Vision Cube: 未来の社会をかたちづくる「新しい学問」をつくる
2017.06.20 Tuesday 23:29
井庭 崇
この点について、パターン・ランゲージを例に、もう少し論じておこう。パターン・ランゲージは、「狭義の“科学”」的な基準ではなく、「事実/価値を不可分とする」ことを重視している(井庭崇 編著『パターン・ランゲージ』第1章参照)。パターン・ランゲージのつくり手は、自らを透明な外部観察者・外部記述者として位置付けたりはしない。その代わりに、「何がよいことなのか」「どういうことがおすすめされるべきか」ということについて、自ら(自分たち)の価値判断をくぐらせる。多くの人がしているからといって、それがよいと思えない(おすすめできない)のであれば、それは共有すべきパターンにはならないだろう(パターンにはしないだろう)。逆に、少数の事例に見出されたものであっても、多くの人に知られるべきであると判断されれば、それはパターンになるだろう(パターンにするだろう)。
このように、自ら(自分たち)の価値判断をくぐらせるということは、「狭義の“科学”」の立場から見れば、もろく危ないやり方に映るというのは理解できる。しかし、事実/価値は本来的に不可分であると考える立場からすれば、本来できないことをできるかのように振る舞うことの方が欺瞞であると思う。
いまパターン・ランゲージについて述べてきたことをより理解するために、ノンフィクションのドキュメンタリー作品をつくるというメタファーを取り上げたい。ノンフィクションであるからには、何らかの「事実」に基づいて作品がつくられるのは当然である。しかし、その事実のどこをどのように表現して伝えるのかは、そのつくり手に委ねられている。より明確に言うならば、そのつくり手の価値をくぐらせることになる。それはネガティブなことではなく、それこそがドキュメンタリーのつくり手の力量であり、特徴となる。ドキュメンタリー作家は、透明な存在ではない。そうではなく、その作家の価値判断を通して取捨選択され、強弱がつけられている(このことは、すべてのマスメディアも同様である)。
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