アレグザンダー、ヴィトゲンシュタイン、ハイデガー:『仏教が好き!』を読んで

2018.03.31 Saturday 10:18
井庭 崇



この箇所で、ヴィトゲンシュタインとハイデガーについて語られたところを読んで、興味深いことに気付いた。

「『言葉にならないものは沈黙しなさい』というヴィトゲンシュタインのような哲学者もいる。われわれのできることはせいぜい言葉でまわりをめぐることで、中心の言葉にならない領域に関してはもう『黙れ』と。そのとき、ヴィトゲンシュタインはどこにいるのでしょう。彼の心は、この中心にいまあす。ただ、そこについては黙ろうとしている、黙らなくてはいけないという認識をもたらすものがある。」(p.188)
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「ハイデッガーが「存在」とか言うじゃないですか。『在る』とか。あれは言ってみれば真ん中のすぱんと抜けたところを『在る』と言っているわけですよね。」(中沢, p.187)

「ところがわれわれは『存在』ではなくて『存在者』だから、まわりをぐるぐる回っているに過ぎないものなのに、中心部には『在るが在る』というふうに彼は言うわけですね。何でそのことをみんな驚かないのかと。」(中沢, p.187)

「『私』はその『在る』の中心部にいる。彼は踏み込む。そこからいろいろな言葉が紡ぎだされて来る、その中心点から、あの独特の言葉と思考がつぎつぎと湧き出てくる。」(p.188)


クリストファー・アレグザンダーは、『時を超えた建設の道』では、質そのものについては沈黙した(質を生成するパターンについては語った)という意味でヴィトゲンシュタイン的であり、『ザ・ネイチャー・オブ・オーダー』では、その質に踏み込んで語った(センターとその関係性を捉えた15の基本特性)と言う意味で、ハイデガー的であるといえるだあろう。『時を超えた建設の道』から『ザ・ネイチャー・オブ・オーダー』へのアレグザンダーの変化は、ヴィトゲンシュタインからハイデガーへ、ということで捉えられるのかもしれない。

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