西洋と東洋の思想を行き来して考える:『西田幾多郎:生きることと哲学』を読んで

2018.04.15 Sunday 17:24
井庭 崇



そして次のような、西田の「ポイエシス〔制作〕」の話は、より深く理解したいところである。

「西田はまた、この「行為」が単なる身体的な動作ではなく、物を作ること、つまり「ポイエシス〔制作〕」という性格をもつことを強調する」(p.134)

「実践ということは、制作ということでなければならない。我々が働くということは、物を作るということでなければならない。制作を離れて実践というものはない。実践は労働であり、創造である。行為的自己の立場から世界を見るというのは、かかる立場よりすることでなければならない。」(西田幾多郎「論理と生命」)

「われわれの身体は単なる生物的身体ではなく、「表現的」な意味をもつ。表現的なものに動かされ、表現的なものを作りだす。しかし、「制作」は単なる刺激に対する反応ではない。「歴史」をその拝見にもつ。・・・つまり、物を作り、行為するにしても、ただ単に物を作り、行為するのではなく、どう行為すべきか、何を制作すべきかと言う課題を歴史から与えられながら行為し、制作するのである。」(p.136)

「我々の身体的自己は歴史的世界に於て創造的要素として、歴史的生命は我々の身体を通じて自己自身を実現するのである。歴史的世界は我々の身体によって自己自身を形成するのである……。」(西田幾多郎「論理と生命」)

「歴史の課題を意識しながらなされる物を作るという行為が、単なる私の、内に閉じこもった行為ではなく、歴史的世界がそれ自身を形作っていく手段であること、そのような意味でわれわれが歴史的世界の「創造的要素」であることがここで言われている。」(p.137)


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