純粋経験、行為的直観、ポイエシスへの興味:佐伯啓思『西田幾多郎』を読んで

2018.03.31 Saturday 10:38
井庭 崇



西田は、体験そのものである「純粋経験」を振り返るときに初めて「私」というものが出てくるという。「私」が「経験」するのではなく、「経験」が「私」を生みだすのです。経験があるからこそ、それを反省的に理解して、そこに「私」がでてくるわけです。

「個人あって経験があるのではなく、経験あって個人あるのである」(『善の研究』)というわけです。」(p.57)

「「私」という主体や自己意識があって、行為を組み立てるのではなく、ただ行為のなかに自分が表現されているだけ、と考えている。」(p.103)


この、「私」が主体として先行するのではなく、「経験」がそのままあり、「行為」をすることに付随して「私」が出てくるということだという発想は、パターン・ランゲージで行為が支援され実践されることで、自分らしさが出てくるという僕たちの考えに通じるものがあると感じた。

さらに、心的システムの作為による創造ではない「無我の創造」や、ティク・ナット・ハン師が言う「対象と一体になる」という話に通じる話も出てきた。

「西田は「物となって考え、物となって行う」といいました。そしてそれをまた「行為的直観」ともいいました。」(p.98)

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