札模様  第九章

  十月  ――光と蔭――


   

 漆黒の闇があった。
 暗闇がぼくを包んでいた。
 闇の中をおそるおそる歩き出す。
 前方にうすぼんやりと灯りが見えてきた。
 灯りに近づけば近づくほど、闇の世界が明るくなる。
 ふいに呼ぶ声がする。
 「ミツオ。」
 誰の声だろう。聞き覚えはあるが思い出せない。
 「あと二分だぞ。」
 ふと気付くと、目の前にかるたの札が並んでいる。
 ぼくの定位置だ。
 どうやら、目の前の男とかるたを取ることになっている らしい。見覚えのある顔だが識別できない。
 詠み手はどこにいるのだろう。
 相手の定位置を見る。たしかに覚えのある定位置だ。
 「時間です。」
 突然、詠み手が現れた。
 「難波津に咲くやこの花冬ごもり…。」
 聞き覚えのある声だ。
 「今を春べと咲くやこの花。」
 構える。
 「瀬をはやみ…。」
 自陣の右下段にある。頭は反応している。しかし、まっ たく身体が動かない。自分の身体ではないようだ。相手に ゆっくりと取られてしまう。
 続けて札が詠まれる。カラ札であっても、出札であって も、身体が動かない状況は変わらない。
 動かそうと思っても動かないのだ。
 いつの間にか、相手の持ち札は一枚だけになっていた。 敵陣を攻めなければならない。強迫観念が生じる。
 「ちぎりきな…。」
 敵陣が出た。攻めなければならない。頭ではよくわかっ ている。動かない身体を無理に動かす。ゆっくり、ゆっく りと、身体と手が動き出す。上の句はすでに詠み終わって いる。しかし、何故だか相手は取らないのだ。
 身体に激痛が走る。それでも攻める。遅々とした攻めで はあるが攻める。攻めなければならないのだ。
 何故。
 理由などわからない。でも、攻めなければならないとい うことを感じるのだ。身体の痛みに耐え、あがらない腕を あげ、脂汗を流しながらも敵陣を攻める。
 やっと札に手が届いた。手が札に触れれば取りなのだが、 スローモーション映像のように払いを続ける。札が弱々し く動く。
 やっと払えた。
 「お手つき。」
 「えっ。」
 その札が、いつのまにか「ちぎりおきし」の札に変わっ ている。
 おかしい。
 ついさっきまでは「ちぎりきな」だったのだ。
 嘲りの笑い声が聞こえる。笑いの主は詠み手だ。払いの バランスを崩した体勢から詠み手を見上げる。
 「?!」
 今まで認識できなかった顔がやっとわかった。驚きの中 で、今度は対戦相手の顔を見詰める。対戦相手がニヤリと する。
 「なんで、ぼくが…。」
 自分が詠んで、自分が自分と対戦していたのだ。
 「UWAAA…。」
 叫び声が、無意識のうちに口をついていた。

 「夢か。」
 ミツオは、ふとんから跳ね起きた。脂汗が気持ち悪い。
 「またか。」
 昨年七月の事故以来、よく身体が動かなくなる夢を見た。 それは、夢の世界だけでなかった。事故のあと、右半身が 随分と不自由になっていたのだ。
 根気強いリハビリテーションが必要だった。ミツオは、 休学を決めた。また、就職が内定していた会社には事情を 話して辞退せざるをえなかった。
 歩行訓練、物を掴む訓練、文字を書く訓練など、痛みに 耐えながら、地道に繰り返した。握力を取り戻すために、  ゴムボールを握り続けた。
 そして四月からは、綱島の下宿に戻った。もう一度、今 度こそ最終学年をクリアするために。
 敷島は先に卒業してしまった。熊野や八角にも追い越さ れた。今では古賀と同じ学年なのだ。
 八ヶ月ぶりに、再び札の前に座った時の感動は、ミツオ にとってまさに忘れられないものだった。
 身体が痛かろうが、響きが遅くなっていようが、まがり なりにもこうしてかるたが取れることが、ただ嬉しいのだ。 しかし、札を払うにも以前のようにはいかない。かるたを 取れる喜びとともに、一筋縄ではいかないかるたのリハビ リも始まった。そして、六ヶ月。夢の世界ではうなされな がらも、現実においては、徐々に以前の調子に近づきつつ ある感触を得ていた。

  *

 「ミツオ。前より感じが速くなったんじゃないか。」
 OBの安部との対戦を見ていた高橋が話しかける。
 「音に対する感じだけなら、確かにそうかもしれない な。」
 安部も同じように感じたらしい。
 「そうですか。ぼくは、そうは思わないんですけど…。 でも、見てる札というか、出そうだなって思う札が出る回 数は多くなったような気がします。以前より勘が冴えてい るって気はします。」
 「払いに不自由を感じる分を自然とそういう面が補って いるんじゃないか。」
 「高橋、そんなに都合よくいくもんじゃないだろ。」
 安部があっさりと否定する。高橋は、自分がミツオを近 江神宮に誘ったばかりに事故に遭わせてしまったといまだ に忸怩たる思いを持っている。できれば物事を都合よく考 えたいのだ。
 十月の土曜日の練習には、OBがよく顔を出す。下旬に 行なわれる名人戦の東日本予選に向けての調整のために来 るのだ。横山や敷島も久々に顔を出していた。
 「ミツオは、出場登録しなかったんだって。」
 「ああ、リハビリのために出ましたって大会じゃないだ ろ。なんたって名人戦の予選なんだから。名人を目指す人 間が出るもんだよ。」
 「そう言われるとなあ。仕事が忙しくて練習も満足にで きないで出るなんてのもよくないかな。」
 「敷島、そんなこと気にするなって。名人戦の予選に出 るってことは、名人を目指しているってことだ。たとえ、 今年は駄目でもいつかは名人に挑戦するんだって気持ちが あるんだったら出続けたらいいじゃないか。」
 「高橋さんはなんで出ないんですか。」
 「俺も昔は、A級選手の証として出ているようなところ があったんだけど、結局、名人を狙う力がないって感じち ゃったんだよな。そしたら、そういう人間が出てさ、いた ずらに参加人数を増やしても、迷惑なだけかなって思うよ うになってね。『なんじはかぎれり』って言われちゃうかも しれないけどね。まぐれでも名人を狙える力がついたら、 その時には出場するよ。」
 「敷島、高橋さんはそういうけど、俺は出たい奴が出れ ばいいと思ってるよ。弱くたってなんだって、参加資格さ えあれば、強い人と対戦してみたいって気持ちで出たって いいと思うよ。そういう組み合わせも名人戦予選の一つの 要素なんじゃないかな。とにかく出なければ、まぐれだっ ておきないんだ。」
 「そういう横山さんは、なぜ出るんですか。」
 「名人を目指しているからな。西寺の挑戦は格好良かっ たよ。俺も心底あの舞台にあこがれたね。」
 「西寺は卒業してから予選にさえ出てないですね。」
 「あいつには、あいつの美学があるからな。あいつがそ の気になれば、挑戦者候補の最右翼なのにな。力のあるや つに限って、そういうもんさ。俺には理解できんよ。」
 「そうさ、世の中には理解できないことばかりだよ。西 寺だけじゃない。山根志保しかり、デビッド・スミスしか りだよ。」
 「デビッドか。最近うちの練習に来ないと思ったら、と んでもないやつだよな。帰国を前に論文書くのが忙しいの かと思ってたけどな。全く違うんだから…。」
 「世間話は、もういいですか。そろそろ、次の試合組み ますよ。」
 現会長の前田が、OBの会話に終止符を打った。
 今の現役でA級は、大学院の八角美智代、六年めの佐多 三男と四年生の古賀昇一の三人だった。他の現役に名人戦 予選と言ってもピンと来ないだろう。それよりも、次代を 担う選手を育てることが急務なのだ。団体戦の職域・学生 大会では、ついに一チームしか組めなくなってしまったし、 B級をキープするのがやっとだった。五年めの渡部陽子は、 C級で入賞するようにはなったが、相変わらず気まぐれに しか来ないので出場を計算できない。三年生の前田順一は 会長とはいえいまだにC級だった。遅く始めたことはやは りハンデだったし、他に三年生がいないため会長になって しまったこともプレッシャーになっているようだ。二年生 は北大地と木村嘉重の二人。北に誘われて同郷の木村が一 月から加わった。北は下の句かるたの素地が活きたのかB 級になっていた。四月には、久々に女子の新入生が志願入 会してきた。小林佳子は、鹿児島県出身で競技経験有りの C級選手。知花麻衣子は、沖縄県の産。小林と同じ女子学 生会館に住んでいた関係での付き合い入会だった。九人し かいないが、北は北海道から南は沖縄出身まで広いエリア にまたがっている。地域的には広くとも、来年度のことを 考えると三年生以下に実力がつかないとB級陥落は必至で ある。OBも自分たちの練習ばかりを考えてはいられない。 現役への指導もOBの大切な役割なのだ。
 「じゃあ、現役対OBで組みました。佐多さんはOBチ ームです。」
 前田が対戦を発表する。
 「確かに半分OBみたいなもんだけど、年寄り扱いはす るなよな。」
 ミツオは文句を言うが、入学以来六年めではOB扱いも やむをえない。
 「安部さんと知花、高橋さんと木村、横山さんと北、敷 島さんと小林、佐多さんと私、詠みは古賀さんでお願いし ます。久しぶりの五組ですね。並びはウーソーになります。 人数が多いってのは賑やかでいいなあ。あっ、そこの荷物 片付けましょう」
 前田は、やけに張り切っている。この元気が対戦にも現 れた。払いに勢いがある。攻めが調子よく決まる。波に乗 ると自陣の戻りも速くなる。ミツオは、よく見る夢のよう に身体が動かなくなってしまった。しかし、調子に乗りす ぎたのか前田が決まりを待たずに払う「お手つき」をした。 このミスを境に、ミツオの身体がそれまでの呪縛から解 放されたかのように動き始めた。ミツオ自身も「ホッ」と した。身体が動かないことに無意識の恐れを感じるのだ。 きっとそれは「このまま動けなくなるんじゃないか」とい う病床で感じた恐れなのだ。それに打ち勝とうと無理に攻 めようとすると夢と同じようにお手つきをしてしまう。今 回は、この悪循環に陥る前に相手のお手つきが、回復のき っかけになった。今のミツオに必要なのは、身体のリハビ リよりも心のリハビリなのかもしれない。さて、この試合 ミツオの追い上げも遅きに失した。前半の差を縮めること はできたが、終盤は前田が再度勢いづき三枚差でミツオを 制した。
 「前田。それだけ取れるのにC級で足踏みはないんじゃ ない。」
 「そうですか。」
 「お手つきのあと、手が止まっちゃったけど、あそこで もう一ラッシュかければ、もっと大差で勝っていたんじゃ ないかな。」
 「あのお手つきのあとは、私の手が止まったんじゃなく て、先輩が急に速くなったんですよ。まるで別人でしたよ。」  「そうかな。」
 「そうですよ。ですから、あわてないでじっと狙い札を 絞っていたんです。無理に取りにいってお手つきするより、 じっとがまんして反撃のきっかけを待っていたんですよ。」
 「そうか。そこまで状況判断してたんだ。そりゃあ、た いしたもんだよ。それだけ冷静に取っているなら、すぐに でも上がれるんじゃないかな。」
 「先輩にそう言われると照れちゃうな。まあ、できれば 冬の仙台では結果を出したいですね。」
 他の組もOBが、今の試合について気付いた点をコメン トしている。こうして、後輩は先輩からかるた的思考を学 ぶ。この繰り返しが、会の伝統と歴史を織りなしていくの だった。

  *

 十月十日、体育の日。この日は一年のうちでも晴れの特 異日である。休日でもあり、秋の運動会も各地で行われる。 しかし、日頃、運動不足の人はあまり無理をしないほうが いい。ぎっくり腰や怪我をしては翌日からの活動に支障を きたしてしまう。
 この日も天気は上々であった。この日の主人公らを祝福 するかのように。
 ミツオはJR中央線の阿佐ヶ谷駅にいた。改札を出ると 春日あかねがすでに待っていた。
 「待たせちゃったかな。」
 「待ち合わせ時間の前じゃない。早く来たのはわたしの 勝手よ。」
 「今日のワンピース、良く似合うよ。」
 「そう、ありがとう。ミツオくん、ネクタイ曲がってい るわよ。」
 あかねがミツオの礼服のネクタイをなおす。
 「あ、ありがとう。あんまりしなれないもんだから…。」
 「今年は就職活動しなかったから、ネクタイをする機会 もなかったわけね。」
 「ああ。」
 「さあ、行きましょう。」
 阿佐ヶ谷駅を北口に出て、アーケードを抜けて左に折れ る。ここから七・八分歩くと右側にあると地図に書いてあ る。
 今日は、デビッド・スミスの結婚式だった。
 「あれほど日本文化の勉強って言ってたけど、神社で三 三九度でという具合にはいかなかったようだね。」
 「敬虔なクリスチャンなんでしょう。やっぱり、結婚っ て人生の節目の儀式じゃない。当然、教会になるんじゃな い。日本に来てから毎週通っている教会なんだってね。」
 「へえ、そうだったんだ。お相手の山根には神式が似合 っている感じだけど。」
 「志保ちゃんは、婚約が決まってから、洗礼を受けたの よ。」
 「それは、初耳だよ。じゃあ、マリアとかエリザベート とか名前が付いたんだ。」
 「洗礼名が付くのはカトリックよ。スミスさんの教会は プロテスタント。」
 「へえ、随分と詳しいじゃない。」
 「これでも、小学校から高校までずっとミッションスク ールだったんですからね。」
 「道理で…。でもさあ、意外だったのは、あの山根が国 際結婚だってことだよな。そういうイメージじゃないんだ よな。両親の反対もあったんじゃないかな。」
 「何、古臭いこと言ってるのよ。時代に取り残されるわ よ。志保ちゃんが行ってる千葉有明会の練習で、かるたを 教わっているうちにスミスさんがぞっこんになっちゃった んでしょう。あとは、猛烈にアタック。あの人、本当に日 本文化の勉強に来たのかしらね。お嫁さん探しに来たんじ ゃないかしら。」
 「まあ、いいじゃないか。考えようによっちゃ、それが 一番の日本文化の勉強だよ。」
 「なんか話によると、ミツオくんがスミスさんに千葉有 明会の練習に行くように勧めたって聞いたわよ。」
「たしかに勧めたことは勧めたけど、嫁さん探せとは言 わなかったよ。」
 「なんかスミスさんは、志保ちゃんと知り合えたのはミ ツオくんのお陰だって言っているそうじゃない。」
 「へえ、デビッドそんなこと言ってるんだ。しかし、出 会って一年ちょっとでゴールインだなんて速攻だよな。た しか、日本滞在は一年間の予定だったんだけど。」
 「さあ、きっと滞在予定延ばしたんでしょう。」
 話しながら、歩いているうちに式場の教会に到着した。
 十字架が建物についているわけでもなく、「久遠基督教会」 という小さな看板がなければ見過ごしてしまいそうな教会 だった。
 「キリスト教の教会なのに『久遠』なんて珍しくないか な。久遠っていうと『身延山久遠寺』を思い出しちゃうよ。 仏教系のイメージの名前じゃない。」
 「そうかしら、そういうお寺があるっていうだけの話で、 キリスト教の教会の名前でも違和感ないわよ。」
 会堂の中は外から見るよりも広い感じがしたが、テレビ で見る外国の礼拝堂のように天井が高く荘厳なイメージは なく、フラットな印象であった。長椅子には花やリボンが あしらわれ、結婚式という雰囲気を演出していた。
 「なんか親しみやすい感じだね。」
 「そうね。金ぴかの十字架がついていたり、やたらに装 飾に満ち満ちた教会よりは、ずっとシンプルでいいわね。 教会は建物で入って来る人を圧倒してしまっては駄目よ。 ここのように誰もが自然に入れるようでなくっちゃね。わ たしも教会で式をあげたいな。」
「………。」
 席について待っていると、かるた会の関係者が次々に到 着した。大学関係だけでなく、千葉有明会のメンバーも来 ている。教会員が案内してくれる。次々に着席していく。 親族席も埋まったようだ。
 いよいよである。
 お馴染みの結婚行進曲が流れ、志保が父親にエスコート されてゆっくりと入ってくる。父親は前で待っているデビ ッドに志保をバトンタッチするわけだ。
 讃美歌が唄われ、聖書が読まれる。
 「それゆえ、人はその父と母を離れ、妻と結ばれ、ふた りは一心同体となる。」
 聖書に基づく結婚の意味を牧師が説く。
 誓詞が終わると、牧師が会衆一同に「ただいまよりこの ふたりは夫婦です。」と宣言する。
 ミツオの隣では、あかねが目に涙を浮かべている。
 再び讃美歌。
 「妹背をちぎる家のうち、わが主もともにいたまいて、 父なる神の御旨に成れる祝いのむしろ祝しませ。……。」
 文語調の歌詞が耳に心地よい。
 祝祷ののち、新郎新婦が退場する。父親と入場して来た みちを今度は新郎と退場するのである。娘の背を見送る父 親は、ハンカチを目にあてていた。
 「いやあ、志保ちゃんのウェディングドレス姿、きれい だったねえ。」
 このあとの披露パーティー会場設営の間、別館に集まっ た仲間うちで勝手に盛り上がる。
 「デビッドが長身で、山根が小柄だからすごい身長差だ ろう。デビッドは足並み合わすのに随分苦労していたよう だったな。」
 「デビッドの紋付き羽織り袴姿も見てみたい気がしたけ どな。」
 「貸衣装だと、あれだけの身長用のはさがすのがきつい んじゃないか。だいたい家紋はどうする。」
 「外国人なんだから山根の家の紋でいいんじゃないか。」
 「ここんところ、山根もずっとハッピーなんだよな。試 合であたっても、昔のとげとげしさがなくなったもんな。 すごく丸くなった感じがする。」
 「そうだよな。なんか自分で勝手に切れることもなくな ったんじゃないかな。」
 「まあ、我々同期の結婚第一号だ。よかった。よかった。」
 「第二号はいっぺんにふたりかな?」
敷島の一言に、一同の視線がミツオとあかねに集中する。
 「………。」
 「………。」
 ふたりは、一瞬顔を見合わせたが、すぐに目を伏せてし まった。ミツオは卒業さえしていないし、両親の了解も取 っていないのだ。だいたいミツオはきちんとプロポーズし ていない。まわりの中でだけ勝手に話が進んでいる感じだ。 しばらくすると、披露パーティーの会場の準備も整い、 一同は会堂に戻った。
 さきほどの会堂から、椅子が片付けられ、テーブルと料 理が並び立食パーティーの会場ができあがっていた。若い 人も多いからと、かしこまらないパーティーにしたいとい うふたりの希望のスタイルだった。
 新郎新婦の紹介と、主賓の挨拶は形式どおり行なわれた が、立食形式のせいか手短かにまとめられていた。スピー チする側もふたりの意図を充分汲んでくれたようだった。 立食パーティーは新郎新婦が身近に挨拶してまわれるので、 若い世代の評判は概ねよかった。
 「おめでとう。」
 「おめでとう。」
 ふたりが来るところ、祝福の嵐である。
 「あかねちゃん、来てくれてありがとう。」
 「よかったわね。このパーティー形式、志保ちゃんのア イディアでしょう。」
 「うん。彼ったら、式だけでいいなんて言うから、あた しがそれじゃだめって言ってね。随分、話し合ったのよ。」
 「御両親はどうだった。」
 「彼のほうはいいのよ。アメリカンだから、自分たちで 好きなようにやればって感じでしょ。うちのほうも国際結 婚にはそう反対されなかったから、いいかなって思ってい たけど、披露宴のほうは駄目。新婚旅行から帰ったら、田 舎でもう一回、ホテルで世間風の披露宴よ。」
 「そう、それも仕方ないわね。でも、また、ウェディン グドレス着れていいじゃない。」
 「今度は、角隠しの白無垢よ。和風で出て来てお色直し で洋風ね。」
 「楽しそうじゃない。写真できたら見せてよね。」
 「うん。」
 ミツオのほうはデビッドと話していた。
 「会堂はいろいろな使われ方をするんですね。様変わり に驚きました。でも、結婚式場の時もパーティー会場の時 もどちらもいいですね。」
 「サンキュー。ここの教会の人たち、いろいろ準備して くれました。皆さんに感謝しています。それよりも志保さ んと出会えたのはミツオのお陰です。本当にありがとうご ざいます。」
 「いやあ、そんな。お礼なら、ミスター・オオイカリに 言ってくださいよ。ミスター・オオイカリがユーのところ にホームステイしなかったら出会いはなかったでしょう。 それにミスター・ダイセンと会ったこともラッキーだった んじゃないですか。」
 「そうですね。でも、日本に来てからは、ミツオと知り 合えたお陰です、ミツオが事故に遭った時は悲しかったで す。でも、元気になってよかった。ミツオは、よくしてく れました。ありがとう。サンキュー。」
 「こちらこそ。」
 「ミツオ。」
 「やあ、志保ちゃんおめでとう。」
 「ありがとう。サンキュー。」
 「きみまでデビッドの真似することないじゃないか。」
 「口癖ってうつっちゃうのよ。それより、事故は大変だ ったわね。事故直後は生命も危ぶまれたんでしょう。もう すっかりいいみたいね。」
 「ああ、意識不明で三日間も寝込んでいたそうだ。でも、 こうしていられるんだからよかったよ。まあ、回復率は八 十五パーセントくらいかな。」
 「そうね。あなたの生命はきっと神様に守られたのよ。」
 「きみの口から神様なんて単語が出てくるのって意外な 感じだよね。でも、洗礼受けたんだからおかしくないか。」
 「何言ってるのよ。」
 「さっきみんなと話していたんだ。志保ちゃん、かるた を取る時にとげとげしくなくなったって。最近切れること もないって。それって、洗礼と関係あるのかな。」
 「べつに関係ないけどね。どっちかって言うとデビッド とは関係あるかな。」
 「どういうふうに。」
 「デビッドにかるたを取る時の心構えを話していた時に ね。『とにかく勝つんだ、勝たなきゃだめだって自分に言い 聞かせるのよ。勝つためにあらゆる手段を尽くすのよ。相 手をこてんぱんにやっつけるのよ。』なんてことをあたしが 言ったのよ。そしたらね、彼は、それはつらいことだって 言うの。」
 「へえ。」
 「彼はね、試合の前に神に祈るんだって、『この試合が相 手と自分にとって益となるように』って。そして『神が願 うならば勝利を与えてください』って。」
 「へえ、そうなんだ。」
 「その話を聞いたらね、今までの勝ちたいっていう思い というか、勝たなきゃいけないんだっていう猛烈な意識か らね、ふっと解放された感じになってね。」
 「感じになって。それから。」
 「それだけよ。肩の力が抜けたっていうのかな。勝ち負 けは天が決めるっていうか、自分は努力するだけって割り 切れちゃったの。『人事を尽くして天命を待つ』ってやつか しら。いくら勝ちたいって願ったって、願ったから勝てる ってもんじゃないでしょ。ミツオが事故のあと意識が戻っ たのも、別にミツオの意志の力ではないと思うの。あたし たちは、生かされているから生きているのよ。」
 「うーん。よくわからないけど、雰囲気はわかる気がす る。」
 「デビッドの物の考え方の基準であり、心の支えとなっ ているキリスト教という信仰に興味を持ったのは、そのあ とだったわ。それからよね。彼のアタックに応えてデート するようになったのは。」
 「それは、それは、ごちそうさま。」
 ミツオは、志保の変貌に内心驚いていた。がむしゃらに 勝利という二文字に突き進んでいた彼女、頑固なまでに自 分の我を押し通そうとする彼女、偏屈ともいえる彼女はも ういなかった。
 パーティーでは、ほのぼのとした時がゆったりと流れて いた。この日の参加者は、ふたりの幸せのお裾分けに与か ったのだ。幸せはふたりだけのものではなかった。

  *

 「明日も仕事あるし、さきに帰るね。」
 「ええっ。もう帰っちゃうの。」
 「送っていくよ。」
 「いいわよ。ふたりとも、飲み足りないんでしょう。ご ゆっくり。」
 「そうかい。じゃあ、気をつけて。」
 「じゃ、さよなら。」
 あかねは、帰っていった。
 デビッドと志保の結婚披露パーティーのあとの、勝手に 開いた三次会だった。東急東横線を利用する三人が二次会 のあとに渋谷で寄り道しただけなのだが…。
 ミツオと敷島が、ふたりで飲むのは久しぶりのことだっ た。
 「敷島さあ、職場の人の結婚式に出たことある。」
 「勤め始めて七ヶ月めだぜ。まだないよ。」
 「ふーん。」
 「でも、職場の先輩の結婚式の二次会には行った。」
 「やっぱり、職場結婚。」
 「うん。総務課の可愛い女の子。俺もさあ、用もないの にその子と話しをするために用事を作って総務に行ったり してたよ。」
 「じゃあ、ショックだった?」
 「別に。今日のほうがショックかな。」
 「えっ。山根のこと?」
 「俺のことはともかくさ、お前のほうがショックだった んじゃないのかよ。」
 「そんなことあるかよ。山根の結婚が決まってから、あ かねちゃんが明るくなってね。彼女の明るい顔見ただろ。 ホッとしたよ。」
 「いいや、違う。お前は山根に好かれていた。そのこと に気付いていながらも春日を選んだんだ。でも、山根はそ れでもお前が好きだった。だから、あいつはうちをやめて 有明会に移籍したんだ。お前と春日を見ているのはつらい からな。」
 「まあ、まわりにもバレバレだったかもしれないな。で も、今まで、誰も面と向かってそんなことは言わなかった けどね。」
 「勘のいいやつなら、すぐわかるさ。でも、お前が悪い のは、山根に好かれ続けていたことだ。会は変わったが、 常にお前は、その環境の中にいて、それを当たり前のこと としていたんだ。春日はホッとしたかもしれないが、お前 は、自分を好いてくれていた一人の女性を失ったんだ。シ ョックじゃないわけがない。」
 「変な理屈だな。ぼくは、彼女が結婚して嬉しいよ。」
 「いいや、それは理性のなせる発言だ。もっと飲んで酔 って本音をはけ。」
 「敷島、酔ってるのかよ。」
 「酔ってなんかないよ。なぜ山根はお前のことを好きに なったんだろう。俺にはわからない。」
 「ぼくだってわからないよ。」
 「言っちゃ悪いけど、入学した時から、春日より山根の ほうが断然可愛かった。春日はガリガリだけど、山根は小 柄でも出るとこ出てるし、女を感じさせる体型だ。顔も可 愛い。最初は性格も良かった。勝敗を離れれば、とっても フランクに話せるやつだ。でも、春日は無口でとっつきに くい。ありゃ、人見知りするタイプだ。だんだん地が出て きたけどな。お前だってそう思ったはずだ。正直に答えろ。」
 「ああ、確かにそうだった。第一印象は、絶対に志保。 付き合いたいなと思ったこともあった。」
 「呼び方が志保になったな。そうだろうな、絶対志保ち ゃんがいい。あいつも俺たちの思いを感じていたはずだ。 実は石田もそうだった。石田は珠子先輩も好きだったんだ けどな。まあ、それはいい。志保ちゃんは勘が鋭い。自分 に秋波を送ってくる男の中から、お前を選んだ。」
 「秋波って女が男に送るもんじゃなかったっけ。まあ、 いいや。でも、そんなふうにぼくを選んだなんてことはな いんじゃない。対し方も全く普通だった。試合になるとム キにはなってきたけど。あの勝ち気にはまいったよ。」
 「お前の罪は、その鈍感さだ。志保ちゃんは確かに勝ち 気だし、勝負にこだわる。でもな、お前に気があるから、 余計にムキになったところもあったんだ。それは自分に振 り返ってほしかったからだ。彼女のわけのわからん行動の 大半は、お前の注意を引くためのものだ。これに気付いて ないとしたら、お前は超鈍感だ。それを春日とくっつきや がって。」
 「あかねはいいやつだ。あかねと付き合えるようになっ たのは成り行きってとこもあったけどな。志保が本当に変 わったのは、ぼくとあかねが付き合い出してからじゃない かな。ぼくへのちょっかいは、むしろあかねに対するライ バル意識じゃなかったのかな。それよりもそういうお前は、 志保に告白したことがあったのかよ。」
 「彼女のお前に対する気持ちが見え見えなのにできるか よ。ただ一度だけ、うちの会をやめたあと、付き合ってく れるよう言ったことがある。」
 「で、どうだった。」
 「今は、特定の男と付き合う気はないと言われたよ。そ んな俺の気も知らないで、お前は彼女の職域の出場を言い 出すしよ。」
 「じゃあ、反対すりゃよかったじゃないか。」
 「できるわけないだろ。うちの会の窮地は俺にもよくわ かっているんだから。とにかくお前はけしからんやつだ。 あんな外人に志保ちゃんを取られたのもお前のせいだ。余 計なことしやがって。」
 「ぼくはただ、練習先を教えてだけだよ。デビッドのこ とで文句言うなら、大碇さんか大仙さんに言ってよ。」
 「それが言えないから、お前にあたってるんだ。」
 「わかったよ。ごめんよ。」
 「謝ってすむ問題じゃないだろ。」
 ミツオは酔っ払いの言うことと聞き流し始めた。敷島の 言うことはだんだん支離滅裂になっていく。
 「敷島、そろそろお開きにしようぜ。」
 「ほっといてくれ。俺はまだ飲む。帰りたければさっさ と帰れば。」
 「ああ、じゃあ、帰るから。金はここに置いてくぞ。」
 「あばよ。」
 「じゃあな。」
 ミツオは店を出た。
 帰りの東横線の中、敷島の話を思い出していた。
 「たしかに、本音を言えば、志保の結婚はショックだっ たよ。でもなぜなんだろう。ぼくには、あかねがいるのに。 世の中から、また一人独身女性が減ってしまったことは悲 しいことだけど…。ヘヘッ、何言ってんだ。少し酔ってる かな。」
 「いや、やっぱり、ぼくは志保が好きだったのかもしれ ない。本当は愛してた?」
 「そんなこたあ、ない。志保のことは気になってただけ なんだ。春日あかねが好きだ。彼女を愛しているんだ。」
 「でも、どっちが好き?」
 「どっちも好き。」
 「ふたりとも愛している?」
 「愛しかたが違うだけ。」
 「でも…。」
 「でも?」
 「……」
 「…」
 自問自答の中で、酒の酔いもまわってきたのだろう。ミ ツオは眠っていた。気がついた時、電車は東白楽を白楽に 向かって走っていた。乗り過ごした上に折り返しまでして いたのだ。寝過ごしたことに気がつくと、やけに恥ずかし かった。
 この時、ミツオの脳裏に、ふと春日あかねの顔が浮かん でいた。それはただ、澄みきって、優しさに満ちた表情だ った。

  *

 志保とデビッドの結婚式から一週間あまりが過ぎた。ふ たりは、まだ新婚旅行から帰ってきていない。志保がいな いので、クイン戦予選はいつもより静かなことだろう。こ の日は、名人戦とクイン戦の予選の日なのだ。昨晩から降 る雨は、いっこうにやむ気配がない。淀んだ空のもと、ミ ツオはあかねとともに営団地下鉄丸の内線の茗荷谷駅から、 大塚にあるかるた記念会館に向かって歩いていた。
 ふたりは出場するわけではない。会の仲間の応援である。 あかねにとってはせっかくの休日なのにかるたの観戦とい うのも味気ないが、ミツオと一緒にいられればなんでもよ いのかもしれない。おそらく一回戦の途中くらいだろう。 二回戦から行ったのでは応援にならない可能性もある。今 日の予選で勝ち残った者が、東日本の代表として、来月に 西日本の代表と三番勝負をするのだ。西日本予選は、やは り本日、近江神宮で行われている。東西決戦三番勝負を制 した選手が、挑戦者として一月に行なわれる名人戦・クイ ン戦に出場する。名人・クインまでは長い道程なのだ。
 現行の制度では、予選はトーナメント戦なので一敗もで きない。このため、時としてニューフェースが新星のごと く現れてくることもありえる。一部には、名人戦・クイン 戦の挑戦者リーグを設けてはどうかという声もある。いず れにしても各選手は、この日を目指して調整してきたのだ。 ミツオの属する大学のかるた会からは、安部、横山、敷 島、熊野、古賀の五人がエントリーしている。熊野もジン クスを破れず、A級に上がれたのは卒業間際だった。した がって、名人戦予選は初出場である。最近は練習不足だが、 A級にあがって名人戦予選に出るというのが夢の一つだっ たそうである。はたして納得のいく結果は出るだろうか。 クイン戦のほうには八角が出ている。あかねはどちらかと いうと高校からの後輩である彼女の応援に来たと言ったほ うがよいだろう。
 会場に到着すると、試合場の外でたむろしている八角、 古賀、横山の三人がすぐに目についた。
 「不戦勝は三人なんだ。」
 「ええ、二十八分の四のうちの一つと、五十一分の十三 のうちの二つを引いたんですから、まあいい引きと言って いいでしょう。」
 古賀が解説する。
 「美智代ちゃん不戦引けてよかったね。」
 「私はどっちでもよかったんですけど…。」
 「よくクイン戦予選に出る気になったわよね。わたしび っくりしちゃった。」
 「あかね先輩、そんなんじゃないんですよ。聞いてくだ さいよ。私はまったく出る気なんてなかったんですよ。で も、前田くんが何を考えたか勝手に申し込んでいたんです。 断わろうと思ったら、うちの会からクイン戦予選に出るの は私だけだからって聞かされて…。それで、しかたないの で会の代表のつもりで出ることにしたんですよ。」
 「まあ、会の名前を背負ってるのね。頑張るのよ。わた しは、美智代ちゃんの応援に来たんだからね。」
 「えっ、俺の応援じゃなかったんですか。」
 「古賀くんも、横山さんもがんばってくださいね。よか ったら、召し上がって。ちょっと早いかしら。」
 あかねは、おにぎりを握ってきたのだ。
 「一試合取ってからいただきます。」
 八角はともかく、古賀でさえさすがに、まだ食べない。 多少緊張しているようだ。大学一年でA級優勝を経験して のち、遠征はあまりしないが、二度の優勝を含め入賞多数 の実績が、東日本代表の座を意識させているのだろう。
 「ミツオさあ、五十一人中東大が何人出てると思う。」
 「えっ、最近地方の大会にもまめに出向いて行って、A 級を量産してますからね。きっと多いんでしょう。二十人 くらいですか。」
 「いい線いってる。二十一人だよ。四割を越えてるんだ。 しかも不戦勝十三のうち八人を東大が引いた。これも強い。 まあ、練習不足のOBから、A級ではまだまだ力不足の選 手まで東大所属の全A級が出ているって感じなんだけど、 これだけ出ると有力選手同士の早い回でのつぶし合いの可 能性が低くなるんだよな。東大は不戦が多いから、次あた りは、東大とあたりそうだな。下手すると勝っても勝って も東大かもしれない。」
 「同一会でたくさん出るっていうのは、必ずしも援護射 撃にならない場合があるんですよね。横山さん、あたりな ど気にせず頑張ってくださいよ。」
 「ああ、たしかにそうなんだけど、どうもあのデリカシ ーのない攻めかるたには、馴染めないんだよ。勝っても消 耗しちゃうんだよな。まあ、人にもよるんで一括りにそん なこと言っちゃ、気を悪くするやつもいるかもしれないけ ど。」
 横山も結構ナーバスになっているようだ。だいたい決ま ってもいない対戦をあれこれ考えても仕方がない。取りあ えず決まった対戦相手に全力を尽くすだけだ。下手に不戦 勝などという考える時間を与えられたのは、横山にとって は余計なことだったかもしれない。
 さて、一回戦も、勝負がつき始めてきた。会場から選手 が出てくる。しばらくして、敷島が戻ってきた。
 「だめだ。元名人はさすがに強い。十四対十四から、十 四枚差で負けた。」
 「そっから、一枚も取れなかったのかよ。」
 「いや二枚は取ったが、二度お手つきした。」
 「残念だったな。」
 「ああ、ちくしょう。情けない。」
 敷島が悔しがっていると、安部が戻ってきた。
 「どうでした。」
 「だめ。九枚。」
 安部はこれだけ言うと、どこかに行ってしまった。 会場の覗き窓から中を覗くと、随分と組数も減っていた。
 熊野は東大のOBの藍沢相手に接戦を演じていた。
 熊野二枚、藍沢三枚から、熊野が敵陣を抜いてリーチを かけた。藍沢は三枚を右下段に固める。攻める熊野。しか し、藍沢の守りが阻む。ついに一対一である。双方に守り がミエミエである。札運勝負。
熊野が会場から出てきた。
 「あら、佐多さん、来てたんですか。見られちゃったか な。敵陣抜いて、送った札が九十九枚め。自陣に残した札 が百枚めじゃ、洒落になりませんよ。勝負弱い。」
 「そうだよな。普通は、自分の送りを信じて守るよな。 まあ、残念だったな。」
 「まあ、練習してないわりには、よく取れたほうですか ね。」
 「藍沢さんが始めた時は、東大もふたりしかいなかった んだろう。それが今じゃ、名人戦予選に二十人以上出てる んだから、大したもんだよな。後輩に負けられないと頑張 ってるんだろうな。」
 「そうですかね。結構、淡々と取ってましたよ。」
 「まあ、後輩たちと違って、ファイトを表に出すほうじ ゃないからな。」
 「あっ、春日先輩。こんにちは。おにぎり作ってきてく れたんですか。ありがとうございます。いただきます。」
熊野は、話の途中でも食べ物のほうに目がいってしまっ た。ミツオも一緒におにぎりを頬張った。
 その間にも、二回戦の組み合わせが決まっていった。人 海戦術の東大は、不戦八人に加え、一回戦を取った十三人 の内八人が勝ち残っていた。三十二人十六組は、東大対そ の他の組み合わせになった。万一、ここで東大勢全員が勝 てば、そのあとの対戦が行なわれないまま、東日本代表が 決まる可能性もあるのだ。まさに、赤門旋風おそるべしで ある。
 一方、クイン戦予選は、十六人八組。八角の相手は、盛 岡の古豪だ。往年は、名選手として活躍したが、今では五 十を越えていて、久々の東京の大会だということだ。さき ほどは不戦を引いて勝ち残っていた。不戦勝を引くと対戦 カードが一箇所にまとめられて置かれているので、次の対 戦を決める時に充分に札が切れていないと、あたりやすく なるのだ。
 試合が始まる。応援と言っても組数が多いので、試合会 場内には入らず、たまに覗き窓から経過を覗く程度だった。
 「よおっ。どんな具合だ。」
 雨が上がったので、あかねと外で一息入れていると高橋 がやって来た。会場の建物にいると、どうしても詠みの声 が洩れてくるので、競技者の性で下の句の余韻に入ると息 を殺してしまう。それだけ神経を張り詰めているわけで、 ギャラリーとしては少々緊張を解きたくなるのだ。
 「うちは、一回戦不戦勝の三人だけが勝ち残っていま す。」
 「そうか。やっぱり、そう甘いもんじゃないよな。で、 誰が残ってんの。」
 「横山さんに、古賀と八角。」
 「ちょっと中を覗いてくるわ。」
 高橋も最近は、出場しないで応援にだけ来ることが多く なったようだ。
 ミツオが外であかねと話し込んでいると、古賀と横山が 出てきた。
 「雨があがってよかった。」
 「その顔は勝ったんだろ。接戦になったら、終盤を見に 行こうと思っていたんだけど。」
 「俺が十六枚。横山さんが十三枚です。調子いいですよ。」
 「そりゃよかった。で、東大は何人くらい勝てそうです か。」
 「半分は負けだな。三組は確実に勝ち。あとは接戦って とこかな。俺の予想だと、東大勢不調と見た。ズバリ五人 に減るな。」
 横山は、緒戦に勝って機嫌がよさそうだった。
 「ミツオくん、美智代ちゃん見に行こうよ。」
あかねに誘われるまま、組数の減った試合会場に入って いった。
 八角は、五枚ほどリードしていた。出場にはあまり乗り 気ではなかったが、取り始めると競技者の血が燃えるよう だ。敵陣を抜いて、「入りました。」とすかさず相手にアピ ールする。調子も良さそうだ。結局五枚差のまま押し切っ た。準々決勝進出である。
 「美智代ちゃんすごいじゃない。」
 「一つ勝てて良かった。ホッとしました。」
 「次も頑張ってね。」
 「残ってる人たち見てくださいよ。みんな有名人じゃな いですか。私だけ浮いてるみたい。」
 「そんなこと言わないの。今日の活躍で有名人の仲間入 りのチャンスよ。」
 「また、冗談言って。」
 八角は、あかねのおにぎりを半分だけ食べて、次の試合 に備えた。
 名人戦予選二回戦が終わった。東大勢は意外にも四人に 減っていた。OBの藍沢と斎藤、大学院の真田、学部四年 の沢村である。横山の形勢判断で接戦と見た五組の中で勝 利を物にできたのは藍沢だけだった。藍沢は、この試合も 一・一を制したのだった。この日の藍沢にはツキがあるよ うだ。
 いよいよベストエイトを目前にした三回戦である。横山 の相手は、「選手権男」と仇名される有名選手だった。全日 本選手権は、名人戦、選抜戦と並ぶ優勝のステイタスの高 い大会である。この大会での優勝二回をはじめとし、常に 印象に残る鮮烈なゲームを展開するところからつけられた 仇名なのだ。横山にしても、入賞戦とも言われるベストエ イト前の一戦では高勝率を誇る。一方、古賀は「荒法師」 と異名を取る強豪と対戦が組まれた。剃髪している風貌も さりながら、職業が寺の住職なのだ。若い頃は、優勝争い の常連だったのだが、六十近い今では、名人戦の予選にし か出場しないらしい。一・二回戦であたると交通事故と言 われる相手だ。優勝候補と目される若手であっても一蹴さ れてしまう。ただ、試合を重ねると、持病が出て調子を落 とすと噂されている。寺に入るまで治らないから、「やまい だれに寺」と書く病気である。住職ですでに寺に入ってい るのに治らないわけだから、漢字起源の伝承もあてにはな らない。他の対戦でも、東大勢の崩壊により、有力と目さ れる選手同士の対戦が見られるようになってきた。優勝も 多く、その実力を広く認められている早大のエース沢木は、 復位を目指す前名人と対戦している。準名人三回、東日本 代表五回の蓮沼八段は、過去に名人戦の舞台で自分の挑戦 を退けた元名人とあたっている。十数年前ならば、落語で 言えばとりの高座、相撲で言えば千秋楽結びの一番、プロ レスで言えば本日のメインイベントのカードである。それ が、東日本予選の三回戦である。栄枯盛衰は世のならいと は言え、時の流れを感じざるをえない。
 目をクイン戦予選に転じるとこちらは準々決勝。八角以 外はみなA級優勝経験を持つ選手ばかりである。八角は、 最近めきめきと力をつけてきた中学生との対戦だった。と にかく速い。八角は完全に感じ負けしていた。決まり字の 短い札は取れそうにないので、決まりの長い札を狙うこと にした。「短い札を相手のスピードに合わせて取りに行くと、 こちらがお手をしてしまう。これだけスピードの差を見せ つけられたら、仕方ないわ。私は負けて元々なんだから、 みっともない試合だけは避けるようにがんばりましょう。」 相手に、しょっぱなから九枚連取されて、美智代は開き直 った。
 「うしとみしよぞいまはこひしき…。なげけとて…。」
 この詠みで事件が起きた。「ながら」を取った勢いで、八 角陣の「ながか」を払った相手が、なんと自陣の「なげき」 も払ってくれたのだ。「カラダブ」である。二十五対十六が、 二十三対十八に縮まった。これで相手は、平静心を失った ようである。続く、「すみのえの」の一字を自陣の「さ」を さわってから敵陣で取る「取り損」。そのあとの「うら」で、 敵陣の「うか」をさわって、自陣を相手に取られる「ダブ」 とお手つき三連発で、一挙に二十対十九の一枚差に迫られ てしまった。こうなると慎重にならざるをえない。相手が 札への感じの速さをセーブしてきたところで、八角の遅い ながらも正確な攻めが決まる。八角が札を取り出して、十 五対十五と並ばれたところで、「うかりける」が詠まれ、自 陣の「ふくからに」をさわってしまう「セミダブ」。十三対 十六。八角からすると、相手の持ち札が十六枚の時、九枚 差で負けていたのが、いつの間にか三枚差でリードしてい る感じだった。八角が気付くと相手は、目の涙を拭いなが ら構えている。相手の平常心はどっかに飛んでいってしま ったようだ。再び札への感じのままに取り始める。お手つ きもするが、札の決まりも短くなってきており、お手をし た分を取りでカバーしていた。八角も狙いをしぼって、ス ピード負けしないように地道に攻める。結局、終わってみ ると、八角は「トモオテ」一回のみ、相手は、「カラダブ」 「ダブ」「セミダブ」「トリゾン」「トモオテ」「自陣オテ」 「敵陣オテ」というお手つきのグランドスラムを含む九回 のお手つきだった。二枚差で勝った八角の取り数は、十六 枚、相手の取り数のなんと二分の一で済んでいた。
 元クインと、準クイン、元準クインというビッグネーム が勝ち残る中、無名のA級選手の八角美智代が準決勝進出 を決めたのだった。
 名人戦予選は、準々決勝の顔ぶれが出揃った。
 本日三度めの運命戦を制した東大OBの藍沢に対するは、 前名人のスパーリングパートナーとして秘めた力を持つ東 京白雪会所属の亀山。茶の長髪を頭のうしろで結んでいる 東大大学院生の真田に対するは、準名人三回を誇る東京不 動会の火の玉ファイター蓮沼。東大史上最速と言われる東 大四年の沢村に対するは、四位の常連のイメージを打破し たい慶大OBの横山。最後は、早慶の両エース、沢木と古 賀の対戦である。蓮沼が四十代、亀山が三十代、残りは皆 二十代である。かるた歴の面も含めて新旧交代の様相を呈 している。肉体的運動能力の点では、若い方がたしかに有 利かもしれない。しかし、それだけが決め手でないところ にも、競技かるたの醍醐味がある。応援のミツオたちも今 度は、最初から会場に入って観戦している。どの試合も白 熱したゲームになるだろう。観客の期待も、会場全体のテ ンションを上げていた。
 どの試合も期待通りの熱戦である。追いつ追われつ、五 枚の差が開くところなどない。いや、元クインの吉山と取 っている八角だけが例外だった。今では移籍してしまった が、吉山は慶大OBである。八角も少し上のOBが、吉山 から「そんなかるたじゃ慶大の恥よ!」と叱られたという 話をよく聞かされていた。緊張して、懸命に取る。叱られ たくないという思いが、かるたに集中力を与えた。
 「かわったかるただけど、なかなかよく取るじゃない。」
 五枚差で負けたものの、終わってからの吉山のこの言葉 で八角はホッと一息ついた。
 「ありがとうございました。」
 こわくて「がんばってください」の一言が言えないまま、 八角は他の熱戦を尻目に、そそくさとその場から立ち去っ たのだった。
 他の五試合は、まず、古賀が沢木を四枚でくだした。古 賀は、沢木に滅法強い。沢木の大会での活躍を見ると意外 なほどである。相性というか取り口が合うのだろう。古賀 が、一部で沢木キラーと呼ばれるのも、沢木の強さが世間 に認められているからこそなのである。続いて、三枚差で 二年連続挑戦を目指す準クインが元準クインを屠った。ク インとして防衛するより、連続して挑戦者になるほうが難 しいといわれているのも、この予選トーナメントでは一敗 もできないからなのだ。
 残るは、三組。最初に力尽きたのは、横山だった。二対 一で、相手の一枚を攻めきることができなかった。藍沢は 本日四度めの一・一。同会の真田とは違う札を残している。 下の句が詠まれる。二人とも露骨に守っていることが見て とれる。余韻のあとの一音。勝利の女神は、真田に微笑ん だ。しかし、真田は、額に脂汗を浮かべながら青い顔をし てその場に倒れてしまった。終盤で手がぶつかった拍子に 指を骨折してしまったらしい。こらえていた痛みが、試合 が終わってホッとしたのと同時に襲ってきたようだ。
 「このくらい平気です。次も取ります。」
 必死で痛みをこらえながらも主張する。やっとの思いで ここまで来たのだから、棄権などしたくはない。
 本日の五試合め、クイン戦予選決勝と名人戦予選準決勝 である。準決勝は、対東大かるた会となった。亀山対沢村、 古賀対真田である。札を並べ始める。真田も札を並べよう とするが、痛みのせいなのか思うように札を置けない。と、 突然顔から血の気がサアーッと引いて倒れてしまった。痛 みのあまり貧血を起こしたようだ。
 「取れますよ。取らせてください。」
 うめくように呟くが、誰の目にも無理なのは明らかだっ た。すぐに治療しないと指が曲がったままになってしまう 心配もあった。なだめる仲間たちに会場の外に連れていか れる。しばらくして、正式に棄権の連絡が入った。真田は 整形外科に行くことになったからだった。古賀は戦わずし て決勝に進出した。
 試合の間、古賀は試合会場の外にいた。中にいると詠み のたびに神経がはりつめ、休まらないからだ。六試合の長 丁場、一試合めの不戦勝もラッキーだったが、五試合めの ここで休めるのも大きい。こういう時にヘッドホンステレ オでカセットの音楽に耳を傾け、セルフコンセントレーシ ョンをはかる選手もいるが、古賀の芸風ではなかった。集 中力を高めるどころか、今までの試合のことなどを振り返 ってしまうからだ。どうしても自分のミスを後悔し、余計 な札が頭に残ってしまうのだ。一人でいるのも同じことだ。 眠ってしまうと頭と身体がクリアに働くまでに時間がかか りすぎる。結局、気をまぎらわすために応援のミツオたち と四方山話をすることになる。かるたの話より軽い世間話 がいい。今までの試合の札のデータは消去しておかないと、 お手つきの原因になってしまう。こうして決勝を待つ身は つらかった。
 短いようで長く、長いようで短い第五試合が終わった。 ずっと見ていた高橋の話では、名人戦予選準決勝は、亀山 が沢村のスピードを封じて勝ったということだった。クイ ン戦予選決勝については、ただ一言、吉山の貫禄勝ちとい うコメントがあった。
 「よしっ。」
 古賀は気合とともに軽く体操を始めた。しばらく休んで いた筋肉をほぐすためだ。いよいよ大一番が始まる。大勢 の注目がこの一戦に集まっていた。
 亀山は、一回戦からここまで五試合、着物に袴で取り続 けてきた。といっても、亀山は試合の時はいつも着物なの で違和感はない。着物で取られると対戦相手のほうが、そ れだけで雰囲気に呑まれてしまうことがあるが、古賀くら いに試合慣れしている選手にはそれも関係ない。過去の対 戦成績は古賀の一勝〇敗である。
 序歌に続いて、「はるす」が詠まれる。「はるす」「はる の」が亀山の左下段、「はなの」「はなさ」が亀山の右下段 に並んでいる。いきなりの「は」決まりである。古賀の一 字ぴったりの鋭い攻めが、右下段に決まる。しかし、出札 は左だった。古賀の渡り手の前に亀山が左を押さえる。堅 実な取りだ。古賀のスピードはいつもどおりだ。ミツオは 贔屓目ではなく、ここまで三試合、休養充分の若さとスピ ードに勝る古賀が有利なように思っていた。
 札は、順調に減っていく。ただし、双方ともにである。 どちらかが決定的にリードを奪うという展開をみないまま、 後半に突入していく。この試合、古賀は敵陣の左下段を抜 けなかった。亀山の押え手が、思いのほか速いのだ。手が ぶつかって札に届かないことも何回かあった。これ以上、 速く取りに行くとお手つきの危険性がある上に、他の個所 の取りに悪影響が出かねない。実際、左下段に攻めっ気を 持っている時は、得意なはずの自陣の上段中央の札を取り に行こうとして手が浮くことがしばしばあった。そんなミ スを亀山は見逃さない。
 後半になってから、亀山が少しずつ差を拡げていく。そ こで、古賀は辛抱できなかった。ここで、マイペースで取 っていけば、僅差の終盤に縺れ込む展開になったであろう。 しかし、古賀は再び、左下段に攻めの中心を置いたのだ。 敵の調子のいいところを崩すことで、流れを自分のものに したかったからだ。だが、この狙いは外れた。亀山陣の左 は出なくなったのだ。亀山は、古賀陣の左と自陣の右の縦 のラインにポイントを移していたのだ。そして、このライ ンが続けざまに詠まれたのだった。古賀の持ち札十枚に対 して、亀山は五枚に減っていた。
 このくらいの差がひっくり返った例は何度もある。古賀 もそのつもりであった。だが、古賀は追い上げるものが決 してしてはならないことをしてしまった。「お手つき」であ る。東日本代表の座は、痛恨のお手つきとともに古賀の手 をすり抜けていってしまった。

  「名人戦東日本予選決勝戦」
   ○ 亀山修之  六枚差  ● 古賀昇一

 *

 高橋、熊野、古賀、ミツオの四人は、飲み屋を探して、 池袋の街を歩いていた。他の連中は、翌日の仕事が気にな るのか、すでに帰っていた。特に負け方が悪いと飲み過ぎ るものである。社会人として自制心が働いているのである。 あかねも、そんな荒れそうな飲みには付き合いたくなかっ たのだろう。ミツオを残して八角と一緒にサクッと帰って しまった。
 「大学野球の結果はどうなったんでしょうか?」
 歩きながら、熊野がポツンと呟く。大学で学生部に配属 されただけに気になるようだ。
 「そうか。今日、法大が負けるとうちのリーグ戦優勝が 決まるんだったな。」
 大学職員の先輩である高橋が携帯電話を取り出して、ボ タンを押している。
 「神宮球場のテレホンサービスの番号くらい覚えておけ よ。」
 電話に耳をあてながら、結果を告げる。
 「本日の第二回戦、立大対法大は、十一対零で立大の 勝ちだそうだ。」
 「立大のタバ勝ちですか。でも、これでうちの優勝決定 ですね。」
 「熊野、野球にかるた用語を使うなよな。あーあ、来週 は、優勝パレードと祝賀会の警備の仕事が待っているって わけだな。」
 「先輩、まあ、いいじゃないですか。野球のリーグ優勝 と今日の古賀の活躍に祝杯をあげましょうよ。」
 「祝杯なんて。俺にとっては残念会ですよ。」
 「まあ、そういうな。おまえにとっては残念会かもしれ ないが、俺たちにとっちゃ、強い後輩が東日本の決勝まで いったことへの祝杯なんだよ。」
 四人は赤提灯につられるように、ビルの地下の居酒屋に 入っていった。

 「古賀の準優勝と、我が大学の秋季野球リーグの優勝に 乾杯!」
 「カンパーイ!」
 「あー、うまい。みんななんで帰っちゃうんだろうな。 このビールの一口が最高なのに。」
 熊野はご機嫌だが、まだ、ふっきれないのか、古賀は沈 んでいる。
 「完敗で、乾杯って感じですね。」
 「まあ、そう言うなって。来年だってあるじゃないか。」
 「今年は今年、来年は来年です。勝負って一期一会なん じゃないですか。嗚呼、世の中には、なぜ勝ちと負けがあ るんでしょうか。」
 「ものごとは、すべて表裏一体なのさ。澄んで清く明る く軽い陽の気がまず昇って天となり、重く濁って暗い陰の 気が下降して地となる。陰陽二元論だな。したがって、勝 ちはすなわち陽であり、天。その事象を補うように必ず負 けがあって、それが陰であり、地。こういうわけだ。」
 「高橋さん、何もそう難しく言わなくたって、負ける奴 がいなきゃ、勝つ奴もいないってことでしょ。あたりまえ じゃないですか、全員が勝利者ってわけにゃいかないんで すから。」
 「熊野なあ、そう単純に言うなよ。中国の昔の人が言う と、そういう単純なことも、ありがたく聞こえるんだから。 中国の易は、この陰陽二元論をベースに形成されているん だよ。」
 「あたるも八卦、あたらぬも八卦というやつですか。」
 「そう。そのとおり。八卦というのは陰陽の組み合わせ を三つ重ねたものだ。陰と陽の二通りの三乗で八というわ けさ。この八つの卦を二つ重ねたものが易の基本で六十四 卦になるのさ。」
 「高橋さん、変なことに詳しいんですね。要するに中国 式占いのベースに二元論があって、勝ちと負けはその事象 に過ぎないってことですよね。占いと運っていうのが結び つくものかどうかわからないですけど、勝つ時って、時と して札運とか指運としか言えないようなことってあります よね。何故勝ったのかって聞かれたら、たまたま狙った札 が出たからとしか言えないような時って。」
 「そういうツキも実力のうちって言うんだろう。」
 「それって好きな言葉じゃないなぁ。負けたのは自分の 実力がそこまでのものだったからってわかるんですよ。要 するに弱いから負けたんです。もちろん、負けの原因とな る個々のポイントは指摘できるんですけど、端的に言っち ゃうとそうなんですよね。」
 「だからと言って、強いから勝ったんですとは言えない か。」
 「そうなんです。この一枚が勝敗の分岐点だったとあと で振り返った時、それが取れたり、相手がお手つきしてく れたりって、自分の力以外の何かが働いているように感じ てしょうがないんです。」
 「なるほどね。でも、我々は結果からしか判断できない。 勝ったやつが強い。勝つから強いし、強いから勝つ。それ でいいんじゃないか。古賀は決勝まで行ったから、そこま で強かったってことさ。」
 「でも、決勝で負けた。さっき、ある人から、五試合め の時間の過ごし方が悪かったって言われたんです。無駄話 をしてるからだって。」
 「なんか、それじゃ、話し相手のぼくたちが悪いようじ ゃない。」
 「佐多さんを責めてるわけじゃないんです。俺は、自分 の選択を間違ってないと思います。最善ではなくてもベス トに近いベターな選択でした。あの時間のおかげで、多少 休めたし、余計なことを考えずに昂ぶる神経を抑えられた んです。俺の時間の過ごし方じゃなくて、亀山さんの取り が本当に速かったんですよ。」
 「おい、そこの若ぇーの。相手の強さを素直に認めんじ ゃねぇーぞ。」
 「えっ?」
 四人は驚いていっせいに声のほうに顔を向ける。彼らの 席に背中を向けてカウンターで飲んでいる人物が、突然声 をかけてきたのだ。
 「あれっ。蓮沼さんじゃないですか。」
 「おーよ。さっきから、聞いてりゃ、神経にさわる話題 をさっきからウダウダと。」
 「はあ、すいません。」
 「これも何かの縁だ。そっちまぜてもらっていいかな。」
 すでに随分飲んでいるような雰囲気だ。
 「はい、どうぞ。」
 酔っ払いには逆らわないほうがよさそうだ。
 「古賀くん、おまえさんは強い。だから、決勝まで行っ たんだ。決勝も本当は実力が上回っているきみが、勝つは ずだった。」
 「えっ…?」
 「そう自分で思っとけということだよ。今日はたまたま 負けたけど、自分が一番強いと思っとかないとトップには なれない。」
 「じゃあ、蓮沼さんはご自身どうなんですか。」
 「おまえは誰だぁ。今日出てたような気がするが。」
 「熊野と言います。」
 「熊野か。ごつい名前のわりには小柄だな。」
 言われたほうは、ムッとする。
 「おれはなぁ。おれが誰よりも一番強いと思っているよ。 今日の負けは何かの間違ぇなんだよ。だいたい、骨折した やつがあんなに頑張れるのが間違ぇに違いない。わかった か。それより、おまえはA級で見かけない顔だが、いつか らAで取ってるんだ。」
 「今年からですよ。」
 憮然として答える熊野。
 「じゃあ、まだ、自分が一番強いなんて思えないだろう な。せいぜい、そう思えるまでがんばるんだな。」
 (エラそうに言いやがって!)
 心で毒づく。
 「それから、古賀くん。五試合めの過ごし方は、根本的 に間違ってるよ。」
 「えっ。どこがですか?」
 「休もうって発想が間違えだ。試合会場で詠みの声を聞 いて、詠みに対する身体と頭の緊張を持続させといたほう がよかった。一度緊張が途切れちまったから、相手が速く 感じたりしたんだよ。」
 「………。」
 「それで疲れたから決勝戦は駄目でしたっていうような ら、名人を狙うたまじゃないってことさ。試合ごとの瞬発 力や集中力も大事だが、一日をとおして緊張感を保ち続け る持続力っていうか、持久力も大切なんだよ。」
 「おっしゃるとおりですね。身体と頭を休ませようとい う安直な考えが間違ってました。」
 ただの酔っ払いかと思っていたが、いつの間にか四人は 蓮沼の話に耳を傾けていた。
 「わかればよろしい。」
 「負けて覚えるかるたかなってやつですか。」
 「熊野、おまえさんはそれでいいかもしれんが、一番を 目指すなら、負けて得るものなど何もないと知れ。」
 「なんでですか。」
 「勝って、勝って、勝ちまくるしかないんだよ。勝ち続 ける奴は、勝つことを素直に喜べる。だがな、負けた心の 痛みを知ってしまうと、人間余計なことを考えるもんだ。 負けた相手の心の痛みがわかってしまうのさ。自分の勝ち が素直に喜べなくなる。時として無理に勝負に撤しようと してしまって、心にひずみが生じる。しかし、負けたこと のない奴は、自分がこれを知らないのだから、勝ちたいと いう欲求に自然に従えるわけだ。」
 「へえー。」
 「だから、負けたこと自体をなかったことにするために 酒を飲む。忘れちまうのさ。こいつが一番だよ。おれもい ろいろやった。女に溺れたこともあるし、禅にはまって無 の境地を悟ろうとしたこともあった。でも、無の境地なん てのはどだい無理だったね。博打の緊張感の中に身を浸し たこともあった。かるたの負けを忘れるために博打の勝負 ってのもおかしな話だが、あのスリリングな緊張感に浸っ ている時は他のことを忘れられるんだよ。夢中になれるの さ。もし、負けても、博打の負けは、かるたの負けの痛み を相対的に薄めてくれる感じがあるんだ。もちろん、勝て ばおれはやっぱり強いんだって思えるしな。」
 「今までのトータルは黒字ですか。」
 「赤字に決まってるだろが。博打といっても、パチンコ、  麻雀や、競馬、競輪の類は駄目だな。博打は単純なほどの めり込める。非合法とイカサマがこわいが、丁半博打が一 番単純でいい。ルーレットの赤と黒にはり続けるというの も夢中になれた。ただ、あの〇と00が胴元の取りって言う のが気にいらないけどな。」
 「カジノに行かれるんですか。
」  「いや、女房に逃げられて今では博打はやめた。結局、 おれに残ったのは酒さ。わからなくなるまで飲んで、それ でいろんなことを忘れたことにしてるのさ。」
 蓮沼のこの話に、四人はしばらくの間、ただ沈黙して酒 を飲んでいた。
 「でもな、古賀くんよ。おれにはおまえさんの悔しさが わかっちまうんだよな。わかっちまうということは、……。 おれはもう一生名人になれずに終わるのかもしれん。……。 ちくしょう、なんで忘れられないんだ!」
 蓮沼は感情が昂ぶってきたようで、話しながら目を潤ま せている。
 「………。邪魔したな。」

 蓮沼がカウンターに戻り、四人は言葉もなく飲み続けた。 高橋がいつの間にか勘定をすましていた。
 「明日は仕事があるから。じゃあな。」
 高橋と熊野が去り、古賀も帰っていった。
 「蓮沼さん、一緒にいいですか。」
 ミツオは、この男と今晩徹底的に付き合ってみたいと思 っていた。
 「好きにしろ。」
 酒が喉を通る音、コップをおく音、酒を注ぐ音、これら の音だけで会話が成立していた。
 深夜零時の看板のあと、ふたりにはこの夜の新たなとま り木が必要だった。
 電飾の光瞬く街の中にふたりの男の背中が溶けていった。


Copyrighit:Hitoshi Takano

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