西洋と東洋の思想を行き来して考える:『西田幾多郎:生きることと哲学』を読んで

2018.04.15 Sunday 17:24
井庭 崇


ここで言われていることこそ、村上春樹が小説を書くときに降りていくという「地下二階」のことではあるまいか。また、河合隼雄が個を突き抜けた普遍に至る奥深い水脈というものであろう。そして、アレグザンダーが、デザインの理を表面的な「好み」(taste)ではなく、奥深い感情(deep feeling)に合うようにつくるべきであるというその人間が共通しているdeepな基層、そのことに通じる話である。こういうことが、日本において、西田幾多郎がすでに語っていたということは大変興味深い。ぜひこのあたりのことは、西田本人の著作を通じて、より理解を深めていきたいところである。


「「絶対意志の立場」ないし「純粋視覚の立場」に立つとき、意識の深層にあった「感情」が物のうちに移され(映され)、色が「生きたる色」になる。あるいは生命によって満たされる。そのように生命に満たされた「芸術的対象」がただちにわれわれの手を動かすに至る、それが芸術的創造作用なのである。」(p.75)

「西田が芸術的創造作用を重視するのは、そのような「感情」が知的範疇を超えたもの、つまり知によっては捉えられないものであるからである。「感情は分析することのできない己れ自身の深い内容を有つ」と言われている。この「感情」の「深い内容」は、それを分析することによってではなく、ただ「之と共に動く」ことによってのみ把握される。芸術はまさにその「感情」の内容とともに動くことによて、それを対象化する働きであると言うことができる」(p.75)


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