西洋と東洋の思想を行き来して考える:『西田幾多郎:生きることと哲学』を読んで

2018.04.15 Sunday 17:24
井庭 崇



西田は次のように言う。

「私は感情というのは精神現象の一方面という如きものではなくして、寧【むし】ろ意識成立の根本的条件ではないかと思う。」(西田幾多郎「美の本質」)

ここに、クリストファー・アレグザンダーのいう「deep feeling」との関係を、僕が感じる。つまり、表面に表れる感情(エモーション)ではなく、奥底の人間としての深い感情(ディープ・フィーリング)のレベルへの注目。パターン・ランゲージが個を突き抜けた普遍へと至るのは、このディープ・フィーリングの地層まで降りていくからである。


「西田は『善の研究』において、「純粋経験」が何であるかと説明するにあたって、それが「主客の対立」以前の経験であるとともに、「知情意」が一つになった経験であることを述べていた。」(p.72)

パターンを仕上げていくこきに、何をしているのかを説明するのが難しいのは、まさに、ここに書かれているような「「知情意」が一つになった」状態を自分のなかでシミュレートして体感し、その内容と記述を手直ししていく、そういう感覚が僕にはある。


「われわれの自覚的ん意識の根底に、過去の出来事が生き生きと生命を保った「意識の流れ」、現在の感覚と過去の思い出とが直接に結合するような「生命の流れ」が存在することを西田はここで考えている。それはまた、視覚や嗅覚といったさまざま作用が内面的に結びついた場でもある。あるいはまた、われわれが他者の意識に直接触れうるような、「我と彼と身分以前の自我」の場でもある。そのような「意識の流れ」を西田は「先験的感情」という言葉で言い表したのである。西田が「内的生命」という言葉で言い表しているものが、この「先見的感情」と結びついたものであることは、言うまでもないであろう。」(p.74)


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