『音楽を「考える」』(茂木・江村)

2008.07.07 Monday 12:57
井庭 崇



江村 「自分の体内から出てくる何らかの響き、新しい響きを聴きだすことが、作曲という営みではないか。じっと耳を澄まして自分の内なる音を聴くということ。それが自分の音楽であり、それを楽譜にするというプロセスこそが作曲ではないか、と思い至りました。」(p.81)

江村 「『きく」も、『聞く」ではなく『聴く』、つまり hear ではなく listen です。つまり音に対して自発的に向かっていかなければ聴こえない。自分が音に向かうことで、そこに『聴く』という創造が生まれてくる。」(p.44)

茂木 「現代には『聴く』が欠けている。僕の経験からしても、何か新しいことを思いつくときは、たしかに耳を澄ませています。内面から聴き取ったことが、僕の場合は、ある概念や考えという形になって外に出ていくんだけれども、江村さんはそれを音楽で表すわけです。『聴く』ということは、自分の内面にあるいまだ形になっていないものを表現しようとすることだと思うんです。」(p.33)

しかし、このような自分の内なるものを「聴く」ということは、容易なことではない。なぜなら、それは日常生活で保たれているバランスをあえて失わせ、自分の心を切り裂いて、その奥へダイブしていくような行為だからである。それはある意味、危険な行為でもある。

江村 「作曲ということの一つには、自分の心の奥底にある、ある意味では決して開いてはいけない部分に、何かを探って切り裂いていく、そういう過程があるんです。」(p.20)

江村 「見たいんだけれども見てしまったらだめで、全てが終わってしまうようなこと。ここでぎりぎりに止めておくのか、それともあっちの世界に行っちゃうのか、その境界線のところが創作という行為の本質だと思います。自分の胸を切り裂いていくことに近いものがあります。それを茂木さんは『自分が傷ついていくこと』と表現しています。自分が傷つくことをやっていながら、『傷ついている』ことそのものを表現してしまったらおもしろくともなんともない。その『傷ついていく』プロセスが何か新しいものを生み出すわけです。いわばぎりぎりの境界線上に位置しながら生み出し続ける。」(p.21)

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