純粋経験、行為的直観、ポイエシスへの興味:佐伯啓思『西田幾多郎』を読んで

2018.03.31 Saturday 10:38
井庭 崇



「西田のいう直観は、・・・何ものかに憑かれ、それこそ突き動かされ、そこにもはや「私」は「我」の意識が入る余地がないような行為のなかでこそ、人は行為や存在の意味を直観として把握する、ということなのです。」(p.99)

「たとえば画家が、絵具をもって「ひまわり」という対象(もの)に向かい、キャンバスにある「形」を生みだす。この時、絵になるべき「ひまわり」の図像があらかじめ頭に描かれているのではない。彼は、ただ「ひまわり」に触発され、それに肉薄しようと「私」など消し去って、ただひたすら絵筆を動かしているのです。しかし動かすことでまた「ひまわり」が直観されてくるのです。ここでは「描く」という行為と「もの」の本質直観は決して切り離された別々のものではない。その場合に、重要なことに、このような行為的直観にあっては、まずは自我を消し去り、無化しなければなりません。対象と自分を一体化しなければなりません。
 それが「ものになる」ということです。その時に、いわば意識の見えない奥底にある「鏡」(無の場所)に、その「もの」の本質が映し出されてくるのです。「もの」を映し出すということは、また、「もの」を通して「私」を映し出すことなのです。」(p.102)


そして、次のような話がでてくるということで、西田幾多郎の『日本文化の問題』という本も、僕は読むべきだと思った。

「ここで西田が強調していることは、日本文化の核心とは、己を空しくし、無私や無我にたって事物に当たる精神だというのです。己を無にして「物となって見、物となって行う」ということです。私心も作為も意図も排し、ただ現実に向き合い、あたかも自己を一個の物であるかのように、己を現実に差出し、やるべき働きを行う。・・・たとえば、次のようにいう。

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