Creative Reading:『小説の自由』(保坂 和志)

2015.01.17 Saturday 00:03
井庭 崇


書かれた文章は書き手のイメージの写しではない。(p.153)

書かれた文章は書き手のイメージの写しではなくて、書き手は半分は書かれた文章からその先を書くヒントを得る。という意味での「かけひき」だ。(p.154)

自分が書いたものは、自分の頭のなかにそこに書かれたことに対応する内容がすでにある。ところが、読者のように「読み直す」ということは、その頭にある内容を知らない振りをして、初めて読む人になりきって文章を読むということである。そして、その内容を飲み込み、理解し、味わうということを実際に行うことである。これは、単に文字面を表現のレベルでなでているのとは違う。その文章に初めて出会い、初めて読み、初めて理解するということなのである。自分で書いた文章であるにもかかわらず!

小説とは、絵画や彫刻や音楽や映画や演劇やダンスや詩や……それらと同じく芸術なのだから、運動が不可欠な要素としてある。ただ、詩も含めてここに列挙したすべてと小説が違っているのは、小説の運動が、字面という視覚的なものや言葉の響きという聴覚的なものなど、感覚的身体的な、即物的な次元を頼りと刷ることができず、すべての文字が頭の中で処理されるその過程で生まれるということだ。(p.319-320)

小説家が頭のなかにイメージをもっていて、そしてそれに対応するものを書いたとしても、言葉は言葉の運動性があるので、単なるイメージのコピーにはならない。そのイメージと無関係であるとは言わないが、文章の側には文章の側の流れや質感が生じる。そうなると、作者は、書いたあとに、それを読み直すことで初めてその文章から立ち上がる情景や世界を感じられるのである。そして、読み直したときに初めて、その言葉たちに世界を立ち上げる力があるのか、質を感じさせる力があるのかが実感されるのである。

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