Creative Reading:『言葉の外へ』(保坂 和志)

2014.12.24 Wednesday 23:17
井庭 崇



たとえば私が友達について語るとき、その友達からしか得られない生き生きとしたものを伝えるために、私はみんなが共通に知っている言葉しか使うことができない。友達のためにすべての形容詞を作り、新しい文法まで作ったら、誰にも理解されない。理解されるためにはつまり、友達をいったん一般性(という一種の“死”)に還元しなければならないのだ。
自然を見て感動したときだって同じで、感動した自然を語るのに感動していないときと同じ言葉しか使うことができない。そのときにあった内的な力や音楽的な高揚は再現することができない。


そして、次のように続く。

私達は客観的な、冷めた、科学的な言葉によって物事を認識することがあたり前だと思っているけれど、科学的な言葉とはつまりは機械論的な世界観のことであって、その中ではじつはすべてが死んでいる。本来の世界とは、明晰な記述と無縁の、力の場なのだ。きっと。


よく「小説」(芸術)と「科学」は対置される。しかし、この二分法を超えることはできないのだろうか。このことこそが、僕がパターン・ランゲージ(またはフューチャー・ランゲージ)で挑戦しようとしていることなのだと思う。そして、同じようにクリストファー・アレグザンダーも挑戦しているのだと思う。

僕にとっては、小説は世界観を共有するにはあまりにも重たい表現だと思ってしまう。

小説というのは本来、作者と読者が一緒に考えていくもののことだ。評論のように抽象概念だけを使って考えるのではなくて、読者の経験の中でじゅうぶんに思い当たる具体的な情景の中で一緒に考える。


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