西洋と東洋の思想を行き来して考える:『西田幾多郎:生きることと哲学』を読んで

2018.04.15 Sunday 17:24
井庭 崇


これは世界が世界になろうとするという視点であり、物語は物語になろうとする(宮崎駿)ということを、「無我の創造と」して実現させるということと似た視点の持ちようである。いずれにしても、パターン・ランゲージでは、そのような視点も踏まえて、「どう行為すべきか、何を制作すべきか」ということを引き継ぎ、次の実践へと活かすという橋渡しをする。パターン・ランゲージをつくるということは、そのような「歴史」「環境」、そして世界の成り立ちを、行為・実践の観点から理解していくということに他ならない。言い方を変えると、僕らは、パターン・ランゲージをつくりながら、行為・実践の観点から物事・世界を見て、その連関のシステム(系・体系)を理解しようとしているということになる。その複雑なシステムを理解していこうという取り組みは、僕が複雑系の研究から、研究の道をスタートしたということと無関係ではないのである。


最後に自己を超えたものに関する部分が面白いので、取り上げたい。

「自己の底に徹して、自己を自覚的に把握するとき、われわれは、「絶対無限なるもの」に、つまり自己を超えたものに出会う。しかし、この自己を超えたものは、自己の単なる他者ではない。まさにそこに西田の宗教理解の大きな特徴がある。」(p.151)

「一般的には、宗教における絶対的存在は自己の外にあると言われる。しかし、西田は、絶対的なものをそのように単に超越的な存在として捉えることに反対する。・・・われわれがわれわれの自己の底に徹したときに出会われる絶対的に無限なものは、「自己がそこからと考えられるもの」、つまり自己の根底にほかならない。われわれはそこでわれわれを生かしているものに出会うのである。」(p.152)

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