アンリ・ベルクソン『笑い』から考えるパターン・ランゲージのつくり込み
2017.02.06 Monday 22:10
井庭 崇
パターン・ランゲージをつくり込むとき、その内容の素となる「種」は確かに、マイニング・インタビューや自分たちの経験、文献に書いてあることなど、誰かの経験がもとになっている。しかし、それを探究し、掘り下げ、言葉に換えていくなかで、どのような表現にまとまるかは、そのつくり手に依存していると、僕は考えている。これは、同じ事実をみたとしても、作家によって、異なるノンフィクションの作品がつくられるというのと同様の事態だと思う。つまり、そこには、どこを切り取り、どう料理し、どう表現するかというところで「その作家らしさ」が不可避的に入る。「作家性」が反映されるのである。ひろく繰り返し見られるものを、ある一人もしくは数人の作家性(一般性ではない)によってまとめる。
これは、それをつくった作者について強調したいわけではなく、そのようにして生み出されたものでなければ、「力をもたない」と、僕は考えているということである。つまり、ある実践の知を、「状況」「問題」「解決」「結果」の形式で記述し、それに「名前」をつけたとしても、たしかにパターンの形式では書かれているが、それが目指している「名づけ得ぬ質」に向かう後押しをするのかというと、そうとは限らない。形式状は、パターン・ランゲージであっても、マニュアルやレシピに近い、「行為」が書かれているに過ぎないことが多い。そこには、それがもつべき世界観も、質感も備わっていない。
これは俳句を例にとるとわかりやすいかもしれない。人の心を動かし、世界の見え方を変えるような作品としての俳句は、質や世界観を備えている。5、7、5で書いたからといって、俳句になるわけではない。それは、単に、5文字、7文字、5文字で書かれた文章・フレーズに過ぎない。川柳にはなるかもしれないし、語呂は良いのでは覚えやすいものになるかもしれない(交通安全の標語のように)。同様に、パターン・ランゲージも、パターンの形式で書いたからといって、それが人を動かすような力をもつわけではないのである。
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