Creative Reading:『小説の自由』(保坂 和志)

2015.01.17 Saturday 00:03
井庭 崇



それゆえ、

小説は読んでいる時間の中にしかない。(p.89)

のである。しかも、作者も読者と同じように、初めて文字になったものを読むことでその現前性に触れることになるという。

あたり前のことを言うようだが、文章というのは実際に文字で書いた状態を目で読まないかぎり感触が確かめられない。それは書いた一行一行から来る現前性の問題で、直前に書いた文を読むとき作者は読者と同じく、はじめてその文を読む。文がまだ頭の中にしかないときには、そこにある要素の現前性の感触を作者自身得られていない。(p.287)

だからこそ、自分で書いた論文やパターンを、何度も読み直して、そこに確かな手応えがあるかどうかを何度も確認しなければならないのである。他の人の書いた論文を何度も赤入れするとき、よく感じる疑問は、その書き手が本当にそれを「読み直して」いるだろうか、ということだ。

こういうと、「もちろん何度も読み直していますよ」と答えるだろうが、ここで問うているのは、本当の意味で「読み直している」のかということである。ただ文字面を目で追い、なでるように見ているだけで、そこで気にしているのは文章が表現として成り立っているか、頭のなかで考えていたことと一致しているか、ということではないか。「読み直す」ということは、それでは足りないのである。

小説とは書き手と文字として書かれたものとの休みないかけひきの産物なのだ。(p.152)


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