パターン・ランゲージを編み上げることは、小説を書くことに似ている。

2015.01.11 Sunday 22:37
井庭 崇


なぜここ数年「小説を書く」ということにずっと興味がある。それは、僕もそろそろ小説を書きたいなぁと思っているからではない。そうではなく、パターン・ランゲージを編み上げることが、小説を書くことに似ていると感じているからである。いくつものパターンを組み合わせ、ひとつの全体としてのパターン・ランゲージを仕上げるときにやっていることが、小説を書くことに似ていると感じるのである。これは、直観的に感じているということであって、まだ論理的に説明できるレベルにはないが。

僕は小説を書いたことがあるわけではないし(自作映画のストーリーのようなものはいくつか書いたことがあるけれども、それらは小説ではない)、パターン・ランゲージは小説ではない。しかしながら、小説家が「小説を書く」ということについて語っているものを読むと、自分がパターン・ランゲージを仕上げるときに行っていることに近いと感じるのである。


井庭研でパターン・ランゲージをつくるとき、僕は、映画で言う「プロデューサー」(製作総指揮)のような立場をとる場合と、「ディレクター」(監督)のような立場をとる場合の二種類がある。

プロデューサーとして関わったのは、Generative Beauty Patternsやチェンジ・メイキング・パターン、パーソナル・カルチャー・パターンなどである。プロデューサー的に関わるというのは、あくまでも、作品としてのパターン・ランゲージは、学生メンバーのリーダーのセンスでまとめあげてもらい、僕はその環境を整えたり、それを世の中に出す手助けをすることを行う。

ディレクターとしてつくった、ラーニング・パターン、プレゼンテーション・パターン、コラボレーション・パターン、旅のことば(認知症とともによりよく生きるためのヒント)である。パターン・ランゲージ作成プロジェクトでにディレクターをするときには、チームでつくってきた作品の細部に至るまで、しっかりと自分のセンスに照らして仕上げていく。具体的に言うと、すべての文章に手を入れ、すべてのイラストに手を入れる。もちろん、それまでにもずっと指示や要望を伝えてきてはいるけれども、すべてのパターンのすべての項目のすべての文を自分の手で書き直す。

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