西洋と東洋の思想を行き来して考える:『西田幾多郎:生きることと哲学』を読んで

2018.04.15 Sunday 17:24
井庭 崇


藤田 正勝著『西田幾多郎:生きることと哲学』を読んだ。勉強になったとともに、「無我の創造」やパターン・ランゲージなど、自分がいろいろ考えていることや研究していることとつながり、とても面白かった。自分的に面白かったところを引用しながら、考えたことをメモしておきたい。

ベルクソンの「直観」について西田は、「物自身になって見るのである」と「之と成って内より之を知る」と説明し、自らの立場も次のように述べている。

「我々が物を知るということは、自己が物と一致するというにすぎない。花を見た時は即ち自己が花となって居るのである。」(西田幾多郎『善の研究』)

「事柄は外からではなく、事柄自身になってはじめて把握されるという考えは、初期の思想だけではなく、西田の思想全体を貫くものであった。後期の著作のなかでくり返し用いられている「物となって見、物となって考える」という表現がそのことをよく示している。」(p.60)

ここで言われていることは、僕が「あるべきかたちに従う」という「無我の創造」で言わんとしていることに通じていると思う。ティク・ナット・ハンも、物と一体化するという話をしている。最近、僕も、「無我の創造」を説明するときに、この「つくっているそのものになる」という言い方をするようにしている。そうすることで、「私」を抜くというよりも、感覚的に実際にやっていることが近くなるからだ。つくり手の視点を者の側に移すということではなく、そのものになる。そのものとして世界を認識する。本当はそのものではなく創造システムに従うのだけれども、わかりにくいので、思い切ってつくっているそのものになる(一体化する)という言い方の方がわかりやすいようだ。

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