西洋と東洋の思想を行き来して考える:『西田幾多郎:生きることと哲学』を読んで

2018.04.15 Sunday 17:24
井庭 崇



「「絶対の無」はもちろん単なる無ではなく、そこには「深い内的生命」、あるいは「無限なる生命の流」がある。「場所」が自己のなかに自己を映すということが、ここではこの「内的生命」の自己表現、つまり「生命が生命自身を限定すること」として捉えられている。(p.165)

「この「空間的」に、つまり形をもった「有」として固定化できない「無限に動くもの」に目を向け、それを把握し、それを表現しようと試みてきたところに日本文化の特徴がある、というように西田は考えていたと言ってよい。そしてそれを「情的文化」といように言い表すとともに、その特徴について次のように述べている。「情的文化は形なき形、声なき声である。それは時の如く形なき統一である、象徴的である。形なき情の文化は時の如くに生成的であり、生命の如くに発展的である。それは種々なる形を受容すると共に、之に一種の形を与え行くのである。」(p.166)

いま論理だってうまくは言えないが、パターン・ランゲージで僕らが目指しているのは、こういうことであると共感する。

話を西洋と東洋の学問という話に戻すと、西田幾多郎は、「学問的方法」という講演のなかで、次のように語ったという。

「我々は……何処までも世界文化を吸収して発展して行かなければならない。併し我々はいつまでも唯、西洋文化を吸収し消化するのでなく、何千年来我々を孚【はぐく】み来った東洋文化を背景としてあたらあしい世界的文化を創造して行かねばならぬ」(西田幾多郎「学問的方法」)

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