1976年年9月の毛沢東死去後、登小平の影響力は徐々に増大していったが、即
座に毛沢東の政策を大転換するということは不可能であった。その間の米中関
係も、ある意味「政略結婚」的な雰囲気が強く、1973年にキッシンジャーが訪中
し、連絡事務所の設置が決まったり、1975年にフォード大統領が訪中したりとい
う程度で、あくまで国際政治が主であった。
登小平が中国指導部で実権を握ったのは、1981年の第6回中央委員会総会で あるが、彼の外交姿勢は1982年の第12回党大会での「独立自主外交路線」とい う形で明らかになった。1979年のアメリカとの国交回復、翌80年の中ソ友好同 盟相互援助条約の正式な破棄などを通して、ソ連との特別な国家関係を解消す るなど、そこには以前の毛沢東的外交とは明らかに違った、以下のような方針 転換が見られる。
つまり、この方針転換は、経済発展を国の第一目標に定めた登小平にとっての 外交政策と言えるものなのである。登小平は外国からの資本・技術の導入が中 国の近代化のために必要だという立場を取っており、特に西側各国との良好な 関係は不可欠のものであった。