2018.04.15 Sunday 17:24
井庭 崇
「西田は「純粋経験」について語ることによって、まさにそのような西洋哲学の「人工的仮定」に光を当てたということができる。そしてそれが可能であっったのは、西田が西洋のそれとは異なった言語的、文化的前提に立って思索する人であったからであろう。・・・主語を必ずしも必要としない日本語の場合には、ヨーロッパの緒言説に見られるような主体=主語の優位性は存在しない。そのことと、西田が「主観-客観」という構図から描かれる以前にそのまなざしを向けたことは、決して無縁ではないと考えられる。」(p.192-193)
「日本の伝統的な文化のなかでは、無心ということ、あるいは己れを空しくするということが理想の境地として語られてきた。そのようなことも、西田のものの見方に深く影響を与えたと考えられる。」(p.193)
「西田は東洋の思想を外から眺める眼をももった人であった。晩年しばしば東洋思想には論理が欠けているという批判を行い、しきりに「東洋の論理」を構築する必要性について語っている」(p.161)
「西田は、西洋文化が「有を実在の根柢と考える」のに対し、東洋文化は「無を実在の根柢と考えるもの」であらるというように、二つの文化を類型化し、対比的に論じている。「無の思想」という言葉で東洋の ? 具体的にはインド、中国、日本の ? 文化に見られる共通の特徴が言い表されているのであるが、しかし同時に、そこに存在する差異にも目が向けられている。西田によれば、インドの無の思想が「知的」な正確を強くもつのに対し、中国の無の思想は「行【ぎょう】的」な正確を強くもつ。それに対して日本の無の思想は「情的」な特質をもつ。」(p.164)
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