2018.03.31 Saturday 10:30
井庭 崇
「ナチュラル・ウィズダムに、ちょっとだけ体系化の手を加えるんだけど、その体系化は神話のレベルぐらいにとどめといて、けっしてきちんとした宗教をつくらないんです。・・・現代のアメリカ人はそのインディアンの世界に、精神的な遍歴の果てに辿りつこうとしている。宗教とか国家とか文明とかを辿り尽くして、極限まで来て、さあここからどちらか別のところへ向かわなきゃいけないという時、そういうものを解体して、放棄していく方向へ行こうとしている。その向こうにナチュラル・ウィズダムみたいなものが開けているんだろうなと、僕は感じとれるんです。」(中沢, p.133-134)
「神話には、とにかくある論理があって、世界観や論理を組み立てていくけれども、そこからこぼれちゃう経験があって、それを全部拾い集めてくるのが儀礼じゃないか。だから神話と儀礼を対立させるなんていうのはだいたい間違った考え方で、神話も儀礼もいっっしょくたになった人間の経験の領域があるんだ。現代人は、それを小説のような物語でやったり、映画で解消しようとしている。・・・神話はそれだけが自立しているのではなくて、神話では語れないものがある、夕日の輝きそのものを取り出す語りであったり、踊りであったり、あるいは詩のようなものだったりするものが、神話を取り囲んでいる。そういうものの全部で、神話世界は構成されているんだという考えですね……」(中沢, p.140)
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