西洋と東洋の思想を行き来して考える:『西田幾多郎:生きることと哲学』を読んで

2018.04.15 Sunday 17:24
井庭 崇



この「自己と絶対的存在(自己を超えたものでありつつ、自己の根底である存在)」の二重性への視座が西田哲学の重要な部分であると思う。自己とは異なる他者に神を見るのではなく、その自己の底に無限なる絶対的な存在を見るのである。

この根底の話は、何度も取り上げている、村上春樹の地下二階が他の人にも通じるという話や、河合隼雄が「個を突き抜けた普遍」として語ること、そして、アレグザンダーが「deep feeling」と呼ぶ層の話に、通じていると僕には思えるのだ。というよりも、そこがつながると、とても面白いと感じている。

最後に、西田幾多郎の哲学が何をしようとしていたのかということについて、自分の学問の立ち位置を考える上で示唆的なところがあったので、取り上げて締めくくることにしたい。西田は西洋哲学も学び活かしながら、東洋思想との関係のなかで哲学したということについてである。それは、僕ら日本人が哲学し研究することにどのような可能性があるのか、ということでもある。


「西田のなかに生きていた東洋思想の伝統・・・・そのような伝統を踏まえて、西洋哲学が前提にしていた思索の枠組みを明るみに出し、それを突破し、事柄そのものに迫るということが可能になったのではないだろうか。あるいはより正確に言えば、東洋と西洋のはざまに立って、西田は西洋哲学を相対化し、それがはらむ問題点を掘り起こしていったように思われる。」(p.161)

[7] << [9] >>
-
-


<< 哲学するということ:永井均『西田幾多郎』を読んで
新規メンバー募集!井庭研 Natural & Creative Living Lab(2018秋)シラバス >>
[0] [top]


[Serene Bach 2.20R]