西洋と東洋の思想を行き来して考える:『西田幾多郎:生きることと哲学』を読んで

2018.04.15 Sunday 17:24
井庭 崇


僕には、この「分析することのできない己れ自身の深い内容」ということが、アレグザンダーの言う「名づけ得ぬ質」に重なって見える。西田は、芸術とはどういうことかという観点で考えているが、アレグザンダーが、それを一部の人の特殊な行為としてではなく、そこに住む人たちにひらく方法を探究し、パターン・ランゲージというものに託したと言える。

さらに、行為と環境との関係についても重要なことが書かれていた。

「われわれの行為は一面においては、もちろんわれわれの意志に基づく行為であり、われわれの意図を実現する行為である。しかし、ただそれだけにはとどまらない。われわれの自己自身を実現する行為は同時に、「環境が環境自身を限定する形成作用」とも考えられる。「環境」という言葉のもとには、単なる自然の環境ではなく、むしろわれわれ一人一人に対して人格的に行為することを迫る客観的世界 ? ヘーゲルの言う人倫に比せられ、「客観的精神の世界」あるいは「共同的精神の世界」とも呼ばれている ? が考えられている。われわれの行為は、単に自己自身からではなく、むしろこの客観的世界から発現する。そしてわれわれの行為がこの「客観的精神の世界」を作ってゆく。言いかえれば、われわれの行為を通して客観的世界がそれ自身を完成していく。このような意味でわれわれは「社会的・歴史的世界」のなかに生きている。この「社会的・歴史的世界」を西田は「もっとも具体的なる真実在」と考えるのである。」(p.118)


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