの記述があるという。浪人の増加は社会問題になっていたようだ。」[33]朝日新聞1998108日号夕刊

 

とある様にこの時代の「浪人生」を語る上で欠かす事の出来ない著名な書なのであえてここではそれを取り上げる事とする。この『学生風紀問題』では、「浪人生」は次の様に語られている。

 

(不良学生の風紀の問題を説くという文脈で)「競争に敗るること再三に及は、或は狂となり或は自暴自棄に變し、或は病折するものあり是等不幸憐むへきの學生及其父兄にして慰諭の責あるは誰そ。」[井田:明治35年]

 

これは一見しただけでは前章の『東京遊学案内』の堕落学生と変わらない様に見えるが、ここには明確な差異が存在する。因果関係が逆転しているのだ。『東京遊学案内』での堕落学生は、堕落したために落第し帰郷する事となった。しかしここで語られている不良学生は、「受験」に失敗したために堕落したのである。また、上述の『中学世界』の版元である博文館から出版されている『官公私立諸学校 改訂就学案内』では、

 

「而して是等(一念発起して東京に学びに出る)学生諸君が、其郷関を出づるに當つてや、必らずや皆将来の功名栄達を期し、希望と抱負は胸宇に満ちて、『功若し成らずば死すとも還らざる』の意気を以って都門に向かひたるものなるべけれど…出京後往々にして事志と違ひ、空しく失敗の悲運に陥るもの亦実に数ふるに遑あらざらんとす。」[博文館編集局編纂:明治37年]

 

と述べられているが、これもまた、学生が「受験」に失敗した正にその事で状況当初に抱いていた希望や抱負が失われていくという趣旨の事が述べられている。そして上述した『教育時論』でも「浪人生」が個別のカテゴリーとして登場したあたりから次の様な言説が多々見受けられるようになる。少々長い文章だが引用したい。

 

「而して今日の状況を見るに中学校卒業生は高等学校の不自然なる入学試験制度により僅かに一部少数者の入学を得、且つ今日の如く少数なる高等学校にでは全国数千の希望者を満足せしむる事能はざるべく、年々希望者の増加するに関せず入学せしめ得る数は僅々希望者の五分の一か四分の一位に過ぎず、而して入学に漏れし多数の学生は何処に向はんとする去つて実業学校に向はんか、是亦少数の学校は多数入学を許さず、斯の如くして何処の方向に向ふも殆んど入学し得ざる多くの学生は自ら学力の劣等を認むるよりもむしろ試験制度の不自然を難じ、年々に増加する此等入学に漏れし学生は有為の自棄を不生産に徒費する結果往々救ふ可からざる堕落の淵に沈み、或は煩悶者と化す、然らざる者も尚ほ且自己の天才を疑ひ遂には希望以外、天性以外の学校或は業務にずるに至る、斯くして国家有為の青年の天興の個人性は全然没却され、終生不得意に終るべきなり、[寺田:明治41年](傍線部、引用者)

 

上記の分章でも、受験に失敗した者(「浪人生」)は正にその事実をもって「堕落の淵に沈」むか「煩悶者」となってしまう、と述べられているのが分かる。さらに付け加えるならば上述した『受験生の手記』の主人公もまた「浪人生」である。彼もまた、「受験」(と恋愛)に敗れた事で、悲運にくれて自殺という道を選んでしまったのである。

確かに、上に挙げた事例は、どれも『東京遊学案内』の時代とは異なり、堕落の主要因は「受験」に失敗し「浪人」する事である。しかしこれらは上述した「正しい受験生」裏返しである、堕落した受験生や、神経衰弱にかかってしまった受験生と明確な区別がなされていない。「浪人」したからといって堕落してしまう必然性はどこにもないのにである。例えば、『学生風紀問題』は朝日新聞の記事に述べられている様に「浪人生」の問題をそれ単独で扱ったものではなく、不良学生の問題全般を指摘する文脈でそれと同様なものとして扱われているのであり、その意味では「浪人生」は不良学生と同一視されている。また、『受験生の手記』も「浪人生」が主題であると言えるのだが、そのタイトルは『受験生の手記』であって『浪人生の手記』ではない。その語れ方を図示すると以下の通りである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


この図は「浪人生」があるべき「受験生」の規範の裏返しに含まれているのであって「浪人生」独自の規範が誕生している訳ではない、という事を説明している。確かに、「受験」が語られる様になり「受験」に失敗したという事それ自体が語られる様になったのだが、今度は「正しい受験生」の裏返しの存在との差異化が不明確になってしまったのである。

上述した通り、この時代の「浪人生」の語られ方は複数存在する。それでは、次に、「浪人生/現役生」の差異が誕生し、その語られ方が存在した事も紹介しよう。上記の「在らざるべき受験生」との差異が不明確な状態と区別し、その語られ方を図示すると以下の通りである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


この図では、「浪人生」と「受験生」の一部が重なっているが、「浪人生」もまた「受験生」である以上、これが重なっているのは当然の事である。それでは、具体的に「浪人生/現役生」の差異が明確な語られ方とはどの様なものなのかを見ていきたい。

京都帝国大学自彊会が編纂した『学校之先蹤青年就学指針』という書籍がある。これは、「受験」をむかえた学生に対し経験者がアドバイスをしている書物という点では『中学世界』と同様の内容なのだがこの本の「中学校卒業時代」という章に興味深い記述が見られるがそれは以下の通りである。

 

「入学試験失敗者中には事情によりて目的を変ぜざる可らざるものと、変ぜざるものとあり、なるべくは目的を一貫する方よし…」

「一度失敗した人は、余程勉強しないと二度目も亦失敗する。」

「何も試験に合格したからとて必ずしも実力があると云ふ訳ではない。」

「競争試験失敗者諸君よ、願くは気を平かに心を虚ふし、極めて冷静の態度を執られん事を、…」

「健康なる精神は健全なる身軆に宿るといふ羅甸の格言にして真ならしめば、…海に山に其の欲する所に従ひ、或は山水に放浪して雲気の影気より清きを吸ひ…宜しく正に天地と契合すべき也。」

[京都帝国大学自彊会同人編:明治39年]

 

ここには、上述した「在らざるべき受験生」の規範とは違った、「浪人生」を現役生と峻別して語る構造が見られる。ここに見られる「浪人生」像を簡単にまとめると「一度の失敗を悔やまずそれをばねとして心身共に健康な状態で、翌年の受験に臨む存在。また学力は現役生よりも優れているべきである」というものである。上記の「あらざるべき受験生」の規範と「浪人生」が未分化であった状態では受験に失敗した受験生の辿る道は堕落しか残されていなかったのだが、ここにおいては、心身を健康に保ち翌年の受験では成功を収めるというオルタナティブが用意されている。また、「試験に成功したからと言って必ずしも実力がある訳ではない」という一文は、現役合格をした学生のおごりに対しての反発であり、ある意味現役生を基準に差異化が行われている、つまり、

 

「はじめからかならず負けるとわかってスタートするこの種のレースに参加する者は、競争しているというただそのことだけで、彼らが追いかけている先行者たちの追求目標の正統性を暗黙のうちに認めていることになるからである。」[ブルデュー:1990258

 

という様に解釈でき興味深い。この様に、「浪人生」が「現役生」との差異の体系の中で語られ、そこからある種独自の「浪人生」像、換言するならば「正しい浪人生」としての規範が誕生してきている。またこの時期、『学校之先蹤青年就学指針』以外にもこれと似た構造を有した言説が生み出されてきている。

 

「高等学校の入学試験に落第したる人が、更らに来年まで待つて試験を受け直す方がよいか、或は私立学校へ直ぐに入る方がよいか。…普通の中学を卒業した、十八九から二十歳頃までの人が、一年を無駄に棄てるといふ事は大変な損害である。…早く学校へ入らねばならぬ。それには私立学校へ入る外はない。」[黒岩:大正1年]

 

ここで、黒岩は「浪人生」と「現役生」を暗黙の内に差異化している。何故ならば、黒岩は「浪人生」を経験する事の損害、つまり機会費用(オポーチュニティー・コスト)を根拠に挙げ私立学校への入学を勧めているのであり、その機会費用は「現役生」を基準に考えているからである。

ここまで見てきたように、この時期において『東京遊学案内』の時代とは異なり、「受験生」が受験に失敗したという事実のみをもって語られ始めてきた。そして、それは「在らざるべき受験生」と渾然一体となっていたものが多い事は先に指摘した通りだが、その中にも上に引用したような、「浪人生/現役生」の差異に基づき今までにない「浪人生」の概念を構築している言説も存在していたのである。それでは、この様な「浪人生」に対する眼差しはどの様な意識から生まれるのか。以下にそれを考察していきたい。

「浪人」するという事を問題視する視点には、裏返せば「浪人生」が珍しいもの、中学校で学んだものは高等学校へ、高等学校で学んだものは帝国大学へそのまま入学して当然であるという意識が垣間見える。つまり、ある教育段階(例えば中学校)は次の教育段階(例えば高等学校)に入学する者に十分な知識を授けており、またそこで学んだ者はその資格がある、という意識である。例えば、次の言説がその事を端的に物語っている。

 

(帝国大学の倍率が上がっているのに対して)「高等学校卒業者は年々多くなり、大学に入学出来なくして浪々の生活をして居るものが可成多いのである。この現状を考へると帝大への傍系入学禁止も一應の理由がある様である。」[青葉:昭和10年]

 

これは高等学校の卒業者が帝国大学に入学する事が自然なのだからそれ以外を入学禁止にしてしまう事は自然だと主張する意見である。つまり、帝国大学に入学できない高校卒業生がいるという自体が「不自然」だと見なされているのである。また、上述した寺田の言説にもその意識を見取る事が出来る。彼は、「浪人生」を生じてしまう当時の高校入試制度を「不自然」であると断じている。そして、先に引用した『学校之先蹤青年就学指針』にも、同様の意識を見出す事が可能である。

 

(ストレートで上級学校に入学できない学生に対して)「即ち人の四年要する所は六年又は八年を期して之を為さんとを志すにあり、これ最も至當の考にして之にてよく成功せる人吾人の知人にも有二三年乃至四五年の差異は社会に出でで何等重大の関係なき也。」[京都帝国大学自彊会同人編:明治39年]

 

この言説は、「23年の違いなど社会に出たら大差はない」、という趣旨のものである。この言葉が「受験」に失敗した学生に向けられて述べられて言葉である事に注意されたい。つまり、上級学校へストレートで入学できなかった学生「浪人生」は、それを時間の無駄であると考え悲嘆にくれるからこそ、この様なアドバイスが成り立つという事である。「浪人生」に対して「浪人生」という眼差しを向けさせる意識は、正にこの上級学校へはストレートで行くべきでその準備のための勉学に時間を注ぐのは無駄であるという意識なのである。

しかし、これだけでは「浪人生」が問題視され、それが語られる事はないのではないだろうか。もし、「受験」の準備のために「浪人」する事が時間の無駄であるのならば、他の、入学し易い学校に、例えば私立学校などに入学すればよいのである。上に引用した黒岩の意見はまさにその点を突いたものである。しかし、多くの「受験生」はそうは思っていなかったのである。前節の制度を考察した際に、私は、帝国大学をその頂点に教育体系が整備されたという趣旨の事を述べたが、まさにそれが「受験生」の意識のレベルにまで浸透してしまっていたのである。例えば、上述した『中学世界』の博文館から出版されている『官公私立諸学校 改訂就学案内』の次の一文がこの意識を解明するのに参考になる。それは以下の様なものだ。

 

「卒業後の資格の有望な学校程入学の容易ではないは至當の理で、あまり容易く入学し得べき学校ならば余り人の近よらぬ学校、卒業しても余り有望でないという様なものでなければならぬ[博文館編集局編纂:明治37年](傍線部、引用者)

 

ここでは、倍率の高い学校こそがよい学校でなければならない、という事が述べられている。競争の激しい学校こそがよい学校であり、よい教育を受けたいものはそこを目指さなければならない。この様な意識が当時の学生を支配していたと考えれば、高校であったら第一高等学校、大学であったら東京帝国大学の倍率が年を経るにしたがって高騰していった理由の一端も理解できる。そしてこれは上述した、浪人=時間の浪費という意見と真向から対立する。競争の激しい学校こそよい学校であるという意識があるからこそ、人々は倍率の高い学校こそよい学校であると信じて疑わずチャンスがあればそれを受けようとする。しかし正にその倍率が高いという事実ゆえに、全員が合格できるとは限らない。そして定員にあぶれたものは仕方なく「浪人」してしまうのだ。しかし、そこに待ち受けているのは「浪人」=「時間の無駄」という眼差しである。つまり、この二つの意識が矛盾しているからこそ、「浪人生」に特別な眼差しが向けられる、と言う事が出来るのである。そして、その意識が生じたからこそ、この時代に「浪人生」のプロトタイプが生じたと結論づける事が出来るのである。

 

5-4 メタファー

前節までの考察で明治30年代には人々の関心が「遊学」から「受験」そのものに向いたという事、またそこではじめて「浪人生」が「浪人生」として語られる様になった統計的原因、制度的原因、また、それを産出する社会的意識の矛盾を考察してきた。しかし、「浪人生」はなぜ「浪人生」と呼ばれるようになったか、換言するならば、受験に失敗した学生というシニフィエになぜ「浪人生」というシニフィアンが用いられるようになったかが解明されていない。本節ではこのシニフィエとシニフィアンの結びつきの問題をメタファーの観点から考察していきたい。

学生はしばしば「武士」に例えられる。その事は、上述した、『穎才新誌』の言説にもその傾向は顕著に現れている[34]。第4章でも簡単に言及した様に、近代的な学校が登場しその効用を最初に利用した階級が士族であった。その事も学生が武士に例えられる事に多いに関係している。一例として、旧制高等中学校の士族の割合は、以下の表6を参照されたい。

 

 

6旧制高校中の出身階層比率

 

華族

士族

平民

総数

明治19年(一高中)

0.2%

60.9%

38.9%

1188

明治20年(一高中)

0.3%

60.0%

39.7%

1048

明治20年(三高中)

0.3%

37.3%

62.4%

319

明治21年(五高中)

0.0%

77.3%

22.7%

260

明治23年(全高中)

0.2%

51.5%

48.4%

3982

明治24年(全高中)

0.1%

51.4%

48.5%

4442

明治25年(全高中)

0.2%

51.6%

48.2%

4443

 

 

 

 

 

『学歴貴族の栄光と挫折』表26より

 

 

明治12に、士族が全人口中に占める割合が5.2%であった事、そしてその割合は平民・士族の呼称が戸籍に記入されなくなった大正3年までほぼ変化を見せなかった事を考慮に入れれば、この表の当時の旧制高等中学校における士族の割合がいかに高かったかが納得出来るはずである。また、これ以降、旧制高校に士族が占める割合は次第に小さくなり、最終的には20%前後に落ち着くのだが[35]、それもでも他の階級と比べ、総人口に占める割合が極端に低い士族が学校という世界ではその割合が相対的に高く、学校文化を形成する大きな力と成り得た事は理解できよう[36]。そして、明治33年に大学館という版元から出版された学校案内『学生自活法』における記述からも武士文化が学生の世界に与えた影響の大きさを垣間見る事が出来る。例えば、

 

「今日の学生、昔日の武士にして、封建時代に於る武士特有の句調なる「天下の侍」てふ語は、今に於て学生の口より出づ可きものなり、…之の気、之の風*[37]して武士道と云ふ、…余輩は後進の青年諸君に、現今殆んど夢想されつつある之の気風−敢て名づけんか学生道―を興し…」[光井:明治33年]3

 

とある様に、今で言うところの学生は昔の武士であると断言し、その上で武士道に変わる「学生道」なるものまで提唱しているのが、これは明らかに学生の規範を武士のそれに求めているのである。そして、上に挙げた諸事実からは「受験」に成功した学生=武士、受験に失敗した学生=「浪人」という図式が容易に推測できる[38]。時代が前後してしまうが、この様な図式を内面化し、「受験」を「戦闘」のメタファーで語っている「浪人生」の発言が多々見受けられた。例えば、昭和31年の『週刊新潮』のインタビューに答えた「浪人生」は次のように語っていた。

 

B君(浪人一年生)「だいたいにおいて準備は完了した。あとは戦闘開始を待つばかりである。もちろん、いくらか不安もないこともないが、そんなことを気にしていたらきりがない。…人事を尽くして天命を待つ。」『週刊新潮』(1956

 

この様に、学生の間にも学生=武士、「受験」=「戦争」、学生になれなかった学生=「浪人生」という図式が受け入れられていったのである。そしてこの「浪人生」という言葉は、第二次大戦の前あたりからマスメディアに取り上げられ、次第に多くの人間が共有していくこととなるのである[39]

 

5-5 まとめ

本章では、学生の関心が「受験」そのものに向き、試験に失敗したという正にその事実のみが話題に上り始めた時代を考察してきた。そして、この時代の「浪人生」を生み出す要因となり得る受験熱、学校系統の変化、人々の「受験」に対する意識、そして「浪人生」を「浪人生」として見る眼差しはどういうものなのか、という事が明らかになった。また、受験に失敗した学生に対して「浪人生」という呼称が与えられたのは武士文化の影響を受けた学生文化に由来しているところが大きい事を考察してきた。この様にして明治30年代以降確実に「浪人生」のプロトタイプが出来あがってきたのである。そしてこれが新聞をはじめとするマスメディアに取り上げられ、この認識が人々に共有される様になるまでにはそう時間はかからなかったのである。

 

 

<浪人生>の誕生

 

前章で考察した様に、明治30年代に入り「浪人生」の概念は次第に完成に近づいていった。そして、昭和の始めに、まず帝国大学に入学しそびれた「白線浪人」の存在が次第に新聞紙上に現れ始める。そして、戦後の学制改革をきっかけに「浪人」という言葉は、新聞紙上にとどまらず、あらゆる大衆雑誌にも登場してくるのである。本章では、昭和初期に、「白線浪人」がマスメディアで話題に上り、それが普及していく過程を記述してきたい。

 

6-1 「白線浪人」の誕生と終焉

旧制高校を卒業し、帝国大学に入学できなかったもののは「白線浪人」と呼ばれている。それは、旧制高校の制帽に白線が入っており、帝国大学に入学できなかった学生が卒業後もそれを被っていた事に由来している。その発足当時、旧制高校からは無試験で帝国大学へ入学できた事を考えればこれは誰の目にも驚くべき出来事と写ったようである。そして人々はそれを奇異の目で見ていた。例えば、昭和11年の朝日新聞には白線浪人が3000人に達してしまった事から東京帝国大学の学生課が新聞に次の様な言葉を寄せている。

 

「矢張志願者が一方へ偏重しますので、どうしても毎年二千名からの浪人が残るわけです、均等にすれば決て入学難はないのですが、さりとて志願科目を左右するわけにも行かず致し方がありません、ですが又一方学生にとつては必要な関門ですよ 人生も時々はブレーキをかけなければ」朝日新聞 昭和11228

 

昭和10年代と言えば先に引用し表5にもある様に東京帝大の入学者に占める「浪人生」の割合が約半分になってしまった時代である。そしてこの記事によると、その様に「浪人」が増加してしまった事に対して学校側が何も打つ手がなかった事が分かる。この当時の「浪人生」は学校側も手を焼く問題であった事が分かる。これは大正に入り、表3の様な地名校が次々と創設されたために、高等学校生の数が増加したにも関わらず、帝国大学はあいかわらず東京、京都、大阪、名古屋、九州、北海道、東北、各帝国大学しか存在していなかった事と、前章で考察した様に、「競争の激しい学校こそ良い学校」という意識から特定の帝国大学に、そしてパンのための学問を重視する傾向から特定の学部に学生が集中して押し寄せてしまった事がその原因である。そして、その後も帝国大学の数は変化を見せないのであるから、「白線浪人」の数は年々累積されていった。これを重く見たのか学校側も「白線浪人の根絶」に乗り出したようである。昭和16年の朝日新聞には帝国大学の入試改革に付いて次の様な記事が掲載されている。

 

「帝大はじめ各大学部への入学試験が、第一、第二、第三次と明確な三段階式をとり、第一次は高等学校卒業者と専門学校卒業者を併せて対象とし、大学部門に於ける定員の充足と“白線浪人”の絶滅を期していゐる点が注目すべき新体制といへよう」朝日新聞 昭和161023

 

この改革は旧制高校を卒業していないいわゆる傍系入試を後回しにする事で、旧制高校卒業者を優先的に帝国大学に入学させようという、政府の苦肉の策である。これは先に引用した青葉の「帝大への傍系入学禁止」を制度的に整備し、三段階の入試を行う事を決定したものだが、この様な改革からも、人々が「白線浪人」を問題視していた事が伺える。しかし、「白線浪人」が本格的に問題視され、「白線浪人」の側からも声が上がったのは戦後に学制が改革された時である、と言える。制度の不備から大量の(9000人近く)「白線浪人」が発生してしまい、学生側からの陳情もあり、政府が本格的に救済策に乗り出した事によって一躍その存在を衆人が知るところとなったのである。以下にその大まかな流れを記述していこう。まず、戦後になって旧制高校卒業者の優先入学権が廃止された。これによって旧制高校卒業生は他の学生と一律に試験を受けなければならなくなってしまった。戦後になり、上述した白線浪人の救済策が無くなったしまったという訳である。これによって1948年には約6000人もの「白線浪人」が、そしてその後その数は増加の一途を辿り、最終的には9000人近い数の「白線浪人」が生まれてしまった。また、ここで「白線浪人」が重大な問題となり議論の溯上に上ったのはその数故だけではない。新制大学の発足もその大きな要因となっているのだ。ご存知の通り、1947年の3月に教育基本法・学校教育法が公布され、同年4月に六・三・三・四制の新学制がスタートした。この時点では小学校・中学校のみがその対象となったのだが、翌年の4月には新制高校が設置され、その年が旧制高校の受験者は翌年の3月に1年修了者として旧制高校を退学させ、新制大学受験資格を与えるという措置がとられた。そして1950年、旧制高校が最後の卒業式を向え、これによって旧制高校はその幕を閉じたのである。また、1953年には新制大学最初の、そして旧制大学最後の卒業式が行われ、ここで旧制大学もその幕を閉じる事となる[40]。しかし、ここで大きな問題が発生した。もし、旧制の大学を一律に廃止してしまえば、例えば、東京大学の教養部は旧制第一高校の後進であるのだから、それをその旧制第一高校を卒業した学生がもう一度東京大学を受験し再入学した場合には、カリキュラムが重複してしまう事になる。これには当時の文部省の役人も困り果てていた様である。例えば、当時の文部省教育課長の春山は朝日新聞の取材に応じ以下のコメントを発表している。

 

「適当な方法がないので困つている、私にも白線浪人の息子がいるが新旧両大学を受けさせようと思っている、旧制に入れば大学卒業まで三年、新制に入れば四年かかるが、旧制を落ちて一年浪人することを考えれば新制に入つても卒業の年は同じことになる、この場合一部の学課が[旧制]高校の繰り返しなつても仕方がないと思つている。」朝日新聞 1948625日([]内、引用者)

 

この様に、「白線浪人」の急増には当局も手を焼いていたのである。そして遂に、追いつめられた「白線浪人」の側から声が上がった。1949116日の朝日新聞によると、東京の武蔵高校で15の高校の校長と18の高校の自治会の代表者が各地の現状を報告した後に、旧制大学の募集を明後年も行う事、新制大学2年への編入を認める事、旧制国立大学の入試日を新制大学のそれとは重複させない事、旧制大学の募集人員を大幅に増やす事、等の声明を発表した。この様な、抗議のかいあってか、1951年には、文部省が臨時の編入試験を実施するとともに、その募集人員を約1300人増やすなどの「白線浪人」対策を実施しこの混乱は収拾をみた[41]。これをもって「白線浪人」はその歴史にピリオドを打ち、時代は「浪人生」の完成期に突入するのである。

 

6-2 「浪人生」

ここまで述べてきた様に、「白線浪人」は単に「受験」に失敗しただけの存在ではないため、そのの話題は専ら制度の不備に集中し、その内実はあまり語られてこなかった。しかし、数少ない「白線浪人」に関する記述や戦後の回顧談を見る限り、「白線浪人」は旧制高校の学生と同一視されていた節がある。例えば、

 

「六・三・三制と大学とのシワ寄せが予備校である。…昔の受験生みたいに、徴兵猶予のために、いやいや通っているんではない。教室で眠ってるような哲学青年も、友達の背中にかくれて小説を読んでいる文学青年もいない。今の予備校の生徒はもつと現実的であり、実利、実質的である。」『週刊朝日』(1953

 

とある様に、また、駿台予備校の当時の学長へのインタビューに

 

「昔の白線浪人は、ホウ歯の下駄をはき、腰によれよれの手拭いをぶら下げて大道をカッポしたものですが…」『週刊朝日』(1957

とある様に、「白線浪人」と旧制高校生のイメージは重なっているところが少なくない[42]。この様な「白線浪人」のイメージを払拭し、より現在に近い「浪人生」の語られ方がなされるのが1950年代である。また、それは明治30年代に現れつつあった、「浪人生/現役生」の差異に基づく、「浪人生」像がより鮮明な形で浮き彫りになった時代でもある。それでは、この当時の「浪人生」がどの様に語られていたのだろうか。以下にはそれを考察していきたい。

今日では、教育に関するセンセーショナルな話題を提供する事で定評のある『サンデー毎日』が1954年に「浪人生」と予備校に関する記事を掲載したのを皮切りに、次々と大衆誌に「浪人生」が取上げられていくこととなる。そしてそこで語られる「浪人生」は、前章で考察した明治30年代の「浪人生」が一部では「浪人生/現役生」の差異に基づく語られ方をされていたのとは異なり、ほぼ大半がその様な語られ方をされていた。上述の『サンデー毎日』の記事中に引用された「浪人生」の言葉がそれを物語っている。

 

「卒業してすぐはいったヤツはうらやましいが、一年や二年は問題じゃありません。昔はうっかりしていると、徴兵検査にひっかかり…それに、つまらぬ学校にいっては、卒業後の就職の不利で一生苦しまねばなりません。…母は一人息子の僕に暇がありすぎて不良にでもなられたら困るし、予備校にかよえば少々の金は使っても一挙両得という考え方のようです。ぼくの志望は東大です。みんな一生懸命ですから、遊ぶ暇なんか全然ありません。高校生の恋愛事件など、新聞で読んでもなんの関心もわきません。バカなヤツだと思います。」『サンデー毎日』(1954

 

この様に、前章で考察した「浪人生」の規範を十分に内面化した学生が一般的な「浪人生」として語られ始めた。この他にも、

 

「(記者に名前を尋ねられ)名前ですか、勘弁して下さい。浪人は日陰者、晴れて名乗れる身じゃありません。」『サンデー毎日』(1954

 

といったものや、

 

「浪人一年半、みんな極端な個人主義ね。聞いても教えてくれず、用のあるようなふりをして逃げてしまうのよ。でも激しい生存競争っていいものね。わたしも負けないわ。」『サンデー毎日』(1954

 

といった言説も、全て、上述の「浪人生/現役生」の差異に基づいて自らを語っているのである。そしてこの時期には、「浪人」にまつわる様々な「新語」が誕生している。当初は、高校生をもう一年経験しなければならないという含意から、「浪人生」は「高校四年生」と呼ばれていたが、それが一年とは限らない事から「プラスアルファ」と呼ばれたり、入学試験が容易な地方の新制大学に入学し、そこで「浪人」をする「浪人生」の事を「潜在浪人」(現在の「仮面浪人」)と呼んだりするのが、その一例である[43]

しかし、明治30年代から、その語られ方が全く変化していない訳ではない。例えば、

 

「浪人一年は永い生涯にとってなんでもないことです。もし、この浪人時代をよく処理し得た人は、後に輝かしい人格を形成し得るだろう、ということを強調しておきます。」『週刊朝日』(1957

 

といった言説の様に、「現役生」よりもむしろ「浪人生」の方が優れた人間になり得る可能性を秘めているといった語られ方がなされている。序章で引用した、「浪人生」を擁護する様な言説はこの時期になってようやく本格的に現れ始めたといって良いだろう。さらには「青白い浪人生」や「修道院に似た生活」[44]と揶揄される様になり始めるのもこの時期である。この事は、結局、明治30年代に言われていた様に、健康を保っているのが「良い浪人生」であるという規範を内面化出来なかった事を意味する。

この様に、「浪人生」がマスメディアで取上げられる事によってその生活実態が具体的に描写され、青白くなるまで勉強に明け暮れなければならないという「正しい浪人生」の規範が完成したのはこの時期である。また、「浪人生」は「現役生」よりも大きな可能性を秘めた存在である、といった上記の言説に対するアンチテーゼが生まれたのもこの時期である。この時期になってはじめて、現在と同様の構造で「浪人生」が語られ始めたのである。

「浪人生」が誕生したのだ。

 

 

終章:「浪人生」の展望と学歴社会の未来

 

ここまで述べてきたように、「浪人生」は明治30年代にその黎明期を迎え、戦後すぐに、その語られ方は現在とほぼ変わらないものとなった。そして「浪人生」が誕生する原因は、志願者数が入学者数をうわまってしまうという教育熱、上級学校との接続形態の不備、そして、それを異常視しながらも良い学校は倍率が高いと考える社会的意識にある事を突き止める事が出来た。それでは、今後、この「浪人生」という存在はどうなっていくのだろうか。私は、現在、この「浪人生」が誕生する諸要因は崩壊してきていると考える。まず、少子化の進展により「大学全入」の時代が到来しつつある事がその一点目の根拠である。その結果、まず、志願者>入学者という状況は一部の大学ではなくならないにしてもずっと改善されるのではないだろうか。次に、大学と高校の接続の問題であるが、これもこの少子化により、人員を必要数集める事が困難になった大学側が多少学力の不足している学生でも入学を許可するようになる。現在、大学生の「学力低下」が問題視されているが、その背景にはこの様な構造がある様に思われる。その結果、とりあえず、その基準を下げる事で学校間の接続の問題は解消される。また、社会的意識もマスメディアがしきりに、「偏差値よりもやりたい事を学ぶ時代」という事を述べているが、これが人々の間に浸透していく事によって倍率が高い学校こそが良い学校であるという考えは変わっていく可能性も十分に考えられる。「浪人」=時間の無駄、という観念も、社会人入試などが浸透し、現役高校卒業生以外が大学を受験する事よって多少の変化を見せる可能性は十分に考えられる。この様に考えると、少なくとも大学受験「浪人」は、今後、消えて行く存在なのかもしれないと結論づける事が出来る。しかし、それはあくまで大学受験浪人に限った話しであり、「浪人生」全般がそうであるという訳ではない。旧制高校浪人が白線浪人へ移り変わっていった様に、今後、不況のあおりを受け、「大学院浪人」が注目を浴びることも十分に考えられる。現在、「就職浪人」なる新語を新聞やテレビ、雑誌などで時折見かける事があるが、これも「浪人」がその過渡期である事を示している。

近代国民国家の成立と学歴社会の成立とともに誕生した「浪人生」は今後、その揺らぎとともに、どの様に変化していくのか。その様子を今後も見守っていきたい。

以上をもって小熊研究会卒業制作とかえさせていただく。なおこの論文を作成するにあたっては様々な方々にお世話になった。相澤氏、渡辺氏、木戸氏、押川氏、鉄本氏、林氏を始め、小熊研究会のメンバーには研究会の発表を通じて様々なアドバイスを受けた。特に、相澤氏には貴重な資料のコピーを頂き大変お世話になった。また、東京女子大学の内田氏には、資料の検索を手伝っていただき大変お世話になった。そして、この様な場を提供し、数々の叱咤激励、アドバイスをなさって下さった担当教官の小熊英二氏にはこの場を借りて感謝の意を表したい。

 

 

参考文献

天野郁夫『試験の社会史』(東京大学出版会、1983

天野郁夫『学歴の社会史 −教育と日本の近代−』(新潮社、1992

苅谷剛彦『大衆教育社会のゆくえ』(中央公論新社、1995

竹内洋『立志 苦学 出世』(講談社、1991

竹内洋『立身出世主義』(日本放送協会出版、1997

竹内洋『日本の近代12 学歴貴族の栄光と挫折』(中央公論新社、1999

塚田守『浪人生のソシオロジー』(大学教育出版、1999

西川長夫「日本型国民国家の形成」『幕末・明治期の国民国家形成と文化変容』(新曜社、1995

深谷昌志『学歴主義の系譜』(黎明書房、1969

藤田英典『教育改革』(岩波書店、1997

山住正己 『日本教育小史 −近・現代−』(岩波書店、1987

ブルデュー『ディスタンクシオンT』(藤原書店、1990

ブルデュー『ディスタンクシオンU』(藤原書店、1990

フィリップ・アリエス『子供の誕生』(みすず書房、1980

ミシェル・フーコー『監獄の誕生』(新潮社、1977

 

青葉学人『帝国大学入学受験法』(復刻版)(日本図書センター、1992

井田竹治『学生風紀問題』(復刊版)(大空社、1998

光井深『学生自活法』(復刻版)(日本図書センター、1992

教育ジャーナリズム史研究会編 『教育関係雑誌目次集成 5巻』(日本図書センター、1990

京都帝国大学自彊会同人編 『青年就学指針』(復刻版)(日本図書センター、1992

工藤敬一 編『熊本大学30年史』(1980

久米正雄「受験生の手記」『久米正雄全集第8巻』(平凡社、昭和5年)

黒岩周六「官立学校と私立学校」『中央公論 大正119日号』

寺田勇吉「高等学校全廃の急務」『教育時論 明治41 15日号』

博文館編集局編纂『改訂就学案内』(復刻版)(日本図書センター、1992

福沢諭吉『学問のすゝめ』(岩波書店、1978

本富安四郎『地方生指針』(復刻版)(日本図書センター、1992

『教育時論 明治35715日号』

『教育時論 1225日号』

『明治24 東京遊学案内』(復刻版)(日本図書センター、1992

『明治27 東京遊学案内』(復刻版)(日本図書センター、1992

『明治35 東京遊学案内』(復刻版)(日本図書センター、1992

『明治以降 教育制度発達史第四巻』(教育資料調査会、1938

「大学入試浪人の苦しみ、四当五落」『週刊新潮195634日号』

「続・学校一日入学 梅谷学園 新学制のシワ寄せ的存在」『週刊朝日1953726日号』

「予備校繁盛記」『週刊朝日195791日号』

「浪人学校大繁昌記」『サンデー毎日1954815日号』

「悩みのプラス・アルファ」『サンデー毎日1955814日号』



[1] 朝日新聞の記事検索システム「Digital News Archives」で「浪人生」、「浪人」、「受験生」のキーワードを用いて検索したものを調査した。

[2] こららの言説も、時代と共に微妙にではあるが変化を見せている。例えば、本文中に引用した1989年時点とそれ以前ではこれと同様の意見も散見されるのだが、年の経過と共にこの様な「アンチ・浪人生」的な意見は減少していく傾向にある。しかし筆者の個人的見解によればこの様な「アンチ・浪人生」的言説は新聞等の公の場で発表される事は無くとも、例えば、大学キャンパス内で多浪を経験した友人対する「陰口」などといった形で存在しているのではないだろうか。そして私の個人的経験ではあるがその様な「陰口」は幾度と無く耳にした事がある事は付け加えておきたい。

[3] 後の章でも述べるが塚田(1999)はフィールドワークを通じてこの問題を共時的に考察した、と言う事が出来るのではないだろうか。

[4] また、この批判の他にも塚田本人が認めているように、塚田(1999)には社会学の手法的にも若干の問題を含んでいる事も確かである。様々なフィールドワークの手法を折衷する事によって議論の客観性・公平性が保たれるのか、という議論は確かに学問的には有意義な事である。ただし、本論文でそれを批判する事は単なる揚げ足取りになりかねないので、ここでは割愛させていただく。

[5] 『ディスタンクシオン』[ブルデュー:1990

[6] 具体的な書名は本論文末尾の参考文献リストを参照されたい。

[7] 竹内(1991

[8] 本章における歴史的背景は「浪人生」の誕生という論文の趣旨に合致させるために若干、簡略化してしまっている。実際に明治10年代と明治20年代ではその環境は大いに異なっていると言えるだろう。この時代に関しては、天野(1992)や竹内(1991)、竹内(1997)、竹内(1999)が詳しいのでそちらを参照されたい。

[9]『学歴の社会史 −教育と日本の近代−』[天野:1992

[10] 竹内(1991)も同様に『東京遊学案内』を分析しているが、本論文とは視点が異なり、「受験生」が誕生する下地であり試験と学校の時代の幕開けの前夜の象徴的雑誌として同書を分析している。

[11] 本章で用いた『東京遊学案内』は明治24年に発行されたものを中心にしている。ただし、私がその他の年の『東京遊学案内』を調査した結果、学校のデータ等、最新の情報を載せる必要のある情報や細部以外は基本的に明治24年版から変化が見られない事が分かった。詳しくは参考文献中の各年の『東京遊学案内』を参照されたい。

[12] 『東京遊学案内』(明治24年)25

[13] 同上 29

[14] 原文の文字の判読が不可能であった。

[15] 外山によると、当時の山口県は義務教育の就学率の高さでは全国第6位。中学校在学者の人口千人比も全国第4位。そして高等学校在学者数は東京に次いで第2位、そして帝国大学在学者数では第3位と高い教育水準を保っていた。

[16] 天野(1991)や竹内(1999)等を参照されたい。

[17] それでは、何故、学歴取得者が官僚や大企業に採用される様になったのだろうか。これには天野(1992)によるメリトクラシー説と竹内(1997)による企業の正当化説(制度的ルールの導入)がある。学士の拡大により企業において、学歴取得者が下積みから始めなければならなくなった事から、学校で学んだ教養(知識)=実務で必要な教養(知識)ではなくなってしまった。このことから天野(1992)のメリトクラシー説は学歴が制度化された当初にのみ当てはまると言える。

[18] 中学卒業者数のデータは見つけ出す事が出来たのだが、高等学校入学志願者数のデータが見つけられなかったため「NA」(欠損値)とした。

[19] 竹内(1997)によると、中学校はそれ自体を卒業しても何ら実務の役にたたず、上級学校への進学欲求をかきたてる「欲望の学校化」装置であった

[20] 2と照らし合わせると志願者の数字に多少の違いがあるが、これは統計の取り方の違いによる誤差だと考えられる。

[21] 上述の『教育時論』のデータの出典は官報である。

[22] そしてこの例外として第三学区内に山口高等中学校が設立されたのである。

[23] 竹内(1999

[24] 竹内(1999

[25] とは言え、高等中学校が高等学校に改組された年、つまり明治27年の高等中学校においては、本科生1909人、予科生944人、補充科生61人と、初めて本科生が予科生と補充科生の合計学生数を抜いていた。この年に高等中学校が廃止されてしまうのであるから、明治27年は高等中学校の本科生が予科生と補充科生の合計を超えた最初で最後の年という事が出来る。

[26] ただし、高等中学校でも「法科医科工科文科理科農業商業等の文科を設くることを得」とされていたことから「高等学校令」は大学予科よりも専門部に重点をおく事を定めた勅令と解釈するべきである。

[27] 天野(1992

[28] フランスやドイツの現代の学校系統は巻末の図6を参照されたい。

[29] 藤田(1997

[30] 「受験」の誕生については竹内(1991)に詳述されている。詳細を知りたい方はこちらを参照されたい。

[31] 教育ジャーナリズム史研究会編 『教育関係雑誌目次集成 5巻』(日本図書センター、1990

[32] 実際には『中学世界』は総合雑誌としてスタートしたのだが、時を経るに従い、「受験」一色の雑誌となっていった。

[33] ただしこの文献は後に述べる様に「浪人生」だけをその対象としていたのではない。

[34] 竹内(1991

[35] 竹内(1999

[36] 竹内(1999)では、武士文化が旧制高校の文化にどの様な影響を与えたかの考察がなされている。詳しくはそちらを参照されたい。

[37] 原文の読解が不可能であった。

[38] ただし、この結びつきを決定的に捉えた資料を残念ながら本研究では見つけ出す事が出来なかった。

[39] 管見の範囲では、「浪人」という言葉を「受験」に失敗した学生という意味で用いられていた最初に用いたマスメディアは昭和11228日の朝日新聞の記事である。この記事中には「所謂『浪人』」とあった事から、この前後に人々の間に「浪人生」という言葉が流布していた事が推測できる。

[40] つまり、この年までは新制大学と旧制大学が混在していた事になる。

[41] 工藤敬一 編『熊本大学30年史』(1980

[42] 旧制高校の学生については竹内(1999)を参照されたい。

[43] 『サンデー毎日』(1954

[44] 『サンデー毎日』(1955