「創造性資源の枯渇」の時代から「ナチュラル・クリエイティビティ」へ

2017.02.09 Thursday 00:38
井庭 崇


これまであちこちで語ってきたように、僕はこれからの時代は「創造社会」(creative society)と呼び得る時代であると考えている。以前(1998年〜)は「自己革新的な社会」と呼んでいたが、その後(2010年頃〜)「創造社会」という言い方で表現してきた。Consumptionの「消費社会」から、Communicationの「情報社会」へ移り、Creationの「創造社会」に移行していく、というように3つのCの変化で時代の流れを論じてきた。

自分たちで自分たちのモノや環境、仕組み、意味、価値、生き方などをつくっていく時代。誰かにつくってもらったものを消費するというだけではなく、誰もが「つくり手」側にまわることができる時代。すべてを自分でつくるわけではないが、つくろうと思えばつくることが可能な時代。そのような時代を「創造社会」(クリエイティブ・ソサエティ)という言葉で表現しているのである。

この創造社会について、最近違う角度から考えているので、そのことを書き留めておきたい。

社会が多様化・複雑化・流動化するにつれて、新しい状況に対応したり、問題を解決したり、新しいものを生み出したりすることが求められ、これからますますそれに見合う創造性が求められるようになる。しかしながら、これまでのように一部の人が創造性を発揮して、それを多くの人が享受するというやり方ではうまくいかなくなっている。それにも関わらず、多くの人が、誰か天才が現れて一気に解決してくれるというような、ヒーロー待望論のようなものを漠然と抱いているように思う。

20世紀は、エネルギーの時代であった。エネルギーによって産業が栄え、エネルギー資源をめぐり国家間の戦争が起きた。我々の住む21世紀は、クリエイティビティの時代となる。僕は、エネルギー資源のように「創造性資源」(Creativity Resource)と呼んでいるが、創造性資源こそが鍵を握ることになる。エネルギーの獲得と同様に、クリエイティビティをいかに発掘し、調達し、確保するのかは、個人の生活の意味でも、経済における生き残りにおいても、国家戦略的にも、重要なイシューであり、不可避な課題である。しかしながら、これまでのようなやり方では、「創造性資源の枯渇」(Exhaustion of Creativity Resource)は不可避である。いや、現に枯渇により、問題が生じていると言えるだろう。

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