詩、小説、そしてパターン・ランゲージ

2013.02.13 Wednesday 21:06
井庭 崇


パターン・ランゲージは、内から創造を支える言語。パターン・ランゲージを書くということは、そのような生成力(generative power)をもつことばを生み出すということである。

パターン・ランゲージを書くということは、読者の想像力を引き出しイメージをつくり出す生成力をもつという点で、小説や詩を書くことに通じる(この関係性については、僕だけでなく、リチャード・ガブリエルも語っている。彼は、ソフトウェア分野のパターン・ランゲージの大御所の一人だが、ソフトウェア・エンジニアであるとともに、詩人であり、写真家でもある。彼こそが、パターン・ランゲージの世界に、詩や小説の分野の「ライターズ・ワークショップ」を取り入れた張本人である)。

文学とパターン・ランゲージとの違いは、読者がある分野においてデザインを支援することにある。パターンは、自らの問題を発見・解決するための記述形式になっているのだ。

つまり、小説や詩が、ひとつの世界を表現したひとまとまりのパッケージだとすると、パターン・ランゲージは、読者がデザインするための操作可能性をもったブロックのようなものだ。

また、小説や詩は、読者を違う世界へと連れて行く、いわばヴァーチャル・リアリティ(事実上の現実)の表現である。パターン・ランゲージは、読者は自分の世界にとどまり続け、それと重ねながら現在や未来を違う風に見せるという、オーギュメンテッド・リアリティ(AR:拡張現実)の表現だと言える。

小説や詩では、読者は読者にとどまるが、パターン・ランゲージでは、読者はそれを用いたデザイナーになる。パターン・ランゲージをつくるということは、すなわち、デザインをデザインするということである。ここに面白みと難しさがある。


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