2018.03.31 Saturday 10:30
井庭 崇
「禅宗なんかが、悟りと言っているのがそれだと思います。禅は人生の空虚をどうやって分離していくかという、「わざ」を教えている。「空」が、自分の目や鼻から出入りしている、そういうふうにして、自分はあるということを知ることです。ですから、悟りを得るといっても、完全解脱【げだつ】とか、絶対幸福の中に移ってしまうのは、まだ宗教としては未熟な、途中のものだと思います。宗教はそれをこえていく必要がある。自分の抱える空虚をちゃんと心の中で分離して、距離をうまくつくりだすことができれば、それで人間ができることとしては十分なんだということしか禅は言ってない。しかしそれが言えるということが宗教の究極なんじゃないかしら。」(中沢, p.124)
「宗教というのは、宗教としての極点を登りつめたら、ナチュラル・ウィズダム(Natural Wisdom)みたいなものに向かって自分を開いていくものだと思うのです。だから、宗教の体系とか哲学とか、とにかく極めるだけ極めちゃったら、もうそれは全部捨てて、解体して、自分もナチュラル・ウィズダムのほうに開いていくものだという考えですね。ボン教の人たちを見ていると、ナチュラル・ウィズダムを出発点にして、宗教に行かないんですよね。仏教のような宗教へ行かない。それが、アメリカ・インディアンの世界観とよく通じています。」(中沢, p.133)
<< パターン・ランゲージは、一人称・二人称・三人称を総動員してつくる
純粋経験、行為的直観、ポイエシスへの興味:佐伯啓思『西田幾多郎』を読んで >>
[0] [top]