札模様  第十一章

  二月  ――理由(わけ)――


   

 「ほーぉ。」
 雪化粧をした富士山が車窓越しに目に飛び込んで来た。 見事な眺めである。思わず感嘆の声を洩らす。バスは田舎 道を走っていた。ここまで二十分以上はバスに揺られてい るだろう。しかし、富士を眺めてからは、二〜三分で終点 に到着した。
 ミツオは、今初めて、母校の五番めのキャンパスに立 っていた。ここ湘南藤沢キャンパスは、藤沢市の西北部に 位置しており、交通のアクセスが今一つ良くないようだ。 湘南とは言うものの海からは随分遠い。緩やかな上り坂を 校舎のほうに歩いていくと右側に、片仮名の「ク」の字を 逆さにしたようなステンレス製のモニュメントが立ってい る。台座には作品名がしるされていた。
 「『ステンレスの樹』か…、そのまんまだね。」
 ミツオは、この日、母校の先輩である大学職員の高橋 の招きに応じて、わざわざこの遠隔地まで来たのだ。藤沢 の学生だけの練習は、たまにやっているらしいのだが、大 学かるた会としての練習を初めてここで行うそうだ。した がって、他のキャンパスの学生も集まる予定になっている。 先月ミツオが十ヶ月ぶりに京都から東京に帰ってきたので、 その帰京祝いも兼ねているという。親方の蓮沼も、自分の 師匠の手伝いのためにミツオを送り出していたせいか、快 く休みをくれた。
 京都での十ヶ月間は、ミツオにとって貴重な経験でも あったし、かるた界にも様々なことがあった。札作りの仕 事については、大師匠から手取り、足取り教わることがで きた。正直に言うと、蓮沼よりも教え方がうまい。大師匠 は、「親方からは技術は盗むものと言われたが、この年齢 になって感じることは、教えて身につくことは教えればい いということだ。」と言っていた。また、「いずれ、教わっ たからといってもどうにもならない壁にぶつかるものだ。 その時こそ修業の真価が問われる。」とも言っていた。密 度の濃い修業期間だった。しかし、残念ながら入退院を繰 り返していた大師匠のおかみさんは、先月ついに帰らぬ人 となった。それでミツオは帰京できたわけだが、悲しくつ らい別れであった。大師匠はおかみさんの葬儀とともに札 作りは引退し、長男の世話になるという。道具と「心学堂」 の名を譲られ、ミツオは、師匠の蓮沼からたいそう羨まし がられたのだった。一方、かるた界でも動きがあった。デ ビッド・スミスの各大会での活躍は、外人旋風と騒がれ、 また、ポスト重村世代と言われる若手の活躍が目立った年 でもあった。ミツオと一緒にかるたを始めた山根志保も活 躍した若手の一人だった。クイン戦の挑戦者となり、敗れ はしたものの、僅差の好勝負を展開した。試合態度も立派 で、ミツオは志保の成長ぶりを目の当たりにしたのだった。 しかしながら、ポスト重村世代の若手達は、名人戦挑戦者 になることができなかった。旧世代を代表する選手が、若 手の前に立ち塞がったからだった。しかも、この挑戦者は 名人交代劇をも演じてしまったのだ。その瞬間、会場はど よめいた。過去六連覇、無敵を誇る重村名人の敗れる時が ついに来たのだ。若手に敗れる世代交代ならまだしも、挑 戦者の年齢は五十歳。戦前の予想では、ほとんどの人が重 村名人の七連覇は確実と答えていた。しかし、蓋をあける と、意外や意外、三勝二敗で知命の名人が誕生したのだ。 この衝撃は、いまだに続いているといってよかった。正月 の大会では、我こそが次代の覇者であると名乗りをあげる かのように、優勝を狙って若手の目の色が違ってきた。周 囲から次期名人候補と認められることの大切さを肌で感じ ているに違いない。
 「十ヶ月か。長かったのか、短かったのか……。」
 青空をバックに白い威容を現わした校舎を見ながら、 ポツンとひとり呟いた。京都では話し相手が少なかったせ いか、独り言が多くなったようだ。
 待ち合わせは、A(アルファ)館のロビーだ。高橋の説 明によると、一番手前の建物がA館なので、どうやら、到 着したらしい。大学というと、煉瓦色の校舎や、蔦の絡ま る校舎のイメージを持つものだが、ここの建物は、そのイ メージとはほど遠い。どちらかというと研究所のイメージ だ。コンクリートの打ちっぱなしの建築は、多少寒々とし た印象を与える。しかし、現在のミツオの気持ちには妙に マッチもしていたのだ。

 「よぉっ、久し振りだなあ。元気そうじゃないか。」
 「ご無沙汰してまして…。」
 「まあ、帰って来て何よりだよ。今日は、本当に良く 来てくれたな。ミツオには、ぜひ一度来て欲しかったんだ。 あっ、紹介しよう。松島くんだ。」
 「はじめまして、環境情報学部三年の松島展也です。」
 「佐多三男です。去年の三月に経済学部を卒業しまし た。」
 「かるた札を作る仕事をされているんでしょう。実は 先輩に見てもらいたいものがあるんです。」
 「そうなんだ。俺はまだ、他キャンパスから来る連中 を待ってるんで、ちょっと松島にキャンパスの案内をして もらってくれよ。」
 「はい。」
 「どうぞ、こっちへ。」
 松島に案内されるまま、ミツオはあとについていった。 いろいろと校舎の説明をしてくれる。どうやら、建物には ギリシャ文字が使われているらしい。
 「この四棟の建物は、左からκ(カッパ)館、ε(エ プシロン)館、ι(イオタ)館、ο(オミクロン)館って 言うんです。その右にあるのが、λ(ラムダ)館。これは、 ギリシャ語で言語を表すロゴスの頭文字を取っています。 ここの特別教室に行きましょう。」
 部屋に入るには、磁気テープのついた学生証カードを カードリーダーに通さなければならない。ミツオは松島の あとに続いて入る。数十台のコンピュータが並んでいる。
 「要するに、パソコン教室か。ぼくは、こうした機械 は全然ダメだよ。」
 「これは、ワークステーションって言うんですよ。ネ ットワークにつながっているんです。まあ、見ててくださ い。」
 松島は一台の前に座ると何やら操作し始めた。
 「先輩、これが電子メールってやつです。MIKAっ ていうメーリングリストがあって、ここで全国のかるた界 の情報がいろいろ流れているんです。ほら、見てくださ い。」
 「へえ、横浜大会の結果か。優勝はクイン、準優勝は 田淵か。田淵ってのも最近売り出し中の若手らしいね。」
 「これが、今度の白妙会大会の予想ですね。同じ日に 行なわれる九州の宇佐神宮大会の予想も出てます。それに その翌週の静岡大会の案内もありますよ。」
 「へえ、宇佐神宮の優勝予想はデビッド・スミスだっ て。準優勝は山根志保かよ。そんな夫婦で決勝なんて都合 よくいくかよ。いったい、誰が予想してるんだよ。」
 「発信者は、山根さんですね。」
 「なんだ、本人か。ようするに優勝宣言みたいなもん だね。あいつらしいや。試合態度はよくなったけど、こう いうところは相変わらずだよな。でも、九州まで夫婦で遠 征か。見上げた根性だね。それにしても、こんなんで、情 報がいち早く伝わるわけなんだなあ。高橋さんが情報通な のもうなづけるな。」
 「実は、先輩に見てほしいのはこっちなんです。」
再び、松島は操作を始めた。モニターには、何やら三 次元グラフィックスが映っていた。
 「雛人形のお雛様みたいだね。」
 「僕は、こういうコンピュータグラフィックスをやっ てるんです。ほら、回転させてみましょうか。」
 「へえ、いろいろな角度から見れるんだ。面白いもん だね。」
 「今、雛人形っておっしゃいましたけど、これは紫式 部のイメージなんです。」
 「それで、着物が紫なんだ。」
 「一応、大僧正慈円の立体イメージと、参議篁のも作 ってみました。」
 「へえ、どれも雛人形風になっちゃうんだね。」
 「まだ、そうリアリティあふれるものはできないんで すよ。それじゃあ、こっちを見てください。二次元なんで すけど、かるたの札のデザインを考えたのがあるんです よ。」
 こういって、松島は画面を切り替えた。そこには、持 統天皇の札が映っている。
 「これは、市販の札をスキャナーで取り込んだもので す。これをいろいろといじることで、随分変わりますよ。 着物の色を変えたり、図柄を消したりできます。こういう 具合に。」
 松島がマウスを操作してなにやらいじると、モニター 上では、十二単の色が変わり、柄も消えた。
 「ふーん。」
 「こうして回転させると、札を横長においたデザイン になります。文字の配列のバランスも変わってくるでしょ う。」
 「へえ、これは面白いよ。新しい発想をすぐに目で確 認できるもの。いろんなイメージが湧いてくるなあ。」
 「これは、僕が自分のイメージでデザインした詠み札 です。『瀧の音』の歌です。」
 モニターには、瀧のある風景がデザインされた画像が 出てきた。
 「これで大きさを決めてカラープリンターで打ち出せ ば、札になるでしょう。」
 「うん。紙の質とか、インクとかにこだわらなければ ね。」
 「どうです。僕のデザインは。」
 「これは、ちょっと細部まで描きすぎているきらいが あるかな。もっと大胆に象徴的にデザインしたほうが札と してはいいな。」
 「そうですか。もし、先輩のやっている伝統工芸的な 技術の中の一部に、こういうコンピュータを使ったデザイ ンを取り入れることができればと思うんですけど…。」
 「ああ、デザインを考えるにはいいかもしれない。い や、ありがとう。勉強してみる価値はあると思うよ。でも、 今、ぼくがやってる札作りの作業は、和紙と染料を使う手 作業なんだ。その時々の天候でも色の出具合なんかが微妙 に変わるんだ。そこが、ぼくの仕事の面白さのひとつなん だけどね。コンピュータのプリンタで同質のものが何枚も 刷れるというのとは、また違う種類の表現なんだと思う よ。」
 「そうですか。でも、デザインを考えるのに使う可能 性はあるわけですね。」
 「うん。このデザイン方法は、従来の枠にとらわれな い斬新なアイディアを産む可能性を秘めていると思うよ。 ぼくが、コンピュータを勉強し始めたら、その時は、いろ いろ教えてくれよ。」
 「はい、喜んで。」
 「ほかにも、コンピュータの利用方法ってあるんだ ろ。」
 「僕の興味は、こういうグラフィックへの利用なんで すけど、総合政策学部二年生の村崎は、データベース的な 使い方をしているようですね。」
 「データベース的な使い方って言うと?」
 「将棋の棋譜ソフトみたいに自分の試合の経過を記録 するのに使ってますよ。そうすると、右中段が相手によく 取られているとか、敵の左上段を良く取っているとか、自 分の印象が数字的に確認できたりします。もっと細かく 『S』音はよくお手つきをするとか、三字決まりの時の自 陣でのキープ率が高いとか。」
 「へえ、それを見ながらいろいろと工夫するわけだ。」
 「でも、自分の立場からはある程度参考になると思い ますけど、相手データの絶対数が不足しているように感じ ますけどね。相手によって、自分のデータも影響受けるわ けでしょ。どの程度参考になってるかは、僕にはわかりま せん。」
 「そうか。そういうもんか。でも、まあよくそんな手 間のかかることをやってるよな。」
 「彼女はAO入試っていう自己推薦入試で入って来た んですよ。高校日本一を引っさげてね。面接でそういうこ とをやってみたいって言ったそうですから。」
 「前に取った時には、全然そんな話はしてくれなかっ たけど…。」
 「先輩が怖かったんじゃないですか。」
 「えっ!」
 「いや、まあ…その…。コンピュータは、あとは、個 人の記録なんかをためておいて検索するのに便利ですね。 高橋さんなんかこの類の使い方です。自分の練習から試合 から、対戦記録をカード型のデータベースに全部入力して ますね。」
 「ああ、あれね。ノートの方を見せてもらったことは あるけど、なんかあれも自己満足の世界って感じだよな。」
 「まあ、いいんですよ。十人いれば十人それぞれのコ ンピュータの使い方があるんですよ。そろそろ、時間です ね。クラブハウス棟の和室に案内しましょう。」

 和室というのは、いわゆるBOX棟の二階にあった。 しかも手製の和室である。ビールケースを下に敷き詰め、 その上に古そうな畳が置いてある。部屋とサイズが合わな い分は、畳を縦長に三分の一くらいに切って無理矢理はめ 込んでいる。
 「えーっ、これが和室?」
 「いつも、ここで練習しているんですよ。多くて三人。 大体、二人です。高橋さんが吹き込んだテープのバリエー ションが結構あるので、使いまわして練習してます。」
 「すごいとこで練習してるもんだね。でも広さだけを 言えば、二組なら楽に取れるね。」
 「ええ、人がそのくらい集まればいいんですけどね。 そのロッカーの中に札が置いてあります。今日は、これを 体育館に持っていくんです。」
 「そのジャージは?」
 「高橋さんのですね。いつも置きっぱなしですよ。別 に持って来いって言われてないですから…。」
 「きたねぇな。たまには洗ってるのかな。」
 「さあ?」
 ふたりは、札の入ったバックを持って、体育館に向か った。体育館の柔道場には、すでにメンバーが集まってい た。
 「先輩、お久し振りです。」
 真っ先に挨拶してきたのは、四年生の北大地だった。
 「先輩、ひどいですよ。職域・学生大会あてにしてた のに、急に京都に行っちゃうんだもん。しかも行っちゃっ たきり帰ってきやしない。」
 「ごめん。やむにやまれぬ事情ってやつなんだ。」
 「先輩は、最後の学生選手権は優勝狙うって言ってた から、職域のほうも計算に入れてたんですよ。」
 「いや、本当に申し訳ない。でも、降級しないですん だようで何よりだよ。」
 「まったく、下に落ちてたら、先輩のせいにしてまし たよ。でも、六位ギリギリで残ったんですから、まさに薄 氷を踏む思いってやつでしたね。」
 「去年、先輩に渡しそこねた卒業記念品です。受け取 ってください。」
 三年生の知花麻衣子が、なにやら包みを持ってきた。
 「いや、どうもありがとう。」
 巨大な札だ。裏には、寄せ書きがしてある。
 「先輩の札は、一昨年からの持ち越しですからね。わ ざわざ先輩のリクエストにこたえたオリジナルですよ。」
 ミツオが一昨年、卒業できるものと後輩達が作ってく れていたものだ。卒業できなかったので、持ち越されてい たのだが、昨年も受け取れずにいたのだった。表面には、 「のもりはみすやきみかそてふる」と書かれている。普通 は、百人一首の中から好きな札を選ぶのだが、ミツオは、 後輩に聞かれた時に額田王の「あかねさす紫野行き標野行 き野守は見ずや君が袖振る」を取り札に仕上げてくれと頼 んだのだ。
 「わたしもこの歌大好きですよ。返歌の『紫草のにほ える妹を憎くあらば人妻ゆゑにわれ恋ひめやも』のほうも 好きです。わたしの名前がムラサキだからってわけじゃな いんですけど、ラブラブって感じが伝わってきますよね。 どうしてこの歌にしたんですか。」
 二年生の村崎笙子が口を挟む。この記念札が作られた 時は、まだ入学前だったのだ。村崎は、個人戦で高校日本 一を取って入学してきた逸材だった。丸い眼鏡がひょうき んな印象を与える。彼女に悪気はないのだろうが、ミツオ の表情は暗くなった。春日あかねのことを思い出したから だ。「あかねさす」は、彼女の名前にちなんで選んだもの なのだ。その場を重たい沈黙が支配する。事情を知らない 村崎たちは、戸惑いを隠せない。
 「関西のほうのかるたはいかがでした。こっちと違い ましたか。」
 この沈黙を破ったのは、三年生の小林佳子だった。ミ ツオとあかねとの事情を知っているので気をきかせてさり げなく話題を変えた。
 「大阪の攻めかるたって言うけど、それも人それぞれ だね。京都の人のかるたは、また違う感じがしたし…。一 概にひとくくりにしては言えないってことがよくわかった よ。気障にいえば、かるたの奥深さをまた知ってしまった って感じかな。」
 「まあ、土産話は、夜にでもとっておいて、練習を始 めよう。」
 高橋が音頭を取る。なんといっても今日の主催者だ。 わざわざ休暇をとってこの練習会にあてたのだ。
 「今度の会対抗は、現役だけでチームを組むんだろう。 気合い入れないとな。」
 二月に行なわれる会対抗戦は、全日本かるた協会の傘 下のかるた会による団体戦である。職域・学生大会は五人 一組だったが、こちらは三人一組である。会に所属してい れば出場できるのでOB中心にチームを組むことも多い。 しかし、今年はこの試合に長いことエースとして出てきた 重村前名人が不出場を表明したので、現役だけで力試しを する機会としたのだった。
 「じゃあ、Aチームは、北、知花、村崎で並び順を決 めて。Bチームは、ミツオと小林と俺。残りは、松島と中 之庄の取りで、田中詠み。悪いけど川田は休みで、始まっ て三十分くらいしたら、本館ロビーまで木村を迎えに行っ てくれないか。」
 高橋が、テキパキと指示を出す。A級三人のAチーム 対OB二人プラスB級のBチームの模擬対抗戦の組み合わ せは、村崎対佐多、知花対高橋、北対小林となった。広い 柔道場だが、真ん中で取るのは気がひけるようで、やや端 寄りに三組が並んだ。その隣に松島と中之庄が一組加わる。 中之庄満男は今年入部で続いている唯一の一年生である。
 「悪いけど、この札じゃないと駄目なんだ。これ使わ せてね。」
 松島が中之庄に注文を付けている。
 「?!」
 ミツオは隣で札を並べているのを見て驚いた。なんと 決まり字が薄い朱の文字で印刷してある超初心者用の取り 札を使っているではないか。札のデザインとか、コンピュ ータには明るい松島だったが、どうやら札の暗記はできて いないらしい。先程の話しの内容と現実のギャップの大き さがミツオにはおかしかった。現在のかるた会で湘南藤沢 キャンパス所属は、松島と村崎と総合政策学部二年の川田 美貴の三人だった。しかも、松島と川田は藤沢での練習し か出ないので他キャンパスのメンバーとはほとんど交流が ない。ただ村崎だけが、日吉での定期練習に週二回通って いるのだった。
 二年生の田中優華の詠みは、広い柔道場では少々聞き 取りにくい。そのせいか、村崎はお手つきを連発してくれ る。それでも、ミツオはリードできずに接戦を演じていた。 左利き特有の攻めで、ミツオの右がいともたやすく抜かれ てしまうからだ。北も知花も、競った展開である。このま ま終盤に入ると送り札にも神経を使わなければならない。 隣では、札を覚えていない松島が、追い上げだしたようだ。 中之庄は、札も覚えていない相手に多少気をゆるめた所が あるのかもしれない。楽勝と見て油断した時にお手つきを して相手に反撃のきっかけを作ってしまうのだ。松島も見 ている札なのか、好きな札なのか、特定の札だけは早く取 っているようである。遅い札は、まったく遅いというか覚 えてさえいないようである。こんな落差の激しい相手にペ ースを崩してしまう中之庄も、まだまだ未熟だった。
 模擬団体戦は、終盤ラッシュをかけた北が、まずは五 枚で勝った。三人の団体戦での先勝は大きなポイントだ。 残り二人で一勝すればいいというのと、二人とも負けられ ないという状況のプレッシャーには相当の差がある。ミツ オと高橋が、同時に敵陣で「みかの」を抜いた。高橋は、 送り札を送らず、ミツオが送るのを待っている。どうやら、 ミツオの送り札を見てから決めるつもりらしい。結局、ミ ツオが自陣に残した「ひとも」を高橋も残した。しかし、 札分けをしているわけではないので、残り枚数は違ってい た。ミツオは一・一、高橋は一・三である。
 札が詠まれる。「みかのはら」の下の句に続いて詠まれ たのは、「ひとも」だった。ミツオは勝ったと思った。自 分自身も、そしてチームも。ところが、ミツオの残りに合 わせた筈の高橋が、見事にこの一枚を抜かれてしまったの だ。高橋の油断と知花の思い切りの良い攻めが、この結果 を生んだのに違いない。もちろん、村崎と知花の間にも、 「守れ」「攻めろ」のサイン交換があったのに違いない。
 「いやぁ、まいったなあ。」
 抜かれたテレもあるのか、高橋が愚痴る。ここでの送 りは重要である。知花は、村崎陣に残っていた「わすら」 を送った。だが、この判断は間違っていた。ミエミエの守 りの体勢をとった高橋に、詠みとともにすんなり守り切ら れてしまったのだ。
 「うーん、知花は、ミツオを信用して『わすら』を送 ったんじゃない。」
 「えっ、どういうことですか。」
 「さっき、ミツオが『わすら』を村崎に送った時、『百 枚目』って呟いて送ったのを信用したんじゃないの?」
 「いいえ、佐多先輩がそんなこと言ってたなんて気が つきませんでした。自陣に出そうな二枚を残しただけで す。」
 「そうか。俺は、ミツオを信用して同じ札を残したん だけど、一枚くらいそっちも出るかなって色気出したのが いけなかったね。最後は、もう何が出そうかなんて考えず に、確率にすべてを賭けて守っただけ。攻めようなんてこ れぽっちも思わなかったよ。」
 「単についてたってだけですか?」
 「松島、おまえにゃ言われたかねぇーよ。そういうこ とを言うんだったら、いいかげん札を覚えろよな。でも、 終盤は、いい取り見せてたようじゃないか。」
 「さすがに札が少なくなると、少しは取れますね。」
 「みつおっ、相手をなめちゃだめだぞ。終盤追い上げ られたのは、一度、手抜きモードにギアチェンジしちゃっ たからだぞ。あのままギアが戻らなくなってしまうもんな んだ。でも、なんとかギアを元に戻せたようだったな。手 後れにならずにすんでよかったって感じかな。」
 ミツオは、北が「みつおっ!」と呼ぶのにビクンと反 応してしまった。
 「あ、そうか。佐多先輩、すいません。こいつも『み つお』って言うもんで。」
 「そうか、きみも『みつお』くんか。ぼくは、漢数字 の三に男って書くんだけど、どういう字?」
 「満月の満に男です。よろしくお願いします。」
 「まあ、よろしく。」
 『みつお』談義をしていると、川田が四年生の木村嘉 重を連れて戻ってきた。
 「へえ、いい柔道場ですね。」
 バシンとさっそく柔道の受け身を始める。柔道場に入 ると受け身をとりたがる輩というのは、不思議といるもの だ。
 「久し振りだな、木村。」
 「お久し振りです。先輩少し太りましたか?」
 「痩せたくらいだよ。いきなり、そんな挨拶があるか よ。」
 「すいません。わたし自身の体重が気になるもので、 つい。あっ、そうだ。ご報告します。わたしの就職先ご連 絡してないですよね。ここのキャンパスの目の前にもある 銀行にお世話になることになりました。定期預金をはじめ、 ご利用よろしくお願いします。」
 「うちの実家のほうにも支店があるよ。たしか日吉に もあったけど、都内じゃあまり見ないよな。」
 「このあたりには結構あるんですよ。一度は、ここの 大学前出張所の勤務もいいなあと思ってるんですけど ね。」
 「まあ、どこの勤めになろうとも銀行さんは、堅気の 商売でなによりだね。仕事するってのは苦労も多いけど、 がんばれよ。」
 「ありがとうございます。」
 世間からは堅気の仕事と見てもらえない自分を思い、 しみじみと木村を励ますミツオだった。
 「さあ、次始めるぞ。」
 高橋の号令がかかった。二回めの組み合わせが決まっ ていた。今回は、摸擬団体戦形式はとらずに、どちらかと いうと指導対戦だ。
  高橋 ― 中之庄
  北 ― 小林
 村崎 ― 田中
 木村 ― 川田
 佐多 ― 松島
 詠みは、知花だ。ミツオは、松島のために「決まり字」 の書かれた札で相手をした。十四枚であっさりと勝ったが、 あることに気づいた。決まり字の赤い字が目に入り、本当 の決まり字で取れないのだ。たとえば、「あらし」という 札があれば、通常は「たつたのかわのにしきなりけり」と いう下の句の書かれた取り札全体を記号化して認識し、 「あらし」とインプットするわけである。したがって、共 札の「あらざ」が詠まれれば、その記号化して認識されて いた「あらし」という札は「あら」というふうに認識しな おされる。ところが、決まり字の書かれた札だと、つい「あ らし」という赤い字を認識してしまう。それが目につきや すい位置にあれば、なおさらである。たとえ、決まりが短 くなっていたとしても、脳は長年親しんだ平仮名三文字を 認識し、無意識に「あらし」と判断してしまうのである。 記号化による決まり字変化の認識が、視覚から来る情報の 前に敗れさってしまったのである。ただし、通常から視野 の外に置かれて、暗記によって手が動く場所の札は、この 影響を受けにくい。逆に敵陣の札などは、大体において視 覚と連動して記憶されているので、影響を受けやすいので ある。
 「普通、札をきちんと覚えてから、競技かるたを始め るものだろう。」
 ミツオは、松島に意見した。
 「いやあ、いろいろとやることが多くて覚え切れてな いんですよ。」
 「集中してやれば、三日もかからないよ。」
 「そうですね。今でも五十枚ちょっとは覚えてますけ ど…。」
 「けどじゃないだろ。それなら、残り五十枚なんてす ぐだよ。札を覚え切ってなくても、競技かるたはおもしろ いかい。」
 「そりゃ、おもしろいですよ。おもしろくなきゃ、三 年も続けてませんよ。特に札を素速く勢いよく払うのは快 感ですよ。札を覚えてない人たちに、いかにかるたがおも しろいものかを伝えるには、札の暗記より先に払いの練習 が先ですよ。札を覚えるのは時間がかかって嫌になってき ますが、払いは練習すれば次第に上手になっていきます。 自分でだんだんうまくなってくるのがわかるんですよ。そ こがおもしろさじゃないですかね。先輩達のように上手に 札が払えた時は嬉しかったですよ。」
 「ぼくもそうだったかな。」
 「きっとそうです。」
 松島はきっぱりと言い切った。
 「かるたの普及のためには、まず、払いですね。それ から、札を覚えてない人にもわかるようなおもしろい観戦 記ですよ。僕の友人に囲碁も将棋も、満足にルールを知ら ないけれども、新聞の観戦記を読むのが好きだっていう奴 がいますよ。」
 この自他ともに初心者と認める男の口から、「普及」な んて言葉が出てくることにミツオは意外の念を抱いた。
 「まあ、ルールなんか良く知らないでも、ラグビーや アメリカンフットボールをテレビで、見て興奮できるのと 一緒なのかもしれないな。」
 「テレビ放送は、いいですね。ビジュアルです。囲碁 や将棋のあまり動きのない番組だってファンがいるんです よ。かるたは囲碁・将棋よりは、はるかに動的な競技です よ。」
 「しゃべるんなら、そこでコソコソしゃべってないで、 外でやってくれよ。」
 一年生の中之庄相手に苦戦している高橋からクレーム が出た。
 「すいません。」
 ふたりは、おとなしく他の組の練習を見ることにした。 指導対戦なので、結構差がついて終わった組も多かったが、 なぜか高橋は、D級の中之庄と接戦を演じていた。結局は 三枚差で逃げ切った。
 「高橋さん、随分苦労しましたね。」
 「ああ、いやになっちゃうよ。」
 「ぶっちぎるのかと思ってましてけど。」
 「そんなこと、もう、できないんだよ。」
 「なぜですか?」
 「強い相手と取る時は、全部をしっかり覚えて全部を 速く取らなくても問題ないじゃないか。」
 「そうですか?」
 「そうだよ。相手も速いんだから、自分が遅かったら 基本的には相手が早く取ってくれる。」
 「そりゃ、まあ、そうですね。」
 「だから、自分が速く取る札を絞り込めるじゃないか。 要は、相手より一枚でも早く自陣の二十五枚を減らせばい いんだから…。」
 「でも、相手とうまく噛み合わないと、ふたりとも遅 い札ができてみっともないですよ。」
 「まあ、そういうのは拾えればラッキーだよ。それで だ。弱い相手の場合を考えてみよう。自分が全部しっかり 覚えて全部速く取らないと上級者としてみっともないじゃ ないか。これは、きついよ。強い相手との絞り込みの呼吸 が身についちゃうと、全部速くなんて、もう無理だね。最 初は、頑張るんだけど、途中で息切れしちゃうんだ。今も 取っているうちにあまりに遅い自分に嫌気がさして、集中 力を欠いてしまったんだ。」
 「ああ、その気持ちわかる気がします。」
 「強いやつは、そんな気持ちわかっちゃ駄目なんじゃ ないのか?」
 「そうかもしれませんね…。」
 (でも、ぼくは強くありませんから…。)
 高橋はミツオのことを「強い。絶対に強い。」とか「お まえには才能がある。その片鱗がうかがえる。」と言って くれるのだが、ミツオは自分が強いとも、才能があるとも、 どうしても思えないのだった。
 この日の最後の練習は、再び摸擬団体戦となった。今 度は、北・知花・村崎のAチーム対佐多・木村・小林のB チームだった。今度は、Aチームが二勝一敗で勝利をおさ めた。その他、川田は中之庄に、田中は松島にそれぞれ勝 っていた。川田は、宮崎県の出身で、高校時代に団体戦の 経験がある。個人戦はD級で、磨けば光るものを持ってい ると思われる選手なのだが、練習にあまり来ないので、変 なお手つきは減らないし、実力が伸びない。学業に、バイ トに、恋愛に忙しい大学生は、そうそうこうした競技に時 間を費やせないのだろう。ここ湘南藤沢にも、また、さま ざまな学生模様があるのだった。

  *

 「お前は、つくづく不思議なやつだと思うよ。」
 ミツオは多少の酔いもあって、松島に随分と気軽に口 をきいていた。松島は、何かこう一言言いたくなるキャラ クターなのだ。
 練習のあと、湘南台の居酒屋チェーン店のひとつで、 ミツオの帰京祝いをやったあと、二次会に残ったのは、ミ ツオ、松島、川田、高橋の四人だけだった。
 「先輩、それは誉め言葉と受け取っておいていいです か。」
 「ああ、誉めてんだよ。初心者で、かるたの普及を考 えてるなんて大したもんだよ。それに、まったく酒を飲ま ないのにウーロン茶で、ちゃんと付き合ってくれるんだも んな。いいやつだよ。」
 「酒飲めないのは体質ですから。だいたい、僕のよう に三年も初心者やってる人間も珍しいと思いますよ。自分 で言うのもなんですけど…。普通なら初級者ですもんね。 でも、未経験者への普及を考えるなら、僕のような初心者 のベテランの意見を尊重すべきですよ。うまくなっちゃっ た人が忘れている視点を持ち続けているんですからね。」
 酒を飲めないと言っても、松島は雰囲気にほろ酔いし ている感じだ。表現に多少の矛盾もあるようだ。
 「どうして、初心者がそこまで普及を意識するんだよ。 普及を考えるのは、自分が強くなってからだっていいじゃ ないか。」
 「別に強くならなくてもいいじゃないですか。今でも 充分楽しいんですよ。僕は、かるたまわりのいろいろなも のが好きです。和歌、札、札に描かれた絵、文字、作者の エピソードやキャラクター、百人一首成立の謎、かるた選 手やその記録などなど…。こういうおもしろい文化や競技 を多くの人と一緒に楽しみたいじゃないですか。それに自 分と同じくらいの初心者をふやしたいですしね。だから、 普及に目が行くんですよ。いろいろな人と楽しめば、きっ ともっとおもしろさの幅も広がるし、深さもでてくると思 うんですよ。」
 「そんなにかるたっておもしろいかい。」
 「おもしろいですよ。先輩はおもしろくないんです か。」
 「おもしろいと思っていたんだけど…。実は…、いま じゃ、よくわからなくなってるんだ。」
 ミツオは、思い出していた。春日あかねは、「かるたの 楽しみは人との出会いにある」と言っていたものだ。ミツ オも、かつてはそう思っていた。あかねとの出会いにして も、様々なあかねを知ることができたのも、かるたの取り 持つ縁ゆえだったからだ。あかねとかるたを取るたびに、 あかねが誰かと対戦しているのを見るたびに、毎回新しい あかねを発見するのが楽しかった。そうした楽しみを知っ たことが、かるたの楽しみにもつながっていったのだ。し かし、あかねと別れたために、ミツオは、自分自身でも何 故かるたを取っているのかが不明確になってしまっていた。 それでも、どういうわけかやめられずに取り続けているの だ。しがらみを断ち切れないからだろう。
 「かるたのおもしろさってなんだい。」
 「おもしろいから、おもしろいんですよっていうんじ ゃ答えになってませんよね。」
 「ああ。」
 「じゃあ、真面目に話しますよ。固い話になるかもし れないですけど聞いてください。」
 「わかった。酔ってはいるけど真面目に聞こう。」
 「僕は、環境情報学部の所属です。そして、湘南藤沢 キャンパスには、もう一つ双子の学部と言われる総合政策 学部があります。僕は、このキャンパスと学部に憧れて入 学しました。」
 「おいおい、かるたのおもしろさの話をしてくれよ な。」
 「慌てないでください。これは、話の枕なんですから。」
 「わかった。ごめん。だまって聞くよ。」
 「いいですか。僕たちの周りを取り巻くもの、これが 環境です。僕らは、これらの環境を情報をとおして認識し ます。情報とは、環境と僕との間の媒体であるとともに環 境の一要素でもあります。」
 「随分、難しそうな話だな。」
 「僕たちが、競技かるたをします。そうすると、競技 環境というものを意識しませんか。天井の高さ、畳の質、 詠み手の声とか。」
 「意識するね。会場の広さとか、詠みの声が、前から 聞こえるか、後ろから聞こえるか、それとも右からか左か らかとか…。」
 「そうですよね。僕たちは、環境を情報によって認識 し、その情報を実は分析もしているんです。詠みというの も、実は一つの情報です。詠まれたことによって、情報が インプットされ、競技者というブラックボックスを通って、 取りなどの行動というアウトプットが出るわけです。」
 「そういう理屈なら、場に並べられている札ってのも、 視覚を通してインプットされてくる情報っていえないか い。」
 「その通りです。僕が言いたいことは、わかってくれ たようですね。」
 「いや、全然。」
 「まあ、競技者にとっての最大の環境要因は、対戦相 手です。対戦相手の情報はとても重要です。どこが強いか 弱いか、速いか遅いか、どんな札が得意か。そして、分析 した情報に価値を与え、価値判断しているんです。この価 値判断に基づいて、送り札を決めたり、狙いを定めたりと いう意思決定をします。ここにいたる過程は、非常に総合 政策的なものといえましょう。こうした判断により、僕た ちは、札の配置をデザインします。そして、ゲームをデザ インするのです。デザインというのは、実は環境情報・総 合政策のどちらにも共通する重要なキイワードなので す。」
 「非常に学部の理念とマッチした競技だと言いたいわ けだ。」
 「そうです。この過程を分析するだけでも、認知心理 学をはじめとした様々な分野の知識や分析ツールを使いこ なすスキルが必要だと思うと、それもまた、楽しいじゃあ りませんか。」
 「そうかな。勉強のきらいな人間もいるからな。」
 「競技をデザインするにあたり、自分の思い描くデザ インを妨げる要因があります。ひとつは、対戦相手です。 対戦相手は環境要因ですが、こちらの判断どおり、予測ど おりには動いてくれません。したがって、デザイン計画は 変更を余儀なくされます。これは、別の見方をすると、相 手と自分の二人の共同作業で、ひとつのゲームがデザイン されるとも言えます。ここでデザインされたゲームとの出 会いというのは、その時限りのものです。一期一会なんで すよ。この出会いがおもしろさの最たるものということで いかがでしょうか。」
 「うーん、たしかにそうだよな。それより、今、自分 のデザインを妨げる要因を、『ひとつは』とことわったよ な。ふたつめはあるのかい。」
 「ふたつめは、鑑賞者です。観戦者と言ってもいいで しょう。彼らの目に映る競技についての彼らの印象・感想 といったものは、自分の思いとは決して同じではないので す。『精魂尽くして作り上げた棋譜が、観戦記という襤褸 を着せられて捨てられていく』という言葉を遺した将棋の 棋士がいるそうです。そういうこともあるでしょう。デザ インされたゲームは、試合が完結した時点で製作者である 二人の競技者の手から離れてしまうからです。しかし、逆 に自分の意図とは別に観戦記によって、より多くの人の心 に残るゲームになることだってあるんだと思います。そん な観戦記が書けたらいいなあと思うし、そういう観戦記に 飾ってもらえるゲームがデザインできたら素晴らしいと思 いませんか。そして、初心者だからこそ、初心者に訴えか けられる観戦記を書くことができる部分もあるんだと思う んです。初心者にわかりやすいタイトル戦のシステムをデ ザインし、マネジメントするってのも憧れますね。」
 「あーあ、本当にお前は不思議な奴だよな。なんで札 を五十枚しか覚えていない奴が、どうしてここまで語れる んだよ。」
 「まったくだよな。観戦記を書くつもりなら、せめて 札を百枚暗記しろよって言いたいよな。」
 話を聞いていた高橋が、突然口を挟んだ。
 「かるた界のメーリングリストに加入しているせいで、 耳年増になっちまったんだよな。」
 「高橋さん、それはないでしょう。耳年増になったと したら、高橋さんからいろいろと知識ばかり詰め込まれる からじゃないですか。今の話だって、半分は高橋さんの受 け売りですよ。川田さんも随分聞かされた話でしょう。」
 「わたしは、松島さんから聞かされたほうが多いよう に思うけど…。」
 川田は、日本酒で顔をほんのりと赤く染めながら答え た。松島と違い、結構、酒を飲んでいる。
 「実は、松島や川田にいろいろとかるたのことを指導 するようになって、考え始めたことがあるんだ。」
 今度は、高橋の話が始まった。
 「藤沢に来るまでは、かるたを教えるって、勝つため にはどうすればいいかっていうことを意識していたんだ。 勝つための方法論を考えていた。勝つことは楽しいことだ と思って疑わなかったからな。」
 「ええ、たしかに勝てば嬉しいし、楽しいですよね。」
 ミツオが答える。
 「でも、このふたりは違ったんだ。松島は、どちらか というとかるたまわりのことに楽しみを感じているし、川 田は、たまに忘れない程度に楽しめばいいって感じなんだ。 練習のあとのこうした集まりが好きっていうタイプだな。 試合にも出るつもりはないと言うし。」
 「へえ、そうなんだ。」
 「ええ、試合に出てどうこうって考えてないんです。 支尾さんっていう高校のかるた部の先輩が、入学してきた 時に四年生でいて、高橋さんを紹介されたんです。そうい うことでもなければ、続けてなかったかもしれません。そ れに、高校日本一の村崎さんも、D級の私も同じAO入試 で、部活は『かるた』だったんですよ。取り組み方の差や 意識の差を感じちゃって。私は、ああいうふうには、なれ ないって思いますもの。そうなると、私は私の関わり方し かできないって。」
 「そうなんだ。川田に村崎を求めることできないんだ よ。俺だって、重村にはなれないんだ。で、気付いたんだ。 教えることが、ひとりよがりになっていることに。」
 「ひとりよがり?」
 「まあ、独善的というか、自己中心的というか。教わ る側が何をどこまで望んでいるかを考えずに、自分が望ん でいることを押し付けていたんだな。」
 「誰かそれが嫌でやめたんですか。」
 「いや、そうなる前にやめたやつなら、何人かいるん だけど…。まあ、俺は気付いたんだ。教える側と教わる側 の信頼関係が大事だということに。だから、教える側の目 標を伝えて意見を返してもらうようにしているんだ。そし て、自分自身で考えられるように、自分自身で工夫できる ように、自分自身で楽しさを見つけられるように、そのた めの基礎の確立をはかりたいと思っているんだよ。」
 「高橋さんは、かるたに対して精力的に取り組んでま すよね。松島の楽しみ方なんて、今の話のままじゃないで すか。仕事も忙しいって聞きましたけどよく続いてますよ ね。」
 ミツオは、松島の理屈好きは高橋の影響だと思ったが、 別のことをしゃべっていた。
 「いや、松島にはせめて初段格くらいになってほしか ったんだけど…。それを言うのはやめよう。まあ、確かに 忙しい中、我ながら、良く続けていると思うよ。就職して やめるやつは多いからな。仕事が忙しいと練習できなくな るだろ、そうすると弱くなる。後輩は強くなる。今まで軽 くあしらっていた後輩に負ける。取り続けるのが、嫌にな る図式だよな。強かったやつだと自分のピーク時のイメー ジのような取りができなくなって嫌になるっていうのもあ るよな。西寺とか古賀なんかそうじゃないか。才能あるの に惜しいよな。」
 「プライドが高いんでしょうね。だからこそ、強かっ たとも言えますけど。」
 「仕事に密着した趣味を持つと、ますますかるたから 遠ざかるよな。俺は自分でも、ふと何故いまだに続けてる んだろうって思うことがあるよ。」
 「で、高橋さんの結論は?」
 「結局、『好きだから』としかいいようがないんだよ。」
 「そうですね。私が、たまにかるた取りたいって思う のもきっと『好きだから』なんでしょうね。」
 川田が相槌を打った。
 「ということは、僕がずっと初心者のまま続けている のも、その状態が『好きだから』でしょうね。」
 松島も続けて同意する。
 「『好きだから』……、か。」
 ミツオは、この言葉を噛み締めながら、ジョッキのビ ールをグイッと飲み干していた。


  Copyright:Hitoshi Takano

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