札模様  第一章

  四月  ――さくらとともに――


 一陣の風とともに花びらが舞う。満開の桜が散っていく のは惜しいが、桜は散るがゆえに美しい。桜吹雪もまた一 興か。
 「サクラサク」の電文は合格電報の定番である。桜の花 びらがハラハラと舞う中を入学式に向かう自らの姿を連想 させてくれる。

 ミツオも、そんなイメージを抱きつつ、入学式の朝、駅 の改札を抜けた。駅の目の前に大学のキャンパスは広がっ ている。入学式の会場までは、桜並木ならぬ銀杏並木がま っすぐにのびている。桜はというと、並木の両翼にのぞい ている。所々で、新入生親子が写真を撮っている。やはり、 背景には桜が入るようにしたいようだ。
 「大学の入学式って、親が来る類のものだったかな?」
 ミツオは、大学の入学式は親が来るようなものではない と思っていたし、そんなことを言い出すような親でもなか ったので、ふと、こんな思いにとらわれた。会場に近づく と、クラブの勧誘であろうか、在学生とおぼしき連中が新 入生に声をかけている。断るのも煩わしいので、なるべく 声をかけられないように足早に会場に向かう。それでもチ ラシを何枚か渡された。ろくに見もしないで、会場に入っ た。かつて在学していた高校からも何人か来ている筈なの だが、まったく知り合いには会わない。会いたいとも思わ なかった。六千人の中にまぎれている自分を感じた。新し い生活に過去を持ち込みたくはなかった。結局、入学式な どというものは、大学生活を始めるにあたっての「ヨーイ、 ドン!」の号砲がわりなのだ。

 入学式の中身は、月並みの感を否めない。回りでは多く の新入生が居眠りをしている。隣の女子学生などはいびき をかいて他人の肩にもたれかかっていた。しかし、ミツオ は不思議と眠くもならなかったし、退屈もしなかった。月 並みな話からも、それなりに考えるところがあったからだ ろう。
 大学といえども、クラスもあれば、担任もいる。研究会 に所属すれば、縦と横の人間関係の中で学問に向かうこと になる。広くは学部に所属し、大学に所属している。世間 は所属集団で人を見る。個人が集団と切り離して自分を見 てくれといってみても、詮ないことである。祝辞や新入生 代表挨拶を聞いていると、個としてよりも集団の中で生活 することを余儀なくされる印象を受けてしまう。個である ことを主張すると回りから際だってしまわざるをえない。 ミツオは、大学の中でその他大勢の学生の中に埋没し、人 間関係の煩わしさとは離れた4年間を平凡に生活したかっ た。
 しかし、平凡に生活するというのも、それなりの苦労が ありそうだ。サークルに入るというのも、平凡な学生生活 を演出する貴重な要素であるが、入れば入ったで集団とい う隠れ蓑を得るかわりに、多少の人間関係はこなさなけれ ばならない。手元のチラシを見てみる。テニス、スキー、 旅行、合唱…。どこに所属しても一年坊主の役目は面倒く さそうだった。所詮、ミツオの考えは、どれも甘い幻想に すぎなかった。
 入学式は校歌で終わる。突然の起立に居眠り組はびっく りする。式次第に印刷された歌詞を見ながら、たどたどし く歌う。人によっては、次に校歌を歌うのは卒業式という ことになる。大学主催の儀式は、こうして無事に終わった。

 入学式が終わるとサークルの勧誘活動の本番である。会 場の前は部員確保に必死な在学生でごった返している。通 行の妨げ以外の何物でもない。
 「そこの君、背が高いね。バスケット部にはいらないか。」
 「君、いい身体しているね。相撲部にはいらないか。」
 要するにふとっているねと言っているのと一緒だ。
 「テニスサークルに入りませんか。私たちサクラ女子大 と提携しているんだけど…。」
 化粧の濃い女子学生があちこちで声をかけている。こん な光景がいたるところで展開している。
 ミツオは、この騒ぎがおさまるまで会場から出るのをや めることにした。どうやら会場内での勧誘は禁止されてい るらしい。出口に近い座席にもどって、外の喧噪をBGM に大学から配布された資料に目を通した。「マルチ商法に 注意」「宗教系の団体の活動のために学業をおろそかにし てはいけない」「反社会的破壊活動に注意」とか、あまり いいことが書いてあるものではない。大学公認サークルの 一覧というのもあった。そんなものを読んでいるうちに、 ついうつらうつらと舟をこぎ始めていた。

 「ちょっと君、後片付けがあるので退出してくれないか な。」
 「あっ、すみません。今出ます。」
 「サークルの一覧を読んでいたようだけど、どこに入る か決めたの?」
 「い、い、いいえ。」
 居眠りをしていたもので、動揺が隠せない。
 「うちは、公認団体が多いだろう。公認したからといっ て予算をつけるわけではないので、どんどん増えていくん だよね。」
 聞きたくもない話しを勝手にしてくる。
 「はあ、そうですか。なにか、お薦めのサークルはあり ますか?」
   やたら、親しげに話しかけられてきたので、つい余計な ことを聞いてしまう。
 「ないことはないけど…。ぼく自身、学生時代はサーク ルに入っていたわけだから。それよりも、君は何かやって みたいものというのはないの。他人の意見を聞くことも悪 いとは言わないけれど、こういうものは自分で決めるもの だからね。」
 「それが、サークルに入ろうか、入らないほうがいいの か考えているんです。」
 「入ってみて、気にいらなかったらやめればいいんだか ら。気楽に考えなよ。学生相談室ってところにも資料があ るし、相談にものってくれる。学生部の事務室を利用して くれてもいいし…。」
 どうやら、学生部の職員だったようだ。端から、話しを 聞いていた別の職員が話しに加わってきた。
 「3日間くらい、いろいろなサークルが説明会やってい るから、出てみたら。」
 「はい、そうします。さようなら。」
 結局、お薦めを聞かずに出ていくことになってしまった。 まさかこんなところで、職員と話しをするはめになろうと は思ってもみなかった。外で勧誘につかまるよりはましか もしれないが、それにしても妙に慣れ慣れしい連中だった。 会場を出ると、さすがに勧誘グループは減っていた。そ れでも正面突破は多くの団体につかまりそうだったので、 人の少なさそうな左側から迂回することにした。うまく抜 けられたと思ったら、ぽつんと立っていた学生が声をかけ てくる。「急いでいますので…」と言って、チラシだけ受 け取って、駅に向かった。

 *

 入学式から授業開始までの期間は、通常、学部ガイダン スや健康診断などにあてられる。しかし、在学生にとって は、サークルの勧誘期間としての意味が大きい。入部説明 会や展示、舞台でのパフォーマンスなど、様々なPR活動 が繰り広げられる。ミツオは、説明会のいくつかに顔を出 してみた。「気楽に考えな。」「入って気にいらなければ やめればいい。」入学式のあとの会場で、職員から言われ た言葉が、あれこれ思い悩んでいた彼の気を楽にしたから だ。
 ところが、説明会にでると名前や出身校を書かされるの は嫌だった。

  氏名:佐多 三男
  学部:経済学部
  住所:横浜市港北区・・・
  電話:○四五(XX五)七五七七
  出身高校:大検

 「へえ、お兄さんが二人いるんだ。」
 「三人兄弟なの?」
 この辺はまだ序の口という感じである。露骨に「三男坊」 と言われるとムッとする。確かにこれは事実である。事実 は事実なのだが、あえて言われると腹がたつものだ。兄達 が一応「義孝」「雅経」という立派そうな名前をつけられ ているのに、自分だけが「三男」という安易な名前のつけ られ方をしていることに昔からコンプレックスを抱いてき たのだ。親に文句を言ったこともあるが、「決して三番め の男の子だからという理由だけでつけたわけじゃないんだ よ。何もお兄さん達のように画数の多い漢字を使った名前 だから、よく考えたというものじゃないんだ。一見単純そ うに見えるほうが考えるのに時間がかかっているんだよ。 お前に一番似合ういい名前だと思わないかい。」と笑って とりあってくれなかった。こういうこととは、他人からみ ると些細なことなのだが、当事者にとっては心の琴線に触 れる問題なのだ。命名のいわれについては、後に決して兄 達との差別ではなかったことがわかった。
 それから、出身高校名を書かされたり、聞かれたりする のも嫌だった。最初は書かなかったのだが、書かないと聞 かれるし、「書きたくない」と答えると、何故書きたくな いのか聞いてくる奴までいるのには参った。大学に入学し てくる多くは、当然高校を卒業してきている。しかし、中 には、大検で受験資格を得るものもいる。胸を張って「大 検」と答える人もいるが、ミツオにはそれができなかった。 少数派であるため、在学生から好奇の眼で見られていると 感じていたからだ。中には、日本の教育制度への批判から ポリシーをもって高校には進学せずに大検を目指す人もい る。若い時に生活のため、学業への夢を断たれてしまい、 年配になってから大検で大学受験資格を得ようと一念発起 する人もいる。ミツオもそうであったなら、こんなことで 臆したりはしなかった。高校を中退して、仕事をするでも なく、高校に通いなおすでもなく、大検を選択することに した自分自身に不満を持っていたためであろうか。中退の 理由が部活の最中に起きた暴力事件というか事故に関する ことだったというのも、心の傷であることに間違いない。

 殴られたから、殴りかえしただけだった。それも練習態 度が悪い下級生を注意したら、そいつが殴ってきたからだ。 非は相手にある。ただ、反撃のパンチの打ちどころが悪か ったのだろう。結果、意識が回復するのに二カ月もかかっ てしまった。その間、ミツオは悪者にされていた。相手の 親からは、高校への圧力が相当かかった。世の中の嫌らし さも感じた。そのごたごたで、自分から高校に愛想を尽か してしまったのだ。退学処分ではなく自主退学できたのが、 せめてもの高校側の配慮だったのかもしれない。こうして、 現役合格に比べれば、一年遅れで大学に入学した今、痛切 に高校を卒業していたかったと思う。明るく屈託のない高 校生活を全うしたかった。それゆえ、大学では平凡な学生 生活を送りたかった。サークル活動に対して一歩引いてい るのは、高校の時の経緯が頭の中をよぎるからだった。

 翌日からは授業が開始する。いくつかのサークルの説明 会に「これは!」というものを感じられなかったミツオに とって、最後の説明会は、入学式の日、最後にチラシを受 け取った団体だった。大学主催の新入生向けの講演が少々 長引いてしまったため、説明会場に行った時には、すでに デモンストレーションが始まっていた。教室の真ん中には 畳が敷かれている。そこには男女の学生が向かいあって座 っている。二人の前には、百人一首の取り札が整然と並べ られている。立っている学生が、「そこの手前の椅子に座 ってください。」とすすめてくれる。と、おもむろにその 学生が、「はげしかれとは祈らぬものを。…。嵐吹く三室 の山のもみぢ葉は…。」と大きな声で詠み始めた。「はげ しかれ云々」と詠み始めると、畳の上の二人は、明らかに 札を取ろうという構えを見せた。そして「嵐」と詠まれる やいなや二人の手が一箇所に集中していた。二人の手が数 枚の札を跳ね飛ばす。見ていてもどっちが取ったかなんて さっぱりわからない。こんな光景が、何十回と繰り返され る。時には歌が詠まれても、畳の上の二人がビクともしな いこともある。一人の方の手前の札が一枚になって、その 札がいつのまにか無くなって終わったようだった。
 ミツオは、見ていて競技者の表情や挙措動作に感心した。 説明会用のデモンストレーションだから、真剣勝負ではな いだろう。それでも、詠みを聞き、札を取りに行くときの 獲物を狙うような精悍な表情や、構えから札に向かう時の 動作の素早さは見事だった。これが真剣な試合だったら、 もっと素晴らしいもの、美しいものになるのではないかと 思った。実際、競技中にりりしく見えた二人の学生は、競 技が終わって、教室の中に立っていると、どこにでもいる 普通の学生と何も変わらないような雰囲気なのだ。男子学 生のほうは、入学式の日に式の終わったあと、人の流れの 多い方ではなく、迂回路にぼうっと立ってミツオにチラシ を渡した学生のような気がする。どちらかというと要領が わるそうな感じがするのだが、競技中は別人のように思え た。人をこれだけ変えうる競技であることに興味をそそら れた。
 競技のデモンストレーションのあとで、詠み手をしてい た学生から、競技の簡単な説明があった。
 百枚の札の内、五十枚を使用し、残り五十枚はカラ札に なる。詠みは全部詠むので、詠まれても場にない札がある。 五十枚を二十五枚ずつ双方が持って、三段ずつに並べる。 自分の陣を自分が取れば一枚減り、相手の陣を一枚取れば、 自分の陣から札を一枚送ることができる。こうして自分の 陣の札を先になくした方が勝ちというゲームである。した がって、一枚対一枚になってもどちらかの札が詠まれるの で、必ず勝敗がつき、引き分けはない。それから、相手が お手つきをすると一枚札を送ることができる。ただ、その 詠まれた札がある陣の札はどれをさわってもお手付きには ならない。しかし、カラ札の時に相手陣と自陣を両方さわ るとカラダブといって、札を二枚送られるお手つきになっ てしまう。また、札の取り方は、札に直接触れる方法のほ かに、札押しといって、札のある陣地から詠まれた札を他 の札から押し出すことによって認められる取り方もある。
 競技をする上では、決まり字を覚えなければならないと いう説明もあった。たとえば、百枚の札の中に「い」で始 まる札は三枚ある。「いまこ」「いまは」「いに」である。 「いまこ」「いまは」は三文字めを聞けば確定されるので 「三字決まり」、「いに」は二字めを聞けばわかるので「二 字決まり」である。最初に「いまこ」が詠まれれば「いま は」は「いま」という二字決まりで取れるように変化する。 次に「いに」が詠まれれば、「いまこ」は「い」の一字決 まりで取れるようになる。したがって、このように、何の 音で始まる札が何枚あって、決まり字は何字決まりで、ど のように変化していくかを覚えることが必要である。「札 を百枚覚えるというハードルが、競技人口増加の妨げにな っている」という説明は、もっともなことだった。
 ミツオは、百人一首の歌は全部知っていた。作者も覚え ていた。普通、坊主めくりは、絵の描いてある詠み札で行 うのだが、文字だけの取り札ででもできるというのが自慢 だった。高校一年の時に定期試験五回に二十首ずつ出題さ れるというので、暗記したのだった。ゼロからの出発より、 ハードルは低い筈だ。そして、勝ちと負け、白黒のはっき りした世界であるという明快さも魅力だった。個人の競技 であるというのもいい。チームプレイで、誰のせいで負け たなどということがない。勝つも負けるも、自分の責任で ある。さらに、説明会のデモンストレーションで見た競技 者の変化である。何の変哲もない学生が、競技をしている 最中に垣間見せた変貌。ひょっとするとこの競技が内面の 輝きを引き出してくれるのではないかという期待。ミツオ は、素直に自分もやってみたいと感じていた。
 入会希望のノートにお決まりのデータを書いたが、何も 気にせずにスラスラと書くことができた。そして、ここの 学生達はまるで無関心ででもあるかのように、記入内容の ことで何か言ったり、聞いたりしてこなかった。

 かるた会員「佐多三男」の誕生である。

 *

 「こんにちわ!」
 大学の授業初日、その日の講義を聞き終えたミツオが、 キャンパスを駅に向かって歩いているといきなり女性から 声をかけられた。『誰だったっけ?』と記憶の糸をたどっ ていたら、
 「あなた、かるた会の説明会で名前を書いていった人で しょ。覚えてないの?」と言ってきた。
 「ああ、あの、かるたを取っていた人ですね。」
 「そうよ。私は、佐藤珠子。法学部の三年生。よろしく ね。」
 「あっ、いえ、ぼ、ぼくは…。佐多三男です。経済学部 の一年生です。みんなミツオって呼びます。よろしくお願 いします。」
   同年代の女性と話すことなど高校に在学していた時以来 なもので思わず緊張してしまった。サークル説明会の時は、 かるたを取っている時以外は、あまりパッとしない感じだ ったが、話しかけられてみると、明るい女子学生という印 象だ。この前と比べて、服装も随分ときれいだ。
 「何、人をジロジロ見てるのよ。三年生がこっちのキャ ンパスに来ているんで不思議に思っているんでしょ。私は ね、自慢じゃないけど、ドイツ語の単位を落としているん で、それだけ取りにこっちに来ているのよ。あなたも気を つけなさいよ。」
 ミツオの大学は、いわゆる教養課程のキャンパスと専門 課程のキャンパスが分かれているので、単位を残していな ければ、教養課程キャンパスに授業を受けにくることはな い。
 「えっ、いや、この前と随分服装が違うんで、それでつ い…。」
 「あら、やだ。私、余計なこといっちゃったわね。あの ね、いくら何でも、あんな膝にツギのあたったジーパンで、 学校来てると思う? あれはね、かるた用のジーパンなの。 ジャージで取っている人も多いけど、私はジーパン。かる たの練習にくる時は、ジャージか、だめになってもいいズ ボンを持ってらっしゃい。いい格好なんかしちゃだめだか らね。ズボンなんかすぐに膝に穴があいちゃうんだから。」
 「は、はい、わかりました。初練習は土曜日でしたっけ。 その時にはジャージを持っていけばいいんですね。では失 礼します。」
 「ちょっと待ってよ。何か用事でもあるの? 家に帰る だけならちょっと付き合いなさいよ。喫茶店で何かおごっ てあげるから。」
 「えっ、でも…。」
 「まあ、いいから、他の新入生を紹介するから、いらっ しゃい。」
 特に用事があるわけでもなかったミツオは、他の新入生 というのに興味をもったのでついていくことにした。

 駅をはさんでキャンパスの反対側の町並みは放射線状に なっている。線路沿いの道を右にまっすぐ行くと左側に喫 茶店がある。入口には、「まりも」の入った水槽が置いて ある。
 「まりもジュースとかまりもサラダっていうのがメニュ ーにのってるんですけど、これって、あの水槽に入ってい るまりもをジュースにしたり、サラダにしたりしているん ですか?」
 椅子に座るなりのこの質問に珠子は、笑い転げた。
 「まさか、そんなわけないでしょ。まりもジュースって いうのはミックスジュースのことで、まりもサラダってい うのは、ここのオリジナルサラダのこと。まりもなんて使 ってないわよ。」
 「先輩詳しいんですね。注文したことあるんですか。」
 「私はないけど、伊能先輩って、ほら、あの説明会の時 に詠みをやっていたおでこの広い人。あの人が、かわった もの注文するのが好きでね。あなたも頼んでみる?」
 こういう成り行きで、ミツオはまりもジュースを注文し た。まりもの絞り汁も乾燥粉もはいっていないごく普通の ミックスジュースだった。ちょっと残念な気がするのも変 なものである。珠子の話しでは、現在、現役のかるた会員 は実質五人らしい。実質といったのは、ちゃんとそれなり に練習に来てかるたを取って、団体戦や個人戦などの試合 に出るという意味である。大学院博士課程の伊能、四年生 の山内と早水、三年生の佐藤に、二年生の瀬崎の五人とい うことだった。四年生は就職を控え、あまり来なくなるら しく、説明会で取りをしていたのは、佐藤と瀬崎であった。 このほか、コンパや練習終了間際に麻雀のメンツ探しに顔 を出す会員がいるということだった。団体戦というのは五 人で一チームなので、とにかく新入生を入れないと団体の 存続さえ危ぶまれるというのが、実情らしい。
   「でも説明会には、随分人が来ていたじゃないですか。 たくさん入会したんじゃないですか?」
 「あれはね、半分以上が、さくらなの。私と瀬崎くんで 友達に競技かるたの模範演技をやるから見に来てって呼ん だ人達なの。ある程度、人が聞いていないと入りづらいで しょ。」
 「えっ、そうだったんですか。それは知りませんでした。 他のサークルの説明会はもっと人がいたものですから。」
 「そうよね。大学に入って、百人一首の札を覚えような んて奇特な学生はそういないよね。だからね、入っても、 しばらくするとやめちゃうか、コンパ要員に転向しちゃう 子が多くて、続けるのは、一学年についてせいぜい一人か 二人ってとこね。でもね今年は、一学年で一チームを組め る五人を残すのが目標なの。はたして、今度の初練習に何 人来てくれるかが問題よね。佐多くん、やめないでよね。」
 「はい。頑張ります。」
 会の内情を聞かされつつ、もう一人の新入会員を待って いるのだが、なかなか来ない。時間つぶしにと札の覚え方 の紙を渡され、初級講座が始まった。

 百枚の中に同一音で始まる札が他に無い一枚札、すなわ ち一字決まりの札は「むすめふさほせ」の七枚。これは有 名だ。もちろんミツオも知っていた。百枚の中に同音始ま りが二枚ずつあるのが「うつしもゆ」の五種十枚。以下同 様に三枚札が「いちひき」の四種十二枚。四枚札が「はや よか」の四種十六枚。五枚札が「み」。六枚札が「たこ」 の二種十二枚。七枚札が「おわ」の二種十四枚。八枚札が 「な」。とんで十六枚札が「あ」である。「あふことの」 の札は「オーコトノ」と詠むため、表記は「あ」だが、「お」 札に分類される。これをきちんと覚えないと、札が詠まれ るに従って生じる決まり字の変化を確認できないのだ。単 に歌を覚えていて、下の句を見て上の句を言えるだけでは まだまだだった。ミツオは、取り札だけの百枚のセットを 預かり、それを見ながら音ごとに分類する練習と、すべて 決まり字でいう練習を申し渡された。要するに下の句を見 たら、反射的に決まり字を言えるようにする練習だった。 すなわち、「ひさかたの」「ひとはいさ」「ひともをし」 なら、「ヒサ」「ヒトワ」「ヒトモ」と言わなければなら ない。百枚の札をめくりながら、すべて間違えずに約一分 で言えるようになれとのことだった。一枚めくるのだけで 一秒ずつかかるような気もするのだが…。 取り札だけで 一箱になっている札は、なんとなくプロっぽくて嬉しかっ た。だいたい市販の札は、詠み札百枚と取り札百枚の二百 枚ワンセットであるが、競技場ではいっぺんに何組取って も、詠みは会場に一人いれば良いので、詠み札と取り札は 別売されているものを使うわけだ。

 「おねえちゃん。待たせちゃってごめんなさい。」
 どうやら、待ち人が来たようだ。小柄だが、身体から元 気が溢れ出しているようなボーイッシュな女子学生だった。
 「三十分の遅刻よ。志保ちゃん。こちらは佐多三男くん。 かるた会の新入生。佐多くんに来てもらってよかったわ。 ひとりだったら、待ってる時間を持て余しちゃうところだ ったわ。あっ、この子は、山根志保ちゃん。私の姪。」
 「山根志保です。佐多さんでしたね。よろしくお願いし ます。おねえちゃんには、かるた会でかるたを教えてもら うことになっています。」
 「こ、こんにちわ。佐多です。みんなミツオって名前で 呼びます。 ミツオって呼んでくれてかまいませんから。」
 どうも、ミツオは女性との初対面にはあがってしまうよ うだ。というわけで、すぐに相手のペースにはまってしま う。
 「おねえちゃんと私って二歳しかはなれてないんですよ。 でも、姪と叔母。私の母が、おねえちゃんの一番上のお姉 さんなんです。年齢が二十も離れているんですよ。小さい 頃からよく遊んでもらったんです。だから、昔からおねえ ちゃんって呼んでて。それにおばさんなんて呼んだら、そ れこそ張り倒されちゃいますもんね。」
 「だいたいね、空手を十年以上やってるあんたを張り倒 せるわけがないじゃないの。ミツオくん気をつけなさいよ。 この子は、こう見えても空手の黒帯だからね。高校の全国 大会でも、ベスト4までいったのよね。」
 ミツオは、異様な元気の理由がわかったような気がした。
 「でも、なぜ、空手の人がかるたをやろうなんて思った んですか。」
   「もう、空手はいいの。結果も出せたし、やり残したこ とも悔いもないし。稽古は、自分一人ででもできるし、体 育会でやってこうとは思ってないし。大学に入ったら、別 のことをやってみたかったの。いろいろなサークルを見て まわったんだけど、どれもしっくりこなくって。そうこう してたら、おねえちゃんから電話がかかってきて、かるた 会の説明会のさくらで来てくれっていわれて。最初は全然 そんな気なかったんだけど、見ているうちに、あのやさし くて、小さいころは男の子たちにいじめられていたおねえ ちゃんが、競技中はあんなに別人のようになってるんで、 感激しちゃって、私もやってみようかなって思ったの。」
 「そうよね。二人で遊んでて男の子にいじめられると、 年下のこの子のほうが私を守ってくれたのよね。この子が 空手を始めたのは、実家の隣に道場があったっていう偶然 もあったけど、私を守りたいって気持ちが強かったからか もね。」
 「あれっ、今ごろ気づいたの。」
 この二人の話しは、とりとめもなく延々と続いた。ミツ オは口をはさむ間などなく、聞き役に徹していた。どうや ら、さっき渡された札は、本来は志保に渡されるべきもの だったらしい。ミツオは、また、同じようなかるたの説明 を聞かせれたが、黙って聞いていた。志保は、百人一首の 歌を覚えるところからはじめなければならないらしい。は たして、空手の経験はかるたに活かせるものなのだろうか。 密かに志保にライバル意識を持つミツオであった。
 ミツオは、その晩から早速、申し渡された練習を始めて いた。

 *

 土曜日に授業をいれずに自主的に週休二日制にしている 学生も多いが、ミツオは、土曜日の第一時限に必修の外国 語の授業を割当られていたので休むわけにはいかなかった。 かるた会の初練習は、午後一時からであった。食堂が込む 前に昼食をとるとしても、まだ、時間を持て余す。珠子に 申し渡された宿題も完了した。二分を越える程度ではある が、取り札を見て決まり字をサクサクいうことができるよ うになったし、音別に何枚ずつあるかも把握した。一人暮 らしで、他にやることもなかったからだ。札を繰る動作を 続けていくと、札が手に馴染んでいく。札のサイズは、や はり日本人の手のひらに合うように経験的に定められてき たものなのだろう。
 さて、ミツオは余った時間で学生部にいってみることに した。父親から、奨学金について受給の資格を調べるよう に言われていたからだ。父親の話では、おそらく自分の年 収では奨学金を受けることはできないだろうが、親の年収 など関係なく応募できるものがあったらやってみろという ことだった。学生部にいって奨学金の要項をもらって相談 を受けたが、ミツオの親の年収は出願資格をはるかに上回 っているそうだった。そして、親の年収関係なしで応募で きるものは今のところないということだった。二人の兄も すでに就職し、独立しており、父親も学費と仕送りの心配 はしなくてもよいと言われていたので、特に残念さを感じ なかった。「小遣いくらいはアルバイトで稼げばいい」と 思っていた。ふと、学生部の室内を見回すと、入学式の後 に声をかけてきた若い職員がいたので、相談してみること にした。
 「こんにちわ。ぼくのこと覚えていますか?」
 「えーっと。申し訳ない。どなたでしたっけ。」
 「いやー、そうですよね。たくさんの学生と話している でしょうから、到底覚えきれませんよね。あのー、入学式 のあと、会場で居眠りしてたもんです。」
 「ああ、あの時の…。今日は、何かな。サークルの相談 かい。」
 「いえ、サークルは、もう決めました。今日は、アルバ イトについて、何かアドバイスでもないかなって思いまし て…。」
 「ばくぜんとそう言われてもね。一般的にいうと家庭教 師が多いけど、民間のセンターに登録すると縛りが多かっ たり、センター側の取り分も多いからね。学生会館の一階 に共済部という学生の 福利厚生機関も紹介しているし、た しか来週の昼休みに登録説明会をやる予定だから、掲示で 確認して行ってみるといいよ。割のいいのは、肉体労働と 夜間業務だけど、大学の立場としては夜間業務や風俗関係 の仕事、危険作業や車の運転を伴う仕事は紹介しちゃいけ ないことになっているんだ。」
 「要するに、大学で紹介できない仕事のほうがペイがい いということですね。ほかに注意することってあります か。」
 「いそぐ必要がないなら、最初の学期は学生生活の様子 をみて、授業とサークルとやって、どのくらいアルバイト できるか考えてから始めたほうがいいと思うけどね。生活 費の補助にするためでも最低四月の間は、様子をみたほう がいいと思う。時々、アルバイトに熱中するあまり、学業 を怠る学生がいて留年したりするんだよね。」
 「おっしゃるとおりですね。当面、学費と生活費には困 らないので、しばらく様子をみることにします。」
 職業柄なのだろうか、この前も感じたが、話しやすい人 だった。

 かるたの練習場は、食堂棟の三階にあった。和室である。 一時に行くとすでに数名が集まっていた。
 「佐多くん、こっちに入って。」
 珠子である。
 「こんにちわ。ミツオくん。」
 志保もいた。早速ミツオ と名前で呼んでくれた。志保の明るい性格から、変に思わ れることもないだろう。どうも「佐多」と呼ばれるのが好 きでなかったので、他のみんなにも「ミツオ」と呼んでも らうつもりでいた。
 ミツオの後からも、数人が入ってきた。結構な盛況であ る。
 上級生から自己紹介が始まった。
 理工学研究科博士課程二年の伊能。広い額にはどんな知 識がつまっているのであろうか。文学部四年の山内と経済 学部四年の早水は、今にも就職活動にいけそうなリクルー トカット。商学部四年の大仙は、頭にバンダナを巻いた髭 面。佐藤は法学部の三年生。経済学部二年の瀬崎は、落ち 着きのない感じである。安部というOBも来ていた。
 続いて新入生の側の自己紹介である。文学部の山根志保。 空手から転向してきた。同じく文学部の春日あかね。華奢 というよりは、かぼそい感じの痩身の女性である。古典と 短歌が好きだそうだ。理工学部の石田 基は、一九○セン チ以上はありそうな長身だ。膝を壊してバスケットをやめ たそうだ。中学時代にクラスの百人一首大会で一位になっ たこともあり、競技かるたにチャレンジする気になった。 同じ理工学部の敷島邦郎は、巨漢である。体重一○○キロ は優に越えているだろう。高校時代は柔道部。同じ下宿の 石田に誘われて来た。商学部の西寺 守は、高校時代から の競技かるた経験者だった。四年の山内や早水とも試合で 対戦経験があるとのことだった。そして経済学部の佐多三 男である。
 最初は、三人のチームを四つ作って、源平戦を二組やる ことになった。ミツオは春日と安部と同じチームで、山内、 瀬崎、敷島チームと対戦した。これで、新入生がどのくら い札を知っているかを知る手掛かりにするようだ。上級生 はそれなりに手を緩めて、新入生に取らせてくれる。敷島 は、全然歌を知らないようだったが、春日は、よく知って いた。こんな細腕で骨が折れないかなという感じだが、き れいな指先で正確に取っていた。もちろん、ミツオも練習 の成果を早速発揮して、自陣に敵陣に札を取りまくった。 しかし、初めのうちは取らせてくれていたが、ミツオのチ ームのリードが大きくなると山内、瀬崎が取り出して、終 盤には結局せった展開になった。そこで、瀬崎が痛恨のお 手つきをし、最後はミツオが敵陣の札を取って勝利を手中 に納めた。隣の試合では、西寺を除外すると一年生では石 田が結構札を取っていたようだ。山根は、まだ札を覚えて いないらしい。
 源平戦が終わると、新たに三人が入って来た。再び始ま る自己紹介。商学部三年の柳田。スキンヘッドが目立つ。 商学部二年の市山と黒木。大仙との四人でよく麻雀卓を囲 んでいるという話しである。麻雀、花札、ボーリング、ビ リヤード、パチスロ等々、何でも初歩からの手ほどき、ま たはお相手をしてくれるという、自称かるた会レクリエー ション班の面々だった。
 さて、いよいよ本格的練習である。それぞれ、ジャージ やらジーパンやらにはきかえる。上級生のそれには膝につ ぎがあたっている。それだけ膝に負担がかかるということ だ。体重の重そうな敷島や膝を故障した経験を持つ石田の ことが他人事ながら心配になってしまう。山根、敷島は、 隣の部屋で札を覚えることからの指導を受けることになっ た。レクリエーション班と早水が指導にいった。残りは実 際の札の払い方を試合のやり方を学びながらやってみるこ とになった。佐藤が春日を、安部が石田を、伊能がミツオ を教え、山内が西寺と対戦、瀬崎の詠みといった組み合わ せだった。
 伊能は、ミツオに丁寧に教えてくれる。
 まずは、札の並べ方からだ。百枚の取り札を裏返しにし、 よくかきまぜてから、そのまま無作為に二十五枚を取る。 次に表向きにして自陣内に三段にわけて並べる。並べるに あたり、上段の中央の札の位置を決める。これは、札を裏 返して、上段の中央とおぼしき位置に置くことによって決 まる。相手の札との間は三センチ離す。双方が中央の位置 を納得したら、陣の幅は札の短辺一六枚半、八十七センチ と定まっている。自分の腕の幅でこの長さをはかる方法を 習う。とりあえず、ミツオは言われるままにしてみた。自 陣の範囲が決まったら、いよいよ札を並べる。この並べ方 に選手の個性があり、それぞれにどの札をどこに置くかと いうことが決まっている。これを定位置という。ミツオに そんな定位置などというものがあるわけがない。教えられ るとおりに並べてみた。六字決まり札は、囲いやすい場所 に置くとか、一字決まりは下段がよいとか、同じ音の札を 一箇所に固めすぎると狙われやすいなど、素人にも理解し やすいように解説しながら、ざっと並べてくれた。微調整 は任せられたが、徐々に自分に合う定位置を決めていけば よいということだった。定位置の基本は、自分に覚えやす く取りやすく、相手に覚えにくく、取りにくいという観点 で定位置を決めるということだそうだ。
 このような調子だったので並べるのに時間がかかってし まったが、並べ終わったら、暗記時間十五分の開始である。
 「札の決まりを一枚ずつ言ってごらん。はい、ここから。」 と、伊能が指さす場所の札を言わされる。
 「あさぼらけう、あはじ、あはれ、もも、さ、め…。」
 さすが、暗記練習の成果である。相手陣の札はさかさま なので途中つかえる札もあったが、なんとか五十枚を言い きる。
 「よく覚えているね。札はさかさまに並んでいても、言 えるようにならなきゃだめだよ。書いてある文字を読むん じゃなくて、どっちかというと形で認識するような感じで 覚えるんだ。そのためには、とにかく札を見ること。どん な置かれ方であっても。」
 「それじゃ、ムスメフサホセの札であるのを指さしなが ら言ってみて。」
 「む、め、さ、ふ、ほ。」
 「OK。次はウツシモユ。」
 「つき、もろ、もも、ゆう、ゆら。」
 「同じ音の札が別れている場合は、敵陣から言うように して。」
   「もも、もろ、ゆら、ゆう。」
 「OK。次はイチヒキ。」
 「いに、ちぎりき、ちぎりお…。」
 こうして、順番にハヤヨカ、ミ、タコ、オワ、ナ、アと 確認をさせられた。ミツオは確認しながらも、五十枚の札 と場所を覚えるのが、いかに大変かを実感するのだった。
 「次は、構え。ぼくが構えるのを見て、真似してごらん。 まず、真ん中の位置で正座。膝の間を拳ふたつ程度あけて、 右膝をちょっと引く。左手を自陣の札の際からちょっと離 して置いてみて。」
 「こうですか?」
 「そう、いいよ。右手は真ん中に生卵を軽く握る感じで、 指先を畳につける。それで前傾姿勢で、頭は、上段より前 にだしちゃ駄目。くるしかったら、膝の開きや、膝の位置 で調整する。そうそう。そんな感じ。ほら、ここの札を払 ってみて。」
 言われるとおりにしてみるミツオ。結構しんどい。端で 見るより、札を払うというのは大変だ。払ったあとバラン スが崩れてこけてしまう。
 「払ったあと、バランスを元に戻すために、畳を叩くん だ。こういう感じで。」
 実演する伊能。辛うじて真似るミツオ。これを、敵の陣 の右側、左側、自陣の右側、左側、それぞれ三段づつ計十 二箇所やらされる。
 「ところで、構える時はどこを見ればいいのですか?」
 視線の位置に困っていたミツオは聞いてみた。
 「相手陣の真ん中あたりを、特に視点を定めずボーッと。 詠まれた瞬間に札のある方向に視線を移す。札を見ている と、見ている札は早く取れても、他の札が遅くなったりす る。当然、戦況に応じて、変わり得ることだけど…。」
 そうこうしているうちに、暗記時間の十五分はあっとい う間に終わってしまった。開始の二分前からは、公然と素 振りをして畳を叩いてもいいそうであるが、それ以前はだ めだそうである。今日は練習につき、そういう決め事は無 視したのだった。
 「とにかく、詠まれた札を、今の払いの要領で、自分が 気づいたところから、最大限のスピードで取る。遅い時や、 気づかない時は、指さすから、そこから取りにくる。今日 は、暗記がごっちゃになるから、札の送りはいっさい無し でやるけど、実際には取った取られたで、札の送りがある んだからね。しかも、この札の送りも競技の重要な要素だ から、おいおいじっくりと教えてあげるから。」
 試合開始に先立ち、相手に「よろしくお願いします。」 詠み手に「よろしくお願いします。」と礼を尽くす。終わ った時も同様だ。礼に始まり、礼に終わる。何事もこれが 基本なのだなとミツオは思った。
 実際にやってみると、詠みの音で札の有無など判断でき ない。目で探してしまう。音の判別と暗記が結びつかない のだ。伊能に叱咤激励されながらも続ける。場にない空札 が詠まれても、あるのかないのか探してしまう。やっと札 の数が減ってきて、覚えてきた感じで札をぎこちなくでは あるが払えてきた。あいかわらず払った後は、バランスを 崩していたが…。
 「じゃあ、今、こっちに六枚、そっちに四枚あるから、 ぼくも本気で取る。ただし、そっちがぼくの陣を取ったら、 二枚送っていいよ。」と伊能が言い出した。
 結果は、いわずもがな、ミツオには一枚も取ることがで きなかった。だが、ミツオは嬉しかった。キャリア七年の 選手の実力を肌で感じることができたのだ。ただ、ただ、 速い、強い、すさまじいと。
 他を見ると、石田と安部の練習、山内と西寺の試合がま だ続いている。安部が指示するところを石田が払う。身長 がある分、リーチもあり、手もでかく、敵陣でも楽々届い ている感じだ。身長があるというのも、一つの能力なのだ。 もう一方の試合、山内は一枚、西寺は六枚札を持っている。 西寺は、右下段に五枚、左下段に一枚置いている。じっと 見ていると、山内は攻めの手を出すが、西寺の右を抜けな い。右下段を三枚守ったあと、左下段に置いてた「こころ あ」を右に変えた。変えた途端に「こころあ」が出て、あ と二枚も守りきった。「守」という名前は伊達じゃないな どと誰かが言っている。ふとミツオの目に背広姿が飛び込 んできた。入学式に声をかけてきた学生部の職員が、試合 を見ていたのだ。学生部の職員は、サークル活動もこうし て視察に来るのかと妙に感心した。上級生とやけに親しげ に話しをしている。
 隣の部屋からは、札の暗記グループも戻って来た。自己 紹介がまたまた始まる。仕事で来ていたと思った学生部の 職員は、実は仕事を終えて来たOBだった。
 「OBの高橋です。学生部にいますので、気楽に訪ねて ください。 佐多くんでしたっけ、入学式の日に声をかけ た新入生が入っているんでびっくりしました。皆さん、が んばってください。」
 この偶然を奇遇といわずして何といおうか。ミツオにと っても驚き以外の何物でもなかった。

 新入生初練習の最後は、一年生に対する札の払いの徹底 練習だった。ミツオは、今度は山内に教わった。
 「自陣は近い。敵陣は遠い。同じように取ろうと思った ら、敵陣を取りに出るのは、自陣を取るより早くでなけれ ばならない理屈だ。相手が自陣を取る早さをうわまわらな ければならないというのは大変なことだ。敵陣は遠い。だ から攻めるんだ。」
 「はい。」
 「敵陣を抜く力がないと、さっきの俺のように守られき られちゃうんだ。とにかく、敵陣の右下段への払いと敵陣 の左下段のへ払いを徹底的に練習することだ。特に敵右下 段への攻めは、野球のピッチャーにたとえれば、三振を取 れる速球のようなものだ。カーブやチェンジアップは、ス ピードのあるストレートを身につけてこそ活きるんだ。基 本だと思って、毎日、家でも素振りをしなさい。 そして、 バランスの崩れないきれいなフォームを作り上げるんだ。 西寺の払いのフォームは見ていてきれいだっただろ。し かも、自陣の札も全部出札から直接払っていた。あれは、 こうした練習で、培われたものなんだ。」
 「はい。」
 「それから、もうひとつ。できるかぎり、出札から直接 払うよう心がけること。札押しでもいいやという練習をし ていると、いずれ壁にぶつかって、札直を目指すようにな る。途中でそうするくらいなら、変な癖がつく前に、最初 からそれを目指したほうがいい。それには、敵の右下段に 札を五枚くらい裏返して並べて、直接取りにいく札だけ表 にして、そこから払う練習を繰り返すことだ。やってみせ るからよく見ておくように。」
 山内は、実際に手本を見せてくれた。西寺の払いには繊 細さを感じたが、山内の払いは、ちょっと荒い感じがする。
 「俺は、一年生の時、家での払いの素振りの練習を怠っ たから、荒いまま固まっちまったんだ。練習に来た時だけ ではだめだ。フォームが固まってない今こそがチャンスな んだ。家での練習の成果は、練習に来た時に見てもらえ。 俺は、就職活動であまり来れなくなるから。」
 「はい、わかりました。」
 ミツオは内心たいへんな世界にはいったものだと思い始 めていた。

 五時も回り、練習が終わると、この前ミツオが珠子に連 れて行かれた喫茶店にみんなで行った。今日は、新入生は ロハである。この後は、ボーリングに行くと言うので、み んなしっかりと腹にたまるものを注文している。敷島など は、ハンバーグライスとスパゲッティナポリタンの二品を 頼んでいる。ミツオは、ピラフとまりもサラダを頼んだ。 まりもサラダも、まりもなどは入っていない普通のサラダ だった。一人暮らしは栄養のバランスが崩れるので、生野 菜をしっかり摂取しなければならない。
 西寺は、テニスサークルにも入っていて、大学でかるた を続けるかどうかは迷っているらしい。山内が、しきりに 続けるよう勧めている。
 「高校時代の部活は、やはりフォー・ザ・チームで、結 構プレッシャーかかっていて、ここ一番で負けてばかりい たんです。山内さんや早水さんに負けたのも、団体戦とか、 個人戦の入賞戦の時ですよね。一・二回戦で対戦した時は、 ぼくが勝ってますよね。ぼくは練習の時、結構強いからレ ギュラーチームに入るんですよね。でも団体戦で負けるも んだから、レギュラーになれなかった連中の手前もあるし、 チームメイトの手前もあるんで、負けたあと猛練習するん です。それで余計強くなるんです。団体戦の要の試合で負 け続けた負い目もあったので、三年になっても練習を続け て、かるた部の中では実力一番と言われてました。それで も、試合では肝腎なところでなかなか勝てない状態が続い ていて、初めてB級の決勝にいったのは、高校最後の先々 週のこの前の学生選手権。もう気楽でしたから。それでも、 決勝というので緊張して、お手つき連発で早水さんに負け たんです。気分的にそんな苦労はもうやめたいっていう感 じなんですよね。」
 「大学は、高校とは違うって。まわりもそんなプレッシ ャーかけたりしないから。だいたいうちは、お前んとこの 高校とは大違いの一チーム組むのが精一杯のところなんだ ぜ。気楽に取ればいいんだって。テニスのほうも楽しんで、 かるたも楽しみたい時に、練習や試合に出ればいいんだか ら。」
 横でこの会話を聞いていたミツオは、強いやつには強い やつなりの苦労があるもんだなと思った。でも、この西寺 ってやつは、これだけプレッシャーに弱いんだったら、大 学受験も第一志望は失敗してここに入ってきたんじゃない だろうかなどとも思ってしまった。 石田が敷島を誘った文 句は「かるた会に入れば、女の子がたくさんいるぞ。」だ ったとか、春日は大の相撲ファンだとか、他にもいろいろ な四方山話をしながら、時間が過ぎる。ここでもやはり、 ミツオは聞き役であった。

 夜の部は、ボーリングで幕を明けた。さすがにレクリエ ーション班四人はうまい。新入生は春日が帰っていってし まったが、五人が参加した。初心者もおり、大体は低レベ ルのスコアだったが、西寺は違った。唯一、レクリエーシ ョン班と伍してプレイしている。何といっても、フォーム がきれいなのだ。これは、やっぱりセンスなのだろう。山 根は初体験だったのだが、彼女もスポーツセンスが優れて いるのだろう、飲み込みがはやく、三ゲームめには良いス コアをあげていた。ミツオと敷島は三ゲームやっても、全 然スコアが伸びなかった。こういう差がかるたでもでてし まうことになるのだろうか?
 次は麻雀である。レクリエーション班と新入生の男で二 卓が囲めた。ミツオは帰りたかったのだが、自分が帰ると 人数が中途半端になるし、ここまでいろいろと奢ってもら っていたこともあり、言い出せなかった。ミツオ以外の新 入生はみんな経験者であったが、ミツオはルールも知らな かった。ミツオは上級生三人と指導卓を組んでもらった。 もう一卓では、西寺が一人勝ちしている。柳田が帰るのを きっかけに、ミツオは帰ることにした。結局、残って徹夜 麻雀していくことになったのは、大仙、黒木、敷島、西寺 である。帰り道、石田に聞いたら、敷島は相当の麻雀好き らしい。市山に言わせると、敷島の麻雀は、積極的に手を 作る麻雀、西寺の麻雀は振り込まない守りの麻雀だそうで ある。市山は、レクリエーション班全員が、偶然一年次に 留年しているという話しもしてくれた。
 「お前らも、留年しないように気をつけろよ。一年の時 に留年すると、親に警戒されて、遊びづらくなるからな。」
 「先輩たち、そんなこと言ってても、今でも、結構遊ん でるんでしょ。」
 「いや、最初の一年の時に比べたら、おとなしくなった よ。今日だって、こうして帰るしな。今度、留年したら、 大学やめる約束させられているんだ。」
 「俺は、役者の仕事が軌道に乗ったら、大学やめちまっ てもいいんだ。」と、柳田。
 「え、先輩、役者しているんですか。」
 「ああ、まあな。こんど映画の仕事が決まったら教えて やるよ。」
   ミツオも、柳田のように大学時代に自分のやりたい道を 見つけたいものだと思った。まあ、その前に留年だけには 気をつけようと気を引き締めるのだった。

 *

 ミツオの大学生活は、こうしてかるたの競技生活ととも に始まった。練習は火曜の五時から八時と水曜の一時から 八時、そして土曜の一時から五時であった。うまい具合に ミツオの授業には重ならない。週九試合分は練習できる。 もちろん、下宿でも近所迷惑にならないように払いの素振 り練習をしていた。
 一方、他の一年生はどうなっていたのだろうか。巨漢の 敷島はすっかり麻雀班になっていた。先の新入生歓迎徹夜 麻雀以来、大仙たちと最終練習で待ち合わせる感じだった。 一応最終回だけは練習するが、札もまだ全部覚えていない ようだ。先の徹夜麻雀でダントツだった西寺は、あれ以来 顔も出さない。石田は、敷島の麻雀には付き合わず、地道 に札を覚えて、練習に励んでいた。身長とリーチと手の大 きさが武器になっており、敵陣を取るのにも、ミツオのよ うに身体のバランスなど考えずとも、一振りといった感じ で取っている。春日あかねは、火曜以外は練習に来ていた。 百人一首を全部覚えている強みで、音別や取り札から決ま り字をいうこととかはすぐに習得した。細い華奢な腕だが、 耳がよいのだろう。払いのスピードというよりは、音に対 する反応――「ひびき」とか「感じ」という――の良さで 札を取っている。手がぶつかると壊しそうで、ミツオはあ かねの手が出てくるとつい遠慮してしまうのだった。山根 志保は、札を覚えるのこそ出遅れたが、珠子のアパートに 泊まり込んで教えてもらったらしい。歌を全部覚えるとい うことをせずに、取り札を見て決まり字までしか覚えない という省エネ特訓で、三日でマスターしたと言っていた。 したがって、二句めや三句めを聞かれても答えられないし、 取り札も文字を読まずに形として認識するという方法を実 践したため、下の句すら正確にいえないままである。彼女 は、あかねと違って、払いのフォームを決めて、身体と手 の動きが見事にマッチしてヒュンヒュン払う感じである。 この身体のバランスの取り方や、払いのセンスは空手とい う型を重視するスポーツの基礎の上にあるのであろう。
 まだ、レギュラー上級生には勝てないが、一年生同士の 対戦では、今のところミツオの成績はトップだった。あか ね以外には前半の暗記の差で、差を開くことができるから だ。その枚差の貯金を食いつぶしつつ何とか僅差のリード でゴールインする。あかねは、正確な暗記で前半から速い ひびきで、ヒョイヒョイ取ってくる。しかし、同系統の音 でのお手つきが多いので、二〜三枚差でついて行ける。そ れと、札が減ってきてからは運動量の差で取り勝ることが できるのだ。ミツオが他の一年生に負けるのは、終盤の肝 のところでお手つきしてしまう場合だった。お手つきの恐 さを早くも身をもって知ったのだった。

 そんなある日、練習が終わると伊能が試合の話を持ち出 してきた。
   「四月二十九日の休日に相鉄と小田急の大和駅から十分 ほど歩いたところで、試合がおこなわれることになってい る。昨日、そこの役員から電話があって、E級があるので、 ぜひ一年生を出してくれと言ってきた。参加費用は千五百 円ほどかかるが、入賞すればそれなりの賞品が貰える。力 試しに出てみないか。」
 「先輩、E級ってどの程度の力があればいいんですか?」
 石田が尋ねた。
 「いわゆる初心者級だ。札を覚えて、競技かるたのルー ルを覚えましたって感じの連中が出てくる。端で見ていて も、今年のうちの一年は、最初から飲み込みが早いし、よ く練習に来ているし、いい線いくと思ってるんだけどな あ。」
 「試合はトーナメントって聞いたんですけど、負けたら それでおしまいですよね。一回戦で負けたら、一試合千五 百円ですよね。しかも、札を五枚しか取れなかったとした ら、札一枚三百円ですよね。」
 敷島の変な計算は、爆笑をかった。
 「最初から、負けることを考えるんじゃない。ここは、 負けてもあとで練習試合をさせてくれることになっている んだ。きみらも自分とこの練習だけで、内弁慶になってな いで、外で揉まれてみるのもいいと思うんだがな。」
 「あとね、私がB級に出るし、瀬崎君もC級に出るの。 みんなで行くのもいいものよ。」
 珠子も誘う。
 「たまには、珠子の応援がてらD級にでも出てみるか。」
 大仙もこんなことを言っている。
 結局、一年生全員のデビュー戦にしようということにな った。優勝したら、その晩は上級生のおごりで喰い放題、 飲み放題というおまけもついた。
 「そうと決まれば、試合までに札を全部覚えるぞ。石田、 下宿帰ったら、教えてくれよな。」
 敷島は、あと一週間もないのに大丈夫だろうか。
 「じゃあ、今日は麻雀のメンツは揃わないな。俺、帰る わ。」
 試合に出るとしたら一年半振りだという大仙はさきに帰 っていった。
 期待と不安が交錯する中、ミツオの胸には、燃える思い が宿っていた。

 *

 デビュー戦の日が来た。勿論、ミツオは練習日には欠か さず出ていたし、下宿でも毎日、払いの練習を続けた。札 の置き方も、上級生に疑問点をぶつけながら工夫を繰り返 した。
 「目先のことを考えず、三年後に役立つと思って稽古す るんだ。」
   ミツオは、敷島が柔道をやっていた時に先輩から教わっ たというこの文句が気に入っていた。
 ミツオは、朝早くに目覚めてしまい、待ち合わせの三十 分前に着いていたが、志保は、待ち合わせに遅れて、珠子 に叱られていた。
 「宮本武蔵の心境よ。」などと言っていたが、
 「登録時間に遅れて、その場にいなかったら、出れない んだからね。ふざけたこと言ってんじゃないわよ。待たせ たみんなにあやまんなさい。」と言われ、シュンとなって いた。
 珠子は珠子で神経が昂ぶっているのだろう。
 試合会場に着くと大仙がすでに来ていた。ふと横を見る と西寺もいる。前日に雀荘でバッタリ出会って、大仙が誘 ったのだそうだ。
 申込みを終えると、着替えにいくもの、知り合いと話し 込むもの、一人で心を鎮めているものなど、試合前の行動 は様々である。行動は様々だが、参加者の目的は一つ、「勝 利」の二文字であろう。
 開会式では、主催者や来賓の挨拶があり、各級の参加登 録人数や試合進行上の注意が説明される。この日は、B級 以下E級までの四クラスで、B級四十三人、C級三十二人、 D級二十七人、そして、ミツオの出るE級は二十一人だそ うだ。したがって、E級の場合は、約半分の十一人が一回 戦不戦勝となる。不戦勝を引いても、四回勝たなければ優 勝できない。説明によるとE級だけは別会場に移らなけれ ばならないということだった。おそらく、初心者が多いた めに進行上、上級者に迷惑がかかることが予測されるのと、 負けても練習試合を組むためといった理由だろう。
 一年生だけで別会場に行くと、不慣れなこともあり少々 心細い。頼りなさそうだが、珠子や瀬崎でもいてくれるだ けで違うものだ。集まった顔ぶれは年寄りと小学生が半数 以上という感じだ。ミツオたちのライバル大学と言われて いる早大からは二人が来ている。役員が対戦カードを切り ながら、「同会同士は当てませんから、カードが出てしま ったら、順にずらしていきます。」と説明していた。
 一回戦、ミツオとあかねと志保は、見事不戦勝、石田は 小学生と敷島は老婦人との対戦となった。
 石田は、小学生に苦戦を続ける。取った取らないでもめ るとどうしても石田の方が大人げない雰囲気になってしま う。そんな中では主張もおかしくなってくる。「僕のほう が手が大きいから、僕の取りだ。」などといって、回りの 失笑をかっている。あげくのはてに「おじさん、手が大き いから自陣の札もさわってるよ。お手つきでしょ。」と言 われ、顔を真っ赤にしている。平静心を欠いては、手が出 なくなる。たまに手を出すとお手つきを繰り返す。結局、 七枚差で負けてしまった。
 敷島も、もめまくっている。相手は七十近いらしいが、 かくしゃくとしたもので、きれいな取りで、敷島を翻弄し ている。もめるのは、敷島が自分の払いが見えていないか らだ。自陣の左の払いなど腹が邪魔で遅いし、相手が出札 から直接いった後の他の札を払っているに自分の取りだな どと言っている。そして、上段札のお手つきをどちらがし たかというもめの時、ついに「ばばあが自陣ひっかけてん だろ!」という暴言を吐き、審判のおじさんに厳重に注意 されてしまった。主催者は、他の進行の迷惑になると判断 したらしく、審判が特別につくことになってしまった。そ の時も審判に「よろしくお願いします。」とお辞儀せずに 注意を受けていた。あとは散々で、手が出ず相手のなすが まま。相手のカラダブを含むお手つき連発などに救われて、 やっと枚数が減るといった感じだった。十枚差でジ・エン ド。
 二人の試合中に伊能と高橋が、おにぎりなどの差し入れ を持って現れた。二人は「やっべー。あいつらに試合中の マナーやもめた時の対処方法を教えてなかったものな。」 と呟いている。
 「小学生だと思って最初からなめてかかって、逆になめ られちまったよ。みんなも気を引き締めていけよ。」
 「畜生、あのくそばばあ。こんど、あたったらただじゃ おかねえからな。」
 「ばかもん。そういう言葉使いをするんじゃない。もっ と謙虚になれ。まず、己れの未熟さを知れ。」
 「はあ、すいませんでした。みんな、俺の分まで頑張っ てくれよな。」
 試合と試合の間に休み時間はない。一回戦最後の試合が 終わるとすぐに対戦が決まり、次の試合が始まる。志保は 女子中学生とあかねはさっきのおばあさんの旦那さんと対 戦が決まった。ミツオはといえば、ライバル校早大の一年 生の立浪とあたった。
 立浪は、速い札はやけに速い。最初の二枚をそれぞれの 陣でむちゃくちゃはやく取られたので焦った。しかし、取 り進むにつれて、遅い時は暗記がはいっていないごとくに 遅く、取りにムラがあることがわかった。ミツオは、むち ゃくちゃ速い取りはなかったが、暗記をしっかりと入れて、 満遍なく札を取る。相手のお手つきにもアシストしてもら い。十二枚差で勝利を得た。嬉しいデビュー戦勝利である。
 あかねは淡々と取っている。どちらかというと守り合い の展開の中、もめることもなく六枚で勝つ。勝ったあとの 微笑みが、可愛らしかった。
 志保は、取りつ取られつの接戦を演じている。結構、攻 めっ気同士の戦いで、札の移動が多い。このころは、札の やりとりが多いと暗記が追いつかなくなる。中盤に来て、 お手の応酬が華々しい。一対一の運命戦をなんと敵陣を抜 いて志保が勝った。
 志保の横では、敷島に勝った老婦人が、立浪の仲間相手 に一枚差で勝った。老人パワー恐るべしである。
 ここで勝った連中は、ベストエイトで入賞である。賞状 と賞品が確定した。
 休む間もなく三回戦の対戦が決まる。今まで負けた人で 希望者は練習も可能というアナウンスがあり、石田と敷島 も取らせてもらえることになった。
 志保もあかねも小学生との対戦が決まる。どうやら今日 の主催会の小学生かるた教室のメンバーらしい。ミツオの 相手は敷島に勝った老人と決まる。先に着座して相手の着 席を待っているが、対戦相手がなかなか来ない。
 「相手が棄権したから、君の不戦勝。」と審判が伝えに 来た。
   「えっ、本当ですか?」
 ミツオは半信半疑である。
 「もうトシだから、身体が動かないって言ってたよ。」
 「そうですか。ありがとうございます。」
 ミツオは、本会場のほうを見に行くことにした。
 本会場では、伊能と高橋が試合を見ていた。
 「あれっ? どうしたの? 勝ってたんじゃなかったっ け?」
 「相手の棄権で不戦勝です。」
 「ミツオ、ちょっと廊下に出よう。」
 試合中なので、話すのにも気を使う。
 「この試合途中の不戦勝っていうのが、くせものなんだ。 この時間の使い方で、がくんと調子が落ちちゃうケースも あるんだ。ひとつの方法は、どこか静かな場所で一人で心 を平静に保っていること。くだらないおしゃべりなどはす るな。もうひとつは、会場で試合の雰囲気の中に身をおい ておくこと。ただし、ひとつの試合を札まで覚えて真剣に 見ちゃうと、取っているより疲れてしまうから、あくまで 試合の雰囲気に身体をならすだけ。いいか、わかったら、 自分の会場に戻れ。」
 高橋のアドバイスである。
 「先輩達は勝ってるんですか?」
 ミツオは、会場に戻ることにしたが、気になっているこ とだけを尋ねた。
 「今は二回戦の終盤だが、みんな勝ち残っているよ。」
 個人競技といっても、こうして仲間の勝利にホッとする ところが同じサークルの連帯感なのだろう。
 ミツオは会場に戻り、詠唱を聞きながら身体を休めた。 するとふと、この詠み手の詠みはH音が聞きづらいなと感 じた。あわてて取りにいってお手つきしないように気をつ けようと思った。
 あかねは、相手のお手つきに乗じて十枚差で余裕の勝利。 志保は、自分のお手つきに苦しみながら、またもや一対一 の運命戦。残っている札は「しの」と「しら」、自陣の「し の」を「し」で払って勝つ。
 ベストフォーに仲間が三人残り、同士討ちが組まれる。 残された一人は石田に勝った小学生と取ることになる。対 戦カードを並べた結果、志保対ミツオ、あかね対小学生と なった。
 志保は自重していた。お手つきを明らかに警戒していて、 音を聞きわけてから手をだしてきていた。ミツオは休んで いたせいか、身体が思うように動かない。何か単調な遅い 試合になってしまった。十枚セームの時、ミツオは動いた。 「おと」の札を下段から上段の中央にあげた。敵陣に「ほ」 がある。詠みの癖を考えて、相手のお手つきを期待する移 動だった。はたして、すぐに出た。「ほととぎす」。しか も、H音が薄い。志保には、変わったばかりの「おと」が インプットされていた。見事お手つき。ミツオは、ゆっく り「ほ」を押さえる。八対十一。この差を最後までキープ して、三枚差で逃げきった。
 一方、あかねは、あのかぼそい身体のどこにこれほどの 力があるのかと思うくらい頑張っている。相手の小学生も 相当疲れているのであろう。集中力が切れているようであ る。暗記の抜けが目立つ。途中、小学生が主張の時にあか ねを「おばさん」と呼ぶ場面があった。しかし、「おばさ んじゃないでしょ。おねえさんでしょ。」というあかねの 真剣な怒りを含んだ低い声に、逆にたじたじとなってしま ったようだ。精神的に優位にたったあかねが、危なげなく 七枚差で勝った。ところが、勝ちはしたものの、勝利を本 部に伝えにいく足取りはふらついていた。
 いよいよ決勝である。決勝戦には審判が最初から付いて いる。それに加え、ギャラリーが結構いる。どちらも緊張 を増す要素である。暗記時間中にミツオは、トイレに立っ た。その途中、廊下で一人目を真っ赤に泣きはらしている 志保を見かけてしまった。見た感じのとおり勝ち気なんだ なと思うとともに、それほどまでに一試合に思い入れるこ とができることをうらやましいと思った。おそらく、ミツ オが負けていたとしても、涙がでるほどの悔しさをはたし て感じたであろうか。感情の起伏の男女の差と言いきって いいものだろうか。試合前に心を乱してしまうミツオだっ た。
 決勝戦が始まった。心の乱れは試合に何の影響も与えな かった。なぜならば、あかねは限界に来ていた。やはり、 あのかぼそい身体である。スタミナが完全に切れていたの だ。練習で対戦する時のあかねではなかった。序盤から、 ミツオが押す展開の中、あかねが勝手にお手つきをしてく れる。あかねには立て直す余力がなかった。なんと二十枚 の大差でゲームセットと相成った。札を裏返して、数の確 認をしていると、あかねの札の裏に染みができている。ポ ツンと落ちてくる水滴だった。あかねの涙である。志保だ けではない。あのおとなしいあかねの中にも、勝利に対す る熱い思いが、存在していたのだ。それは、ふがいない試 合をした自分に対する怒りの涙でもあった。
 札を片づけて、ミツオが本部に勝利の報告の為に立ち上 がった後も、立てないままその場に座り込むあかねであっ た。脇には、志保が寄り添っている。勝利とは、幾人もの 相手の涙を乗り越えてこそつかむことができるものなのか もしれない。そう思った瞬間、ミツオは優勝の重みを実感 した。
 「おめでとう。やったじゃん。」
 「飲み放題、喰い放題のお裾分けよろしく。」
 石田や敷島が祝福に寄ってくる。
 「先輩たちは、どうなってる?」と聞いてみる。
 「大仙さんは、不戦勝、勝ち、負けでベストエイトに入 賞。瀬崎さんは、今、準決勝で負けたところ。佐藤先輩と 西寺は、準決勝進出で、今始まったところだよ。」
 ミツオ達は、応援にいくことにした。その時、あかねが 志保に寄り添われて来た。
 「おめでとう。せっかくの決勝戦、私のせいで凡戦にし てしまってごめんなさい。今度は、決勝戦でも力を出せる ようにスタミナをつけてのぞむから…。」
 蚊の鳴くような声のあかね。
 「私も、今度は負けないわよ。とりあえず、おめでとう。」
 志保は闘志むき出し、元気いっぱいだ。「同期同会に嫌 なライバルをつくっちまったな。さっき泣いていた時は可 愛らしかったのにな。」と心の中で密かに思うミツオだっ た。
 本会場につくと、D級、C級の決勝とB級の準決勝が行 われている。伊能や高橋、瀬崎がミツオを見かけると、「お めでとう。」と小声で言ってくれる。高橋が会の記録帳を 持っているので、見せてもらう。今日の参加者の対戦と枚 差がしっかり記録されている。珠子は、不戦勝のあと、三 枚、二枚、四枚と僅差で勝ち進んでいる。西寺は、十八枚、 十二枚、十五枚、十四枚と相手を寄せ付けない強さで勝っ ている。
 準決勝の相手は、ともに西寺の出身高校の生徒である。 西寺は、この試合もタバ勝ちペースである。珠子の方は、 接戦である。ミツオは西寺の払いのきれいさに感動してい た。華麗なのである。敵陣を攻めに行って、自陣に戻る時、 出札を一枚きれいに真後ろに飛ばすのである。指先の使い 方がきれいだった。敵上段中央の札もきれいに一枚だけ突 く。突いた瞬間に手が構えていた場所に戻って来ているか ら、札だけがスーッと動いたように見える。あっという間 にリーチがかかり、自陣の札が出て試合終了。十六枚差だ った。
 珠子は、一進一退の繰り返し。珠子の真剣な表情は、普 段と違い凛々しく美しい。払いはどちらかというと粗く力 強い。「珠子のあの表情で西寺のような払いができたら、 すごい魅力だよな。色気さえ感じるんじゃないかな。」と ミツオは思う。そして、「珠子の中にも、志保やあかねの 涙の根と同じものがあるに違いない。だから、あれだけ集 中できるし、頑張れるのだ。」とも思う。
 珠子は、三枚対三枚から、二枚を連取された。万事窮す。 敵陣の札が詠まれる。狙っていたかのように払い飛ばす珠 子。
 「よしっ、よく抜いた。」応援も興奮する。
 札を送り、自陣の二枚を右下段に固める。まずは一枚、 自陣を守る。そして、運命戦。札のそばに手を構える珠子。 自陣が出ると確信しているかのようだ。自陣にあった「さ」 の札が出る。
 「やったあ。」外野のほうが興奮している。
 珠子が大会本部に行くと「優勝おめでとうございます。」 と言われる。
 「えっ?」
 「西寺さんは、どっちが勝っても棄権しますと言って、 賞状と賞品持ってお帰りになりましたよ。」
 「ええーっ?」
 「そうか。あいつは準優勝一回持っているから、今度の 準優勝でA級に上がれるんだ。それに、珠子が勝てば大学 の先輩に優勝を譲ることになるし、珠子が負けても高校の 後輩に優勝を譲ってやれるんだ。」
 伊能の解説が入る。
 「それにしても、帰るこたあないよな。何かキザな感じ。」
 敷島が文句を言う。
 ミツオは、きっと今日の西寺には、プレッシャーで緊張 するほどのシチュエーションは一回も来なかったんだろう なと思った。しいてあげるとすれば、決勝の棄権を申し出 る時くらいだったのだろう。そのあとがきっとわずらわし かったんだろう。ミツオには、なぜだか西寺の気持ちがわ かるのだった。

 その晩は、大和駅近くの居酒屋で珠子とミツオの祝勝会 になった。珠子は、A級に上がると名人やクインやその他 の有名選手と対戦できることを喜んでいた。伊能は、団体 戦でA級五人で一チーム組めることを嬉しそうに語ってい た。大仙は、かるた会に入って、初めて入賞して賞状をも らったと喜んでいる。それぞれに楽しそうだった。しかし ながら、ミツオは、志保とあかねの涙を思い出して、彼女 たちの前では心底喜べなかった。
 宴のあとは、徹夜麻雀に行くものと、帰るものとにわか れた。ミツオは帰り組だった。帰りの電車の中では、ホッ としたのか、珠子も志保もあかねも居眠りしている。疲れ てはいたが、感情が昂ぶっていたミツオは、自分の優勝を 噛みしめていた。そしてそれが、偶然の積み重ねの上にあ ることを実感していた。それを世間では、ツキとも「運」 とも言うのだろう。「運も実力の内」というが、本当にそ うなのだろうか。その答えは、ミツオの今後の競技生活の 中で見つかるだろう。
 もはや多数の中に埋没した平凡な目だたない学生生活に 憧れていた入学式の時のミツオは存在しない。ミツオは、 優勝の甘さとほろ苦さを知り、波乱万丈の競技人生への第 一歩を踏み出したのだった。脇で眠るライバルとともに。


  Copyright:Hitoshi Takano

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