1949年の共産革命後の中国とアメリカとの関係は、1960年代に入っても、悪化
したままだった。もちろん当時はアメリカにとっての中国は台湾であり、中国
は朝鮮戦争を戦った敵国だった。アメリカとの直接対決の他にも、1958年の中
台危機による緊張、1960年代後半に行なわれた北ベトナムへの公然の肩入れな
ど、中国はまさに毛沢東が言う「中国は世界革命の中心のみならず世界革命の
兵器工場となる」とおりの役割を果たし、アメリカ(彼らはアメリカを米帝国
主義と呼んでいた)と対決していたのだ。
毛沢東が押し進めた外交は、国際社会を革命勢力と反革命勢力(アメリカ、ソ連) とに分け、対立を鮮明にしていた。それが根本的に変わっていく契機となった のが、キッシンジャー(1971)及び翌年のニクソン訪中であった。 これにより、中国はソ連の覇権主義に対抗するために西側との結び付きを始め ていくが、この方針転換を表しているのが1974年の国連資源特別総会で 行なわれた登小平による演説で、それによると米ソを第一世界、アジア・アフ リカ、ラテンアメリカなど発展途上国を第三世界、日本、東ドイツ、カナダ など近代化された資本主義国・社会主義国を第二世界とし、 第一世界対第三 世界の対立抗争が国際社会の基本構造と言う考えが示された(三つの世界論)。 この考え方は、文革期の対立構造を一歩進め、より国際情勢に適応したもの と言えるが、対立抗争を国際政治の基本としていることや、覇権国家を規定し ているところなど、毛沢東主義からの抜本的な政策転換を示しているとは言い 難い。