しかし、セマテックは米国の経済的伝統からみるとき二つの点で異常であった。つまり第一に、政府が特定の産業の救済のために資金援助を行ったこと、第二に、合わせて八〇%ものシェアになる半導体産業の主要トップメーカーが結集したことである。
現在このセマテックは官民共同コンソーシアムの成功モデルとされ、米国半導体産業の競争力回復に大きく貢献したと評価されている。設立当初にみられた批判や懐疑論は影を潜めるようになった。このような米国の経済・産業政策と世論の転換は何を意味するのだろうか。言い換えるなら、セマテックはなぜ成功のモデルとされるようになったのだろうか。
本論文ではこのような問題意識の下で、第一に、セマテックとはどのような組織なのか、第二に、米国内でどのようにセマテックは評価され、その存在の正当化が行われてきたのかについて分析することにしたい。その結果、セマテックは経済競争における国家的な取り組みの現れであり、セマテックが成功のモデルとして評価される理由は、それが米国の半導体産業の生産性を高めたからではなく、競争関係にある企業が共通の目標のために協調関係を築くことができることを示した点にある、ということを示す。
次章では本論文の分析的枠組を明らかにし、第三章でセマテックの組織を明らかにすると共に、米国内でどのように評価されてきたかを分析し、最後に結論を述べる。
また、第二の分析のポイントは、セマテックの評価の変化である。伝統に反するものであったがゆえに、セマテックは設立された後も、批判や疑問の声が絶えなかった。しかし、九〇年代に入り、半ばにいたる頃には、セマテックはコンソーシアムの成功モデルとされるようになった。そのような評価の転換はなぜ起きたのだろうか。セマテックが米国産業に与えた貢献はどのようなものなのであろうか。セマテックに関する論調の変化をたどることにしたい。そしてその変化の原因として何が考えられるかについても検討する。
このようなセマテックの組織とその評価に関する二つの分析を総合し、本論文の結論として、セマテックが評価されている点は、半導体産業の生産性向上ではなく、産業内の協調関係の樹立の模範を示したことにあったことを示す。それは、セマテックがいわば「経済的戦時体制」であったということである。戦時体制や経済戦争という言葉で悪戯に日米間の対立をあおるつもりはない。この結論の意図するところは、セマテックに見られる産業あげての協力的取り組みは、武力紛争の時の体制と似ているということである。つまり敵を特定することで国家的な取り組みを可能にし、資源や人材を集中させ、短期間で効率的に相手を打ち負かそうとするのである。一九八〇年代前半の半導体産業の凋落が米国の経済的・国防的危機として認められるにいたって、米国は経済的戦時体制を作り上げたのである。
国防総省の中でも特に科学技術政策を担当するのが高等研究計画局(ARPA �mAdvanced Research Project Agency�n)である。ARPA設立のきっかけとなったのは一九五七年のソ連によるスプートニク打ち上げであった。このスプートニク・ショックはミサイル開発を中心に米国が国防技術開発に力を入れるきっかけとなった。
このような国防中心の研究開発政策が生み出したのは軍事技術ばかりではない。軍事用に開発された技術が一定期間の後、民生用機器の開発のために使用されることになったのである。これがスピン・オフといわれる現象であり、冷戦期米国の技術開発のパターンであった。
また、八〇年代末から急速に注目されるようになったインターネットの原型は、よく知られているように、ARPANETといわれるネットワークである。しかしARPANETは軍事用に開発されたネットワークではなかった。ARPANETが核戦争後の政府のデータ通信を維持するための手段として開発されたという誤解があるが、そもそもARPANETは政府から支援を受けている研究者が自分でコンピュータを買うのではなく(当時は現在のような低価格のパソコンは普及していなかった)、それを研究者間で共有し資金を節約するための手段として開発されたものであった。実際に最初のネットワークはカリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)とスタンフォード大学の間で接続されたのである(4)。こうした点からいってもARPAによる科学技術政策は必ずしも軍事関連技術に限定されたものではなかった。
八〇年代以降産業政策に関する研究はそのまま日本経済研究といってよく、C・ジョンソン以来様々な角度から分析されてきた(5)。しかし、日本と米国の間には経済的フォロアーと経済的ヘゲモン(覇権国)としての立場の違いがあり、それが産業政策に対する選好の違いを生み出してきた。日本においては産業政策は必要悪どころか経済発展に不可欠な要素としてとらえられてきた(6)。裏返すならばヘゲモンである米国には産業政策は不必要だったのである(7)。
しかし、日本の産業が力をつけるにつれ、米国の産業が侵食されているという事態に対処するために様々な方策が米国で研究された。そのひとつが相互主義であった。相互主義は自国の市場を開放しておくための条件は相手国も同様に市場を開放することであるというものであり、それが達成されない場合、米国は一九七四年通商法三〇一条に基づいて報復措置を採るべきであるというものであった(8)。
しかし現実問題として自由競争経済を標榜する米国が相互主義の原則に基づいて制裁を科すことはできても(一九八七年四月米国は半導体協定が守られていないとして制裁措置を発動した)、閉鎖的な政策を採ることはできなかった。そこで徐々に支持されるようになったのが「結果主義の通商政策」や「戦略的通商政策」であった。結果主義の通商政策はその名の通りプロセスはともかく結果を求める考え方であり、日米通商摩擦でいえば日本市場が明確にわかる形で開放されることを求めるものであった。しかしセマテックとの関係でより重要なのは戦略的通商政策である。
戦略的通商政策とは「自国の構成を高めるため、収穫逓増に着目して、国際競争関係に影響を与える政策」である(9)。また戦略的通商政策の経済理論とは、「政府の輸出補助金によって国民の構成水準が向上することを示したモデル」である(10)。ここで戦略的通商政策の経済理論について詳しく触れる余地はないが、これによってセマテックのようなコンソーシアムに政府が資金援助をする根拠が与えられたという点で、重大な転換であったということができるだろう(11)。
米国ではこのようなコンソーシアムは反トラスト的な制約によって魅力あるものではなかった。本来コンソーシアムは参加企業それぞれにとってメリットのあるものである。しかし、そのような企業間の結びつきは、価格協定や市場分割、シェア固定などの反競争的カルテルに容易に陥る危険性がある。そのようなトラスト行為に対し米国の一連の法規は厳しい罰則を用意してきた。コンソーシアムにそのような意思がなかったとしても、コンソーシアムに参加していないライバルに訴えられたり、結果的にトラスト的行為が行われたと判断されて、司法当局による裁定が下された場合、コンソーシアム参加企業は莫大な罰金を払わなくてはならなかった。コンソーシアムはメリットと同時に大きなリスクを抱えていたのである。
このような米国の反トラスト的伝統の根拠とされるのが、シャーマン法、クレイトン法、連邦取引委員会法などの一連の法規である(12)。
これらの法律による提訴はほぼ共通で、以下の三つの方法による(13)。つまり、�@司法省が民事または刑事手続きによる訴訟を提起して違反行為の排除、罰則の適用または損害賠償を求める、�A連邦取引委員会が審判手続きにより違反行為の差止命令を出す、�B私人が民事訴訟により違反行為の差し止めまたは三倍額損害賠償を求めるというものである。
シャーマン法の起源は古く、一八九〇年まで遡る。シャーマン法が規制するのは、取引を制限する全ての契約・共謀(一条)、独占し、または独占を企図すること(二条)である。シャーマン法違反は重罪とされ、法人の場合一〇〇万ドル以下の罰金、個人の場合一〇万ドル以下の罰金または三年以下の禁固とされる。
クレイトン法が禁止するのは、競争を減退させる、あるいは独占を生じさせる影響を持つような形での他の企業のシェアあるいは資産の獲得である。
また、連邦取引委員会法は、不公正な競争方法、及び不公正または欺瞞的な行為・慣行で、これに故意に違反した場合には一万ドル以下の過料が科せられる。
これら反トラスト法を管轄するのは、連邦政府取引委員会(FTC)と司法省反トラスト局であり、両者は競合関係にある(14)。このような一連の反トラスト規制は、米国の企業がコンソーシアムを形成する強い歯止めとなってきた。
日本の半導体産業育成政策の上位にあったものはコンピュータ産業育成政策であった。一九六六年、通産省は大手コンピューター・メーカー五社(富士通、日立、東芝、三菱、NEC)の集約化を図った(15)。その際、コンピューター技術のベースとなるのは、それに組み込まれるコンピューターの心臓部である半導体チップであるという認識から、半導体産業の再編・統合も行われた。つまり一九七一年、六大半導体=コンピューター企業がグループ化(富士通=日立、三菱=沖、東芝=NEC)されたのである。日本の半導体メーカーが外販メーカーではなく垂直的な統合企業であるのはこの政策に負うところが大きい。このような政策の下では資金も市場も持たない中小企業が成長する余地はなかった。
グループ化によってそれぞれの道を歩んでいた日本の半導体メーカーに対して、さらなる技術的向上を図るために通産省は超LSI技術研究組合の設立を呼びかけた。そしてそれは一九七五年四月に設立される。その資金の四割を通産省が負担した。
この超LSI技術研究組合は一九七九年まで続いたが大変な成功を収めたといわれている。ここで培われた技術を基に各メーカーは製造能力を格段に向上させた。
しかし、このようなやり方は、日本メーカーの対米輸出が急増し、日本の半導体産業の発展の仕組みが研究されるにつれ、特に米国からの批判を呼び起こすことになった。つまり日本メーカーは政府から援助をもらって米国への輸出を行っているようなものだとされたのである。
一九七〇年代末頃から、通商圧力と米国産業の競争力衰退に対する懸念が高まってきていた。例えば、米下院歳入委員会貿易小委員会・対日監視委員会による『ジョーンズ・レポート』が一九七九年に出されている(16)。このような対日研究の進展は、日本に対する警戒感を訴えると同時に日本のやり方を学ぶという側面もあった。それによって先述の通産省による超LSI技術研究組合に関する研究も進んだと思われる。
それと呼応するかのように反トラスト規制の緩和を促す動きも現れていた。カーター政権の末期に、反トラスト規制が有益な共同研究開発を阻害しているとの認識から規制の緩和が検討された。それが一九八〇年に司法省から出された「研究のための共同事業に関する反トラストガイド」である(17)。
レーガン政権になってもその動きは継続され、「国民生産性及び技術革新法(National Productivity and Innovation Act)」として提出された法案は、一九八四年に「国家共同研究法(National Cooperative Research Act of 1984)」として成立した(18)。
この国家共同研究法はそれまでの反トラスト規制の緩和を明示したものであり、具体的にはトラストと判断された場合の罰金が実損額に限定されることになった。組織自体は既に一九八二年に成立していたが、この法律によってより活発な活動が行われるようになったのがMCC(Microelectronics and Computer Technology Corporation)である(19)。MCCの目標は、アプリケーション志向の研究開発と、革新技術の移転によるメンバー企業の競争力の維持・増進であり、米国やカナダのの企業、政府、非営利団体など七〇のメンバーが加盟している。
この他にも一九九一年七月五日現在、一九八四年国家共同研究法の下のプロジェクトとして公表されたものは、二三三件にも上るとされている(20)。
後述するように半導体関連のコンソーシアムとしては一九八二年に既にSRC(Semiconductor Research Corporation)が成立しており、産業界と大学との結びつきを強めつつあった。しかし日本からの高まる圧力に対抗するために政府からの資金援助によるコンソーシアムとして誕生したのが、セマテックであった。
セマテックのインターネットのホームページには、セマテックを説明するために三つの問いと答えが載せられている。つまり「なぜセマテックは必要なのか」、「なぜ国内の製造能力がそれほど重要なのか」、「誰がセマテックの恩恵を被るのか」である(21)。この三つの質問に対する答えをまとめたのが図一である。これを見ると、米国にとっての問題は、日本など政府の支援を受けたメーカーが米国の競争力を侵食し、米国メーカーが半導体製品を作れなくなって外国への依存が進むことで(22)、米国の経済力と国防戦略の基盤が崩されてしまうということであった(図一では唯一、「半導体の海外依存」から「米国の経済力と国防戦略の基盤」への矢印がマイナスになっている点に注目)。
このマイナスの矢印を断つあるいは弱める方策がセマテックであった。セマテックは政府とメーカー自身からの資金、そして各メーカーの技術と人材を結集させることで、海外の競争相手より早く優秀な技術を確立し、それをメンバー企業に拡散させることで産業全体の底上げを図ろうとしたのである。そして「米国の経済力と国防戦略の基盤」の強化は、「活気ある経済」、「高賃金の雇用」「優秀かつ低コストの国防システム」によって全米国民の効用へとつながると論じられたのである。
ではセマテックを支える組織にはどのようなものがあるのであろうか。
結成直後からSIAの代表は訪米中の福田首相に要望を伝えたり、ストラウス米国通商代表に対して日本の輸出攻勢に懸念を表明するなど政治的行動を行っている。しかしそのころは米政府の中に半導体産業の危機を認識する者はいなかった。
一九七八年に半導体貿易で米国が二九〇〇万ドルの赤字を出すと、SIAの政治活動はさらに活発になる。八一年頃からは日本企業をダンピングで提訴することを検討し始める。そして八五年六月に、日本の半導体業界が通商法三〇一条に違反しているとしてUSTRに提訴をし、その後次々に起こる一連の対日提訴の口火を切る。
しかし、一九八六年に最初の日米半導体協定が結ばれると、SIAは協定の実行を日米両政府に求める一方で、日本側の業界団体である日本電子機会工業会(EIAJ)とのつながりを深め、毎年日米業界会談を持つようになった。
総じてSIAは米国の半導体産業の保護を促す様々な活動を行ってきた。報告書や意見書なども多数発行し、半導体産業の存在価値とその救済を訴えてきた。セマテックを中心とする業界を結集した研究開発活動が米国半導体産業復活の積極策であるとするなら、SIAの活動は消極的な保護策の色彩が強い。米国半導体産業はそのような両面戦略を活用してきたと言える。
そもそもARPAの使命は、国防総省のための基礎・応用研究開発プロジェクトを運営し、リスクと利得が大きく、軍事技術あるいは両用技術の面で大きな進歩を果たすと考えられる研究を追求することとされている。ARPAの予算は年一二億ドル程度で、国防省全研究開発費の三%、米国全体の研究開発費の一%を占めるにすぎないが、先端技術研究開発の中心的役割を果たしており、ハイテク企業のベンチャー・キャピタルとしての役割も持っている(24)。
しかし、現在、ARPAは二つの問題に直面しているという(25)。第一に冷戦時代のように潤沢な資金を獲得できないこと、第二に国防にとって重要な技術が民間部門から生まれてきていることである。このような問題はARPAの存在自体の見直しを促す重要な問題であるといわざるを得ない。
そのねらいは以下の三つにある(26)。つまり、�@互恵のために集合的に顧客と共に働くこと、�A世界市場での競争力を獲得するためメンバーの継続的な改善を促進すること、�Bセマテックのプログラムに乗っ取ってセマテックと共に働き、SEMI/SEMATECHのメンバーとの効率的なプログラム関連のコミュニケーションを行うこと、である。
SEMI/SEMATECHはオースチンのセマテック内に本部を置いている。SEMI/SEMATECHのメンバー企業はかなりの数になるが、SEMI/SEMATECH自体のスタッフはわずか十人である。
SRCの本部はノースカロライナのリサーチ・トライアングル・パーク(Research Triangle Park)に置かれている。一九八二年以来半導体産業はSRCを通じて三億ドル以上の研究を支援しており、米国で行われているシリコン(半導体チップの素材)関連の基礎研究の半分以上を占めているという。
当初一一だったメンバーは現在六〇を超えるようになり、四五〇万ドルだった予算は三七〇〇万ドルにまでふくれあがっているという。
セマテックとSRCは、両者ともSIAが母体となっている点で別働隊のような形になっている。
例えば、ペンシルバニアSCOEでは、半導体製造の歩留まり向上のための研究を行っている(28)。半導体チップの製造ラインではきめ細かな配慮と多額の資金を投じた設備が必要になるが、初期の製造歩留まりを上げるのは容易なことではない。この歩留まり率を上げることこそ収益を生み出す近道であろう。SCOEの一覧が表二に示されている。
この図二を全体としてみると、政府(議会)、SRCとSCOEを通じた学界、そして半導体産業とが見事につなげられていることがわかる。つまり、セマテックはただの研究開発コンソーシアムではなく、産官学を結びつける役割も担っているのである。半導体産業が危機に陥り、それは米国経済全体にとっても、米国の安全保障にとっても危機であるという認識が、反トラスト規制をも覆す強力な組織を作り上げたのである。
米国がこれほどの団結を見せるのは対外的な危機において他にないのではないだろうか。半導体摩擦においては日本という外敵の存在とその脅威が認識されたのである。いうならばセマテックは米国の「経済的戦時体制」なのである。
しかし、このセマテックの経済的戦時体制も半導体産業と関係のない人たちから見ればさほど脅威ではない。雇用などの影響はあっても、武力紛争のように生命が脅かされるわけではない。米国政府首脳が半導体チップもポテトチップも同じだと述べたというのは有名なエピソードである。そこで、次節ではセマテックが米国内でどのような評価を受けてきたのかを分析することにしたい。
しかし、セマテックが必要かどうかという点になると意見は分かれる。まだセマテックが成立したばかりで、その結果が出ていないころは、半導体産業が政府に救済を求めること自体に反感が見られた(33)。セマテックの存在を認めない声は根強かった。これには先述のような反産業政策的な伝統が大きく関係している。コンソーシアムという日本のやり方をまねる必要はなく、コンソーシアム方式が米国でうまく機能する保証もないという議論もあった(34)。
しかし、セマテックの存在よりもコンソーシアムの管理運営の問題に一層の重点を置き、米国企業が協力しながら日本のやり方を学ぶ上でセマテックのようなコンソーシアムは有効であるという意見もあった(35)。米国が製造業で力を失ったのは、金銭的・人的資源を有効に使っていないことにあるとして、その点で優れた日本のやり方を学ぶべきだというのである。
そして、セマテックの技術的成果が出始めた九〇年になると、評価は多少変わってくる。セマテックが日本の優れたやり方をまねするきっかけとなったという意味でセマテックは必要だという論調が見られ始める(36)。また、GAO(United States General Accounting Office)のレポートは、セマテックの成果に政府のお墨付きを与えた(37)。
しかし、セマテックのような産業政策が成功したかどうかという点について、否定はしないものの疑問であるとする意見も依然根強くあり(38)、もっと積極的に、セマテックは米国半導体産業の復活に貢献して「いない」という立場を主張するものもいる。よって、これまで運良く米国半導体産業の復活は果たされたが、セマテックがこれから貢献できることは少なく、今のうちに手を引くのが、セマテックを成功のモデルとしようとしているクリントン政権にとっても賢明であるというのである(39)。
しかし、セマテックの成功を認める声はだんだん強くなっていった(41)。そこで注目すべき点は、、セマテックの成功の内容が技術的な成功よりも組織的な成功に認められていることである。つまり、セマテックの成功とは象徴的なものであり、セマテックに参加した企業が協調して共通の課題に取り組んだこと自体が成功であるとしている。その結果、コンソーシアムの利点が認められると共に、日本企業が行っている経営方法の利点を学ぶことができたという(42)。
また、GAOのレポートでは、タイトル自体が「セマテックの教訓」となっており、その教訓は失敗から学ぶ教訓ではなく、成功から学ぶ教訓となっている。その教訓は八つに及び、議会や政府は今後コンソーシアムの設立についてはその八点を考慮すべきだと提言している。その八点とは以下のようになっている。
・産業のメンバーがコンソーシアムをリードしなくてはならない。それには年間予算の少なくとも半分を出すことも含まれる。なぜなら産業のニーズに合った研究開発プログラムを産業自身が最もうまく導くことができるからである。
・コンソーシアムは、供給部門も含めて産業の包括的な評価をしなくてはならない。そして連邦からの援助を受ける基礎として現実的な目標と道程を特定する運営計画を準備しなくてはならない。
・コンソーシアムがその使命を達成し、メンバー企業内での透明度を増すために、メンバー企業の重役が研究開発の優先順位決定に参加し、技術的な過程を概観することに参加しなくてはならない。
・製造業者と鍵となるサプライヤーとの間の長期的な作業関係を改善するプログラムをコンソーシアムは持たなくてはならない。
・コンソーシアムは、産業全体の効率性を改善するプロジェクトに強調をおくべきである。
・公的資金がつぎ込まれているため、コンソーシアムは参加する資源を持っていない小さなメンバーにもプログラムにアクセスする方法を考慮すべきである。
・米国の製造技術の地位を改善するということは、国際的なビジネス関係はますます複雑になっているので、必ずしも米国経済に雇用をもたらすというわけではないことを理解すべきである。
・いつどのように政府がコンソーシアムへの資金援助を打ち切るべきかの基準を設定すべきである。(43)
この八つの教訓を見ると、コンソーシアムの成功は、その組織をいかに運営するかにかかっているとGAOが考えていることがわかる。
他にも、セマテックの活動の中で、レポートの発行や、ワークショップの開設、研修セミナーなどを通じた教育訓練の重要性が指摘されている。研究開発担当者を始め従業員が一体となって課題に取り組むことが必要だというのである(44)。
そこで、セマテックの成功をまとめると、競争関係にある企業間での協調関係を構築し、政府の資金をテコとしながらも民間主導で経営を行い、関係する主体の共通目標達成に適したプロジェクトを一体となって行うということになる。
この議論の中で強調されているのはいわば組織的成功であり、欠如しているのは、セマテックの技術的成功である。確かにセマテックは、フェーズ一~三という技術目標を達成してきた。しかし、第一に組織的な成功がどれだけ技術的成功へつながったのか、第二に技術的成功がメンバー企業の生産性向上へどれだけつながったのかということがはっきりしないのである。一九八七年九月に上院で可決された八八�\八九年度の国防支出権限法案の修正条項ではセマテックの開発成果の非公開が認められている。しかし、それへの言及なくしてセマテックの成功を論じるのは性急ではないだろうか。
米国の半導体産業の復活がその確かな証拠であるというかもしれない。しかし、復活した米国半導体産業の中でも、例えばマイクロプロセッサー(MPU)の分野ではインテル社が世界シェアの八割を占めているという事実は、産業全体の基盤上昇という議論を揺るがすものである。つまり、米国半導体産業の復活は、セマテック以外の要因、例えば各企業の自助努力が実った結果かもしれないのである。
セマテックを成功と見る人たちは、極端にいえば、コンソーシアムをうまく運営できたことで成功といっているにすぎない。日本式の産業あげての取り組みを米国もすることができたということが評価の対象となっているのである。
積極的なコンソーシアム経営方法については、セマテックの成功が認識されるにしたがって議論されるようになった。当初は米国ではコンソーシアムは機能しないという議論があったことを考えれば評価は全く反対になったと言える。
全体としての論調はセマテックが仮に成功であったとしてもその地位に安住することは許されないということであり、日本からの再挑戦に備えるべきというものである。
これは、当初は政府がコミットメントしても無駄だという考え方から、政府のコミットメントによって産業を活性化することができるが、必要以上はする必要がないという考え方へと変わってきたことを示している。いわばセマテックは政府の産業政策の先例となり、その再評価を促したのである。
ではそのような評価の変化の原因となったのは何であろうか。ここでは日米半導体摩擦の推移とUSメモリーズの失敗を採り上げる。また、今後のセマテックの評価を左右する要因としてセマテックの連邦援助辞退を採り上げる。
セマテックが成立したのは、日米半導体協定の翌年、一九八七年である。それまでSIAを中心に米国の半導体メーカーは議会に対して救済を求める政治的圧力をかけ続けていた。つまり、一方で議会・政府に対して圧力をかけ政府間交渉によってダンピングの停止と日本市場開放を求め、他方では日本を念頭に置いて産業競争力を回復する戦略としてセマテック設立を進めるという二重の対策をとっていたと考えることができる。
一九九一年に更新された日米半導体協定は数値目標を独り歩きさせ、数値上は一九九二年末までに日本市場での外国系半導体シェア二〇%を達成させた。その間米国企業はパソコン需要の拡大によって生産を増加させ、日本企業は国内市場の不況によって伸び悩んだ。セマテックの成功を宣言するには好都合な環境であったと言えるだろう。米国製半導体シェアと日本製半導体シェアが「再逆転」し、米国半導体産業の復活は本物とされるようになったのである。この現実の数量的な成果はセマテックの評価をプラスに変化させるに十分であったと言えるだろう。
USメモリーズ(U.S. Memories)は一九八九年六月に成立した。その特徴は�@DRAMという先端メモリーに特化していたこと、�AIBMの主導であったこと、�Bセマテックが研究開発コンソーシアムであるのに対してUSメモリーズは生産コンソーシアムであること、そして�C政府からの資金援助を受けなかったことである。
問題なのはIBM主導がゆえにセマテックに参加している一四社のうちUSメモリーズに参加したのは七社のみにとどまっていたことである(48)。IBMの設立意図は、同社が開発した四メガDRAM技術を共有することで、日本への依存を回避し、米半導体産業の「共存共栄」を図ることにあったといわれている。しかし、他の米国メーカーは既に日本メーカーと提携関係を築きつつあり、コンピューター・メーカーなどの半導体ユーザーも日本メーカーからの調達を決めていたため、USメモリーズは思うように参加企業を集められなかった。また、IBM主導の陰にIBM覇権確立の意図が見えかくれしたことも敬遠された理由の一つである。
そしてセマテックが政府からの援助を得て、政府と議会からの監視の下で協調関係を築くことができたのに対し、民間だけの力でコンソーシアムを形成しようとしたUSメモリーズでは、IBMばかりが目立ってしまい、協調関係をつくれなかったという評価につながる。このような考えがセマテックの評価を持ち上げることになったのである。
このような変化の背景には米企業の競争力の回復と半導体産業のグローバル化の進展がある。半導体産業はもはやそれぞれの国ごとの競争力を論ずる段階ではなくなってきている。各メーカーが他国のメーカーやサプライヤーと提携しながら競争を繰り広げるようになってきている。日本に対抗するために結成されたセマテックに日本企業が参加する可能性も出てきたのである(52)。実際に、二〇〇〇年にも量産時機が来る半導体素材の直径一二インチウエハー分野で日本のウエハーメーカーと基礎研究の情報を相互に交換することを明らかにしている(53)。
これを裏返してみれば、政府からの援助は獲得し続けながらも、セマテック自体は政府からの援助をはずすことで他国との連携を可能にし、技術開発をさらに効率的に進めようとする意図が隠されているとみることもできる。米国半導体産業は、現在の回復に甘んずることなくロードマップに沿った世界市場におけるナンバー・ワンの地位を確立しようとしていると言えるだろう。それは戦略を変えながらもセマテックの本来の使命を全うすることに他ならない。
そしてセマテックが連邦政府からの援助を辞退するということは、政府が支援するコンソーシアムは産業活性化策としてふさわしい方法であるという評価をさらに堅固なものにするだろう。いったん援助をし始めたらその援助漬けになり、復活の糸口を見いだせなくなるのではなく、うまくコンソーシアムを運営することにより、外国からの危機にさらされた産業を強化することができるのだということを示すことになるからである。
しかしながら、セマテックの成功はその組織運営の観点からのみ評価されており、技術的な成功がどれだけ産業活性化につながったかという議論が欠けていることも指摘した。もしこの技術的な成功が本物ではなく、日本の半導体産業の停滞によって相対的に米国半導体産業がトップに返り咲いたのだとしたら、セマテックの評価は割り引かれたものになるだろう。
しかし、もしセマテックの組織的な成功が技術的な成功を生み出し、本当に米国半導体産業の復活に貢献しているのだとしたら、日本の産業にとっては脅威となるだろう。なぜならセマテックが成功のモデルとされている限り、他産業でも似たような取り組みが起きるかもしれないからである。セマテックの組織は経済的戦時体制とも呼べるほど産官学が一体となった強固なものであった。経済的戦時体制が形成されるには外的な脅威とそれが経済全体あるいは安全保障を脅かすという認識が条件となっている。このような条件はハイテク摩擦では容易に成立する可能性がある。ハイテクを安全保障から引き離し、テクノナショナリズムではなく、テクノグローバリズムの枠組の中でとらえていくことが必要であろう。
技術は本来国境を越えて恩恵をもたらすものである。競争力を国家の枠組の中でとらえることの限界が指摘されているものの、現実のレベルではそうはいっていないのが現状である。このような現状改善のためにも日米摩擦を全体としてどう処理するかがより大きな課題であることはいうまでもない。