ピュシスとロゴスのあいだ:「生」への道の言葉をつくるパターン・ランゲージ
2018.03.31 Saturday 10:50
井庭 崇
このことは、どちらかが損なわれているパターン・ランゲージは、パターン・ランゲージとしては(少なくとも僕らの観点からは)クオリティが低いと言わざるを得ないということに関係する。つまり、実践の手引きとなるが、いきいきとした側面が抜けている・捉え損ねているパターンは、いかにもマニュアル的な操作・作業の伝達しかせず、いきいきとしたイメージをもらたすことはなく、また実践しても、そういういきいきした状態にはならないであろう。他方、いきいきしたイメージを捉えているが、その実現のための実践方法の分析があまく、ほんわりとしか書けていないとなると、詩のような表現になり、実践を支えてはくれないだろう。
そう考えると、パターン・ランゲージをつくるということは、単なる実践知の記述の便利な方法というわけではなく、ロゴス中心であったソクラテス・プラトン以降の西洋哲学よりも広い視野に立って、ヘラクレイトスまで戻った上で、位置付けを考えるというスケール感で捉えるべきだということである。パターン・ランゲージはピュシスとロゴスを結ぶという大きな挑戦をしようとしている。特に僕らはそれを学問としてやろうとしており、それは近代科学のディシプリンに収まりきらないというのは当然だということになるだろう。それゆえ、僕らは、哲学のレベルから考える必要があり、しかも西洋哲学に収まらない広い視野で、東洋の哲学や、人類のあらゆる知恵の術まで含めて、考える必要がある。最近、仏教や東洋哲学の本をいろいろ読んで来たことが、ここでつながった感がある。
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