中間選挙において、大敗を喫したクリントンは、一体どのような政策的転換を 行ったのだろうか。この章では、それを焦点に見ていくことにする。
中間選挙の結果は、端的に言って、中産階級の無党派層、すなわち92年選挙に おいてロス・ぺロー氏を支持した人々、の期待を裏切り、彼らにそっぽを向か れてしまったということだ。彼らには、第1期クリントン政権前半において、 クリントンの行った政策は、リベラル色が強く、受入難かった。
つまり、彼らには保守的傾向が強かった。また、中産階級の無党派層が多く、 彼らの意見を如何に汲み取るかが、選挙結果に左右するということも言える。 それら二点が、今後のクリントン政権の政策の鍵となる概念である。
中間層を取り込むため、中道路線的な色を強めていくこと---それは、クリ ントンが正常な議会運営を図るために、共和党の穏健派を取り込みすることは 戦略上当然の事であり、また同時に、再選へ向けての選挙対策にもプラスとな るので、まさに一石二鳥の方策だったのである。
他方、共和党内でもギングリッチの様な右派とドール上院院内総務に代表され る穏健派は、基本路線では意見を同じにするものの、折り合いがうまく行って いなかった。右派は「アメリカとの契約」に代表されるような徹底保守路線で あり、穏健派はそれに対し、「やりすぎ」というイメージを持っていた。実際、 下院で通った法案が上院で否決されるというケースもあり、その対立を物語っ ている例だと言えよう。
そのような、共和党内の対立もあいまって、クリントンは中道路線化を非常に
行い易い状況にいたと考えられる。
実際、選挙後の95年一般教書では、「新たな契約」を提唱し、「小さな政府」 の実現や、アメリカにとっての中間層の重要性を強調し、彼らへの減税を提唱 し、早くも中道化路線・中間層取り込みに掛かっている。また、96年一般教書 では、さらに中道化路線を強化し、財政均衡に向けての支出削減や、家族の価 値の尊重などにも触れ、保守的中間層の支持をさらに狙っている。
92年〜94年の間に話題になった公的医療制度改革は、抜本的改革を避けており、 大分鳴りを潜める結果になった。その代わりに争点となったのが、メディケア・ メディケイドであり、それが共和党との妥協点となり、96年8月の福祉改革法 成立に至っている。
最も大きな争点となったのは、均衡財政である。予算の支出削減を巡ってクリ
ントンと共和党が対立し、予算が決定せず95年に連邦政府関連の公的機関がス
トップするという状態にまで陥った。その時点では、クリントンは予算案妥協
への努力をしていると国民の6割(ニューヨークタイムズ世論調査)が考えて
おり、それに対抗する共和党(特に、強硬な右派)への支持率は低下した。
以上の様な流れにより、クリントンは中間層の支持を確実に集め、また共和党
は中間選挙で得た支持を失うという結果になり、選挙前には「クリントン絶対
有利」とまで言われるようになったのである。