Creative Reading:『言葉の外へ』(保坂 和志)

2014.12.24 Wednesday 23:17
井庭 崇



だからこそ、「芸術作品というものが、作るのにも受け取るのにもすべて、その人の経験と現在の思考を動員することを要請している」のである。

曖昧であることは解釈の幅を生み、〈帝国主義〉でも〈共産主義〉でも何でもかまわないが、大きな概念に回収され、利用されてしまう契機となる。小説はそれに抗して「簡単に要約できないもの」を生み出すことで、評論とはそれに着目する作業だ。作品に描かれたことが、作品を離れて一人歩きせずにあくまでも作品を読むという行為の中に繋ぎ止められることが、小説の生命なのだ。


まさに。この「作品を通じてしか感じとれない・考えられない」というのは、たしかに僕にとっても魅力である。

しかし、それと同時に、既存の表現とは違うかたちで、対置される二つの存在の間(あいだ)から、新しい方向に向かうことはできないのだろうか。そこに僕は関心がある。

先ほどの例で言うならば、「友達のためにすべての形容詞を作り、新しい文法まで作ったら、誰にも理解されない。」というが、ギリギリ理解できるかたちで「友達のためにすべての形容詞を作り、新しい文法まで作った」らどうなるだろうか。新しい言葉・言語ではあるけれども、より「いきいき」を捉えることができ、かつ理解可能なギリギリのラインを狙う。そういうことを、パターン・ランゲージやフューチャー・ランゲージで、僕は挑戦しているのだと思う。

本書の別の箇所で、「知る」とは何かということを書いている箇所がある。ここがまたいい。「知る」ということは、「それは私にとって「生きる」を意味している。」という。まったくもって同感であるが、このことを実にわかりやすく表現してくれていた。

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