「慶應義塾と原敬」(4月8日)

慶應義塾と原敬。両者のあいだには意外にも深い関係があります。

 『三田評論』4月号の巻頭随筆「丘の上」に「慶應義塾と原敬─平民とリアリストの系譜」を寄せました。慶應義塾と原敬のあいだには、意外にも深い関係があります。

 原がはじめて定職を得たのは23歳のとき。就職先は福沢系のジャーナリストが多く拠る『郵便報知新聞』でした。なかなか学びの場が定まらず、ようやく入った司法省法学校も2年で退学処分。ようやくつかんだ安定の場所でした。原は同僚に誘われて三田演説会で弁士としてのデビューを果たすなど、福沢系の言論空間に親近していきました。

 そこに明治14年の政変が起こり、矢野文雄、尾崎行雄、犬養毅といった同世代の論客が政府を退いて同社に流れこんできます。肌があわなかったのか、これだけの著名人が並んでは余地がないと思ったのか、原は政府系新聞に転じ、ついで政府に引き入れられました。

 それから10年。陸奥宗光外相のもと、外務省通商局長として活躍する原が居を定めたのは、三田からほど近い芝公園でした。ちょうど港区役所、いや慶應薬学部の裏側、今の全国たばこビルのあたりです。ヘビースモーカーであった原の故地に全国たばこビルというのは因縁を感じずにはいられません(1階に町中華が入っているのも、中華料理が大好きだった原の、、、いや、まさか)。

 ここに決めたのは、利便性に富んだ場所でありながら土地が東京府のもののためリーズナブルに借りられたことが大きいようです。とはいえ、すでに陸奥と出会ったあとの原です。向かいに板垣退助邸、2ブロック先に自由党本部という立地には、いずれは政党政治へ、その際の利便性を考えてということがあったように思われます。

全国たばこビル。ヘビースモーカーだった原の故地にたばこビル。

 自由党本部はそのまま立憲政友会の本部となり、東京タワーのあたりにあった三縁亭や紅葉館といった料亭とともに、芝公園一帯は政友会エリアとなっていきます。このあたりは佐藤信さんの『近代日本の統治と空間』に詳しく書かれています。そうして原は芝区の名士となっていきます。

 そうしたこともあって、慶應との関係が再びつながっていきます。まず、嗣子の貢(みつぎ)が、この家から慶應に通います。原が首相になると、芝区民による祝賀会が行われ、さらに慶應の学生による祝賀会と演説会も三田キャンパスで開かれます。原は福沢の縁説を惹きながら往時を懐かしんで学生に語りかけました。

 翌年、大学令が施行され、慶應は早稲田とともに正式に私立大学として認可されます。これは原個人ではなく、高等教育の充実を図る原内閣の成果ですが、慶應の歴史を考えるうえでは大きなポイントに原がかかわったということになります。

 『三田評論』の方は、もう少しがっつりした話を書きましたので、こちらは余滴として記しておきます。本誌の方もご覧いただければありがたく存じます。

『三田評論』2022年4月号

 


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