西洋と東洋の思想を行き来して考える:『西田幾多郎:生きることと哲学』を読んで

2018.04.15 Sunday 17:24
井庭 崇



しかも西田も、この話に関連して芸術の話を取り上げており、さらに共鳴する。

「事柄は外からではなく、それに没入し、それと一つになることによって初めて把握されるという考えが、西田の「純粋経験」論の根底にある・・・そのような経験のモデルを西田はしばしば芸術のなかに求めている。」(p.62)

「たとえば「純粋経験」において主客が人等になっていることを説明するために、「音楽家が熟練した曲を奏する」場合が例として挙げられている。」(p.62)

私がこの曲を演奏するという主客の関係にあるのではなく、「私」という主体の意識がなくなり、曲(演奏)そのものになる、曲(演奏)に成りきるという感覚でことであろう。

「行為そのものに没入した境地において究極の芸術が成立するという考えを西田は早い時期から抱いていた。」(p.65)

僕が小説家と物語の関係を用いて「無我の創造」の話を展開するのに重なる。このあとさらに興味深い話につながっていった。感情ということについて。

「西田は芸術とは何かを問い進めていく上で、最初に重要な示唆を与えたのは、ヴィルヘルム・ディルタイ(1833-1911)の思想、とくにその想像力論であった。」(p.70)

「ディルタイの考えを承けて、西田もまた「感情」をあらゆる精神現象の根底にあるものとして、そしてそれ自身を表出する動的な活動として理解している。「人心の奥深く潜める動く或る物」という言葉で「感情」を言い表している。「感情」は、単なる意識現象の一領野ではない。むしろあらゆる意識現象の根底にあってそれらを支えている。」(p.71)


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