純粋経験、行為的直観、ポイエシスへの興味:佐伯啓思『西田幾多郎』を読んで

2018.03.31 Saturday 10:38
井庭 崇


僕の研究・実践と、日本の哲学である西田幾多郎の思想との関係を考えたいと思っているので、まずは手始めに、本人の著作ではなく、それを取り扱っている本から読んでみようと思い、佐伯啓思さんの『西田幾多郎:無私の思想と日本人』を読んだ。

この本は、本人も、「もとよりこれは西田哲学の解説書ではなく、私自身の関心と西田哲学を交差させた評論的エッセイです」(p.255)と言っているように、西田幾多郎の入門書というよりも、西田幾多郎の話を取り上げ、それと絡めながら佐伯啓思さんの考えを述べている本である。

なので、まずは西田幾多郎の人物や概念を勉強するというよりも、どこがどう面白いと思われ、どう活かされているのかを知りたいと思っているので(きわめてプラグマティックなスタンスである)、その目的に合う本であった。

西田の「純粋経験」「行為的直観」「ポイエシス」などの概念がどのようなものなのか、ぜひ原著にあたってみたいと思った(こういう本での解説は著者の解釈のフィルターを通ったうえでの説明なので、それがそのまま原義だと思うべきではないため)。

まず、おなじみのこういう話題から。

「西洋思想では、この「私」という「主体」は決定的に重要なもので、「私」という「主体」が自然に働きかけて、自然をコントロールしたり、社会に働きかけて理想社会を実現したりしようとする。」(p.58)

「しかし、日本の思想には、どこか、「私」を消し去り、無化してゆく方向が色濃くただよっています。「主体」というものを打ち出さないのです。これは、言語的にいえば、日本語では、しばしば主語を省略したり、主語を重視しない、という点にもあらわれてくるでしょう。和歌や俳句でも通常、主語はありません。一場の情景と、その場に溶け込んだ詠み手の感情が一体化して切り詰められた言葉に乗せられるのです。むしろ、私を消し去ったところに、自然と一体となったある情感や真実を享受されると考える。」(p.59)


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