自分が「考える」ことの中心にいる。
2010.10.27 Wednesday 21:27
井庭 崇
クリストファー・アレグザンダーの『A Pattern Language』(邦題:パタン・ランゲージ)に、次のような言葉がある。
In a society which emphasizes teaching, children and students --- and adults --- become passive and unable to think or act for themselves. Creative, active individuals can only grow up in a society which emphasizes learning instead of teaching.
教えることを重視する社会では、子供や学生??また大人でさえ??が受動的になり、自分で考えたり行動できなくなる。教えることではなく、学ぶことを重視する社会になってはじめて、創造的で活動的な個人が育つ。
これは、"Network of Learning"(学習のネットワーク)というパターンの冒頭の文章である。まったくもってその通りだと思う。
教えよう、教えよう、とすればするほど、教えられる人はますます受け身になり、「与えられる」ことに慣れてしまう。これは、「教育」という営みが元来抱える葛藤だと言えるだろう。
そんなことをわかっていながら、僕はついつい「教える」モードになりがちで(基本的におせっかいなのだ)、その結果、学生たちの「自ら考える力」を弱めてしまうことが多い気がしてならない。
そういう背景(コンテクスト)があるので、先日書いた「教育しようなんて考えを、僕は捨てることにした。」という話になる。
さて、逆の立場からすると、「教えられない」「与えられない」としたら、どうしたらよいのだろうか?
自分で考え、行動し、学ぶ。
このことに尽きる。
自分が今、考えるべきことをしっかり考える。
自分が今、何を考えるべきかも自分で考える。
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