Creative Reading:『小説の自由』(保坂 和志)

2015.01.17 Saturday 00:03
井庭 崇


その抽象性だけを強調してしまうと、安易な宗教性に陥ってしまうだろうし、作る側は作品にただ“念をこめる”わけでは全然なくて、具体的な作業をつづけてひたすら具体的な物を作るわけだけれど、その具体物によって具体性をこえたものを開こうとしている。(p.232)

この「その具体物によって具体性をこえたものを開こうとしている」というのは、実にかっこいい表現であるが、単に表現がかっこいいだけでなく、本質を捉えている。パターン・ランゲージの内容をただ理解するだけというのは残念なことであって、それが生成する質に向かっていく力を込めることが重要なのである。では、それはどのように「力」を生むのだろうか。

「文体」について書かれている以下の部分が、関係するかもしれない。

小説における文体とは、センテンスの長-短、言葉づかいの硬-軟など、物理的に簡単に測定できるようなもののことではない。(p.334)

散文は韻文とは違うのだ。

韻文は、言葉のリズムであったり響きであったり、言葉の音楽的=物質的な要素を基盤にしていて、意味は音楽性のあとからくるか、音楽性と同時に音楽性に乗って生まれてくるのだが、散文は音楽的要素を基盤としない。(p.334)

それでは散文では何が文体=語り口になるのだろうか。

小説と哲学書は散文で書かれているといってもやっぱりある密度を持っている。その密度によって、読み進めるうちに作品固有のテンポを読者が共有するようになって、読みはじめの段階よりも著者が書いていることの輪郭がはっきりして理解が容易になったり、昂揚したりするわけだけれど、散文における“固有のテンポ”とは音楽性でなく、”思考の癖”とか、”思考を組み立てていく手順のパターン”のようなもののことだ。(p.335)


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