Creative Reading:『言葉の外へ』(保坂 和志)

2014.12.24 Wednesday 23:17
井庭 崇



「進化論を知る」とは「進化論を生きる」のことであり、「構造人類学を知る」とは「構造人類学を生きる」ということで、もう少し丁寧にいうと「進化論を生きる」とは、「はじめにそれを言ったダーウィンのように世界が見えるようになる」ことであり、「構造人類学を生きる」とは「レヴィ=ストロースのように世界が見えるようになる」ことで、レヴィ=ストロースの『悲しき熱帯』を読んで感心したのはレヴィ=ストロースにとって目にするものが本当にすべて「構造」のレベルに還元されていることだった。紋様を見ると彼はそれの装飾的要素をいっさい取り払って最もシンプルな幾何学図形に還元し、家族構成を聞けばそれがほかの家族とどのような交わり方をしているかにごく自然に、これもまた幾何学図形的に還元する作業をしていて、不断のこの作業というか性癖がなければレヴィ=ストロースはない。


まさにそういう「認識のメガネ」を、パターン・ランゲージによって実現したいのである。(ちなみに、ここで挙げられている例と同様に、僕はニクラス・ルーマンの「社会システム理論を生きる」ということを実感してきた。それは、「認識のメガネ」として実際に世界を見る目を変えてくれた。)

そして、この世界観の話は、哲学の話へとつながる。保坂さんのこの本においても、小説とは何かだけでなく、哲学とは何かという問いが登場する。

しかしだいたいにおいて、哲学というのは、もともと何か、世界なり概念なりを解析的に記述し、定義を辞書的に定着させる要請によって生まれたものだったのだろうか。そのような「世界を定義したい」という意思の産物なのではなくて、哲学とは、「世界を実感したい」という熱意の産物だったのではないだろか。


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