純粋経験、行為的直観、ポイエシスへの興味:佐伯啓思『西田幾多郎』を読んで

2018.03.31 Saturday 10:38
井庭 崇



「私は日本文化の特色と云うのは………何処までも自己自身を否定して物となる、物となって見、物となって行うと云うにあるのではないかと思う。己を空うしえ物を見る、自己が物の中に没する、無心とか自然法爾とか云うことが、我々日本人の強い憧憬の境地であると思う。……日本精神の真髄は、物に於て、事に於て一となると云うことでなければならない」

自己を否定し、私を排し、無心になって、対象と自己を一体にする。自分自身が物となる、こうしたことは芸術活動などを考えればわかりやすいことだし、あるいは、一幅の絵を見、茶碗をめで、桜に感動するといたいかにも日本的な美的な文化を取りだせばよくわかることでしょう。」(p.172)


そして、西田幾多郎は「ポイエーシス」ということを言っているので、オートポイエーシスや創造実践ということを扱っている僕としては、そのあたりのつながりも考えていきたいところだ。

「「個性」をもった「私」という「個物」は、ただ生まれてそのままで「私」でもなければ「個性的」でもありません。人は生まれたままで個性的なのではない。それは「ポイエシス(制作)」においてこの世界へ働きかけ、創造的力点となることによって初めて「私」となる。」(p.193)

「西田は次のように書いています。

「我々は我々の自己の底に、深く反省すればする程、創造的世界の創造的力点となると云う所に、我々の真の自己があるのであり、我々の自己が、かあかる意味に於いて個物的となればなる程、真の自己となると云うことができる」(「国家理由の問題」)」(p.194)

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